第65話 スピードアップ!(4)
「思っていたよりも早く、ラップ68秒の感覚を掴み始めたようだな」
フランベーエフ室内競技場の外で待っていたマゼラウスが、ヴァージンにまず告げた言葉はそれだった。マゼラウスの目が笑っているのを見て、ヴァージンがレース中に感じたことが間違っていなかったと悟った。
「私も、2000mあたりでスピードをキープできていると気付きました。コーナーが多い分だけタイムロスになりましたが……、無意識にラップ68秒を出せるようになったからこそ、室内世界記録があると思います」
ヴァージンがさらりとそう返すと、マゼラウスがやや眉をひそめるのが彼女の目に映った。
「ヴァージンよ。いま、無意識と言わなかったか」
「無意識です。意識しているうちは小刻みにペースを変えていたので……、それがなくなったということです」
「そうか……。こんなに早くその領域に達するとは……、やはりお前は実力のあるアスリートなんだろう」
マゼラウスは眉をひそめた状態で、一度、二度とうなずいた。いつになく落ち着いた声で「教え子」に告げたマゼラウスは、それから青い空に向かってそっと息をついた。
「とりあえず、今日の出来次第ということにしていたが、お前のオリンピックまでのスケジュールをメドゥと話し合った。せっかく好タイムで走り切れたから、私とメドゥの案をお前に相談したいが、いいか」
「はい」
ヴァージンは、大きくうなずきながらマゼラウスに返した。先ほど芝生の上でうっすらとその姿を思い浮かべたプロメイヤを、彼女は再び思い出す。だが、それから数秒も経たないうちに、一つの言葉で消えていった。
「いろいろ情報を探ってみたが、プロメイヤは去年世界記録を叩き出した時点で、オメガ代表としてオリンピックに内定している。その間は、大学対抗の大会には出るが、シニアのレースには一切出ないと言ってるようだ」
「プロメイヤさんのレベル的には、もう陸上部員じゃなくてトップアスリートと言ってもいいくらいなのに……」
いまやヴァージンの最大の宿敵となったプロメイヤが、あくまでも大学生として活躍することに、ヴァージンは小さなため息をつかなければならなかった。直接対決が、あと半年以上お預けになるということを意味する。
(イーストブリッジ大学に在籍していた頃の私は、陸上部が解散したのもあるけど、ほとんど大学対抗のレースに出ず、今と同じようにトップレベルのライバルが集う大会にしか出ていたのに……)
最初にその走りを見たときから、プロメイヤはあくまでも数少ない「本番」にその全てを出し切るようなタイプの選手だと、ヴァージンは感じていた。出場する大会でさえも調整することは、プロメイヤの性格を考えれば当然のこととは言え、早く勝負したい身にとっては悲しみさえ誘われる。
「そこでだ。プロメイヤと同じように、序盤から飛ばしていくもう一人のライバルに、当面は照準を合わせよう」
「メリナさんですか」
即答したヴァージンに、マゼラウスは言葉を考える余裕すらなく、大きくうなずいた。
「メリナ・ローズ。お前が何度か敗れた相手だ。ここ最近はお前のほうが勝っているが、メリナの自己ベストも56秒台。ラップ68秒で挑まなければ、そんな楽に勝たせてはもらえない相手だ」
「メリナさんが出るレースを、コーチは知っているんですか」
「ガルディエールが、去年の年末にメリナとばったり会って、そこで告げられた。今度こそお前に勝つと言って」
ヴァージンは、ガルディエールの表情を思い浮かべながら、少しだけ目を細めた。
「ガルディエールさんが……。少し前まで私のエージェントだったのに、年々敵対心が増していますね」
「まぁな……。お前から離れてからも成長を続けていることで、お前に対して敵対心が生まれるのかも知れない」
「たしかに……。それで、メリナさんが出るレースはどこですか」
「リングフォレストだ。お前も、ほぼ毎年出てるだろ。そこに、メリナがオリンピック前哨戦として出るそうだ」
メリナの出場予定を告げたマゼラウスは、自信たっぷりの表情をヴァージンに見せた。その目線に、ヴァージンが首を縦に振らないわけにはいかなかった。
「私も出ます。あと4ヵ月ありますし、今日感じたラップ68秒のペースを、その日に向けて完成させます」
「その意気だ。メリナの背中をラップ68秒で追いかける姿、今から楽しみにしているぞ」
「分かりました」
