第65話 スピードアップ!(3)
ヴァージンが8年ぶりに訪れたフランベーエフの室内競技場は、信じられないほどに内装がきれいになっており、トラックも眩い青色に塗り替えられていた。前回この競技場でレースを行った時は、エクスパフォーマのモデルアスリートになってすぐの頃だったので、彼女はスタジアムに足を踏み入れた瞬間に、それからの8年間が実に短いものだったということを、流れる空気で感じるのだった。
この1ヵ月、室内練習場よりも外のトラックのほうが走った回数の多い「フィールドファルコン」に、ヴァージンはそっと目をやった。
(8年前、ここに出た時には、「マックスチャレンジャー」で走るのにようやく慣れてきた頃……。そこから「Ⅴモード」に乗り換えて、今は「フィールドファルコン」……。このシューズにとっては、最初の室内選手権……)
受付で名簿を確かめる限り、アウトドアで自己ベスト13分台を叩き出しているライバルの名前はなかった。それだけに、このレースはこれまで見せてきたペースよりもスピードを上げられているかを自分自身で確かめなければならなかった。
(室内は、記録が出にくい……。でも、私の脚は室内でも13分台を叩き出せている……)
昨年のイーストフェリル室内選手権で、ヴァージンの出した室内世界記録は13分59秒68。この1年でヴァージン以外にインドアの女子5000mで13分台のタイムを出した選手はいない。「フィールドファルコン」を履いて初めての挑戦となる今回、スパートに入る前のペースを集中的に上げてきたヴァージンが14分台で終わるわけにはいかなかった。
(この1ヵ月のトレーニングだと、インドアは14分00秒台がやっと……。でも、少しずつタイムを上げられているから、今日このレースがインドア5000mの一番の出来になるに決まってる……)
天井からの眩い光に照らされた金色の髪を揺らしながら、集合場所に移動するヴァージンは自身にそう誓った。
「On Your Marks……」
スターターの声が響き、壁に反射する。これから走り始める1周200mのコースを、ヴァージンは見つめた。
(よし……)
号砲が鳴り、ヴァージンはラップ68秒のペースを意識しながら、短いコーナーで一気に加速した。数名のライバルが、ヴァージンのペースに合わせるように真後ろから追いかけてくるものの、大した自己ベストを持っているわけではないそのライバルの足音すら、彼女は全く意識しなかった。
(ラップ68秒のペースを、本番でどれだけ意識できるか……。今日の私は、それが最大の目標なのだから)
200mを駆け抜ける時、ヴァージンの体は想定していたペースをはっきりと感じた。だが、すぐにコーナーが訪れ、体を傾けたときに少しだけペースが落ちるのもまた、体で感じるようになっていた。
(なかなかラップ68秒ペースで走り続けるのはきつい……。ずっと意識しないとペースが落ちてしまう)
アウトドアよりもはるかに短い直線で、ヴァージンはペースを取り戻し、次のコーナーに差し掛かったときには少しだけ加速するようにして「難所」に挑んだ。すると、コーナーを抜け切ったときにそれほどペースが落ちているようには感じなかった。
(これを、あと17周ぐらい意識し続けるか……。理想は、意識せずにラップ68秒で走り続けることだけど……)
1000mをヴァージンの体感では2分51秒ほどで駆け抜けると、早くもヴァージンの前に最後尾のライバルが迫ってきた。アウトドアよりもはるかに多い、周回遅れの選手の追い抜きもまた、一度掴みかけた彼女のペースを乱していく。その度に、ヴァージンは目標としているペースで走れているか、わずか数歩で意識しなければならなかった。
そのような中でも、ヴァージンは少しずつ手ごたえを感じ始めていた。
(今までのように、1200mとか1600mでペースが落ちていかない……。何度もラップ68秒に戻そうとしている)
次々とライバルを追い抜いていくことで、「翼」にスイッチが入ったのか、まだ中盤に差し掛かったばかりであるにも関わらず、「フィールドファルコン」が力強く飛んでいるように、彼女の足は感じた。ペースを小刻みに変えていくような意識的な走りではなく、無意識のうちにラップ68秒のペースを作れているようだった。
(まだ完璧とは言えないけど……、私は少しずつラップ68秒の世界が分かってきたような気がする……!)
ライバルを追い抜いたり、コーナーを抜けたりしたときには、少しだけペースが落ちているが、ヴァージンが意識するよりも、彼女の足が早くスピードを取り戻していた。レースという勝負の場でそれができていることに、彼女は心の中で何度もうなずいた。
(これができるということは、私はもうラップ68秒で走ることにためらいがないのかも知れない……!)
自己ベストがヴァージンよりも1分近く遅いライバルしかいないレースで、ヴァージンはその後も数多くの選手を追い抜いた。3000mを8分33秒ほどで駆け抜けると、彼女は少しずつラストスパートを意識し始めた。
(今のペースは、