二日後、誰もいない家に戻ったヴァージンは、壁に飾ったカレンダーにリングフォレスト選手権の日付を赤で丸く囲った。既にオリンピックの開会式と、10000m、5000mの予選と決勝の日付がチェックされていたカレンダーに、さらに一つ「勝負の日」が加わっていく。
だが、リングフォレスト選手権の文字を書いたところで、ヴァージンはペンを止めた。
(でも……、戦える相手は本当にメリナさんだけなんだろうか……)
女子5000mで、自己ベスト13分台を持つ選手は、プロメイヤ、メリナ、カリナ、そしてヴァージン自身の4人だった。だが、その4人の中に一人割り込んできそうなライバルがいることを、ヴァージンは忘れなかった。
(そう言えば、ロイヤルホーンさん、あれからどうしたんだろう……)
――私は、10000mよりも5000mのほうが似合っているのかも知れない。
昨年の世界競技会で、ヴァージンに向けてそう言ったロイヤルホーンの表情が、ヴァージンの脳裏に思い浮かんだ。たしかに、10000mの中盤でも勝負を仕掛けられるようなロイヤルホーンの走り方を見れば、彼女が5000mに挑んでも別におかしくはない。だが、それから何の音沙汰もない。
(もしかしたら、あの後でプロメイヤさんという強力なライバルが出てきたから、5000mに挑戦するのをためらってしまったのかも知れない……。でも、ロイヤルホーンさんの5000mも、一度でいいから見てみたい……)
ヴァージンはふぅとため息をついて、パソコンの前に座った。
(私がロイヤルホーンさんに出場予定を聞くなんて、今までアスリートをやってきて一度もやったことないし)
そう心に言い聞かせるものの、ヴァージンはメールの画面を開いていた。ロイヤルホーンの個人サイトの中にあるスポンサー依頼用のメールアドレスさえ入れれば、彼女か代理人と話ができる。だが、メールを開いた直後に、彼女は小さく首を横に振った。
(こんなアプローチをしちゃいけない……。スタジアムで出会って、強力なライバルがいると気付くことだって、今まで何度も経験してきたのに……)
ヴァージンは、開きかけたメールボックスをすぐに閉じようとした。だが、その手は止まった。
(えっ……)
彼女は、思わず息を飲み込んだ。家に戻ってから何度も意識してきたはずの名前が一番上に現れた。
(ロイヤルホーンさんから……、メールが来ている……。しかも、これ……)
タイトルには「5000m、いつ出ますか」とあった。ヴァージン自身が、つい先ほど同じようなことをしようとしていたとは言え、ライバルからそのようなメールを直接受け取ることなどプロアスリート15年目の彼女にはほとんどなかった。
(私とロイヤルホーンさんが、全く同じことを考えていたなんて……)
既に、5月のリングフォレストでのレースを決めたヴァージンは、「リングフォレスト」と返信しようとした。だが、プロメイヤと戦うことになる8月のオリンピックよりも前にもう1レース入れてみたいという誘惑が、それから数秒後にはヴァージンの脳裏を包み込んだ。
(今年、スタイン選手権に出てみようかな……。でも、それだと私のほうが譲歩しちゃうような気がする……)
たしかに、毎年6月にはロイヤルホーンの出身国アフラリでスタイン選手権が行われる。昨年の世界競技会でも使われた会場だ。だが、ロイヤルホーンの側からいつ出るかを聞かれている状態で、真っ先に「スタイン選手権」と答えるわけにもいかなかった。
(これは、メドゥさんと相談しなきゃいけない話だし……)
返信は後にしよう、とヴァージンが決めたその時、再びメールボックスの一番上にロイヤルホーンからのメールが入ってきた。そこには一言、こう書かれていた。
――私は、6月のスタイン選手権……、ではなくセントイグリシア選手権を目指して調整している。
(セントイグリシア……。スタイン選手権のもう少し後にある大会だったはず……)
そこは、昨年ヴァージンが自己ベストを叩き出しているスタジアムだった。その会場で、ラップ68秒を手に入れたヴァージンがロイヤルホーンの前で再び世界記録を取り戻すのであれば、これほど喜ばしい出来事はない。ヴァージンの想いは、わずかな時間に紡がれていった。
「5月のリングフォレスト、6月のセントイグリシア。そして、プロメイヤさんが待つオリンピック……。とりあえず、これで行こう」
ヴァージンは、まだ代理人に打診していないにも関わらず、カレンダーにセントイグリシア選手権の日程に印をつけていたのだった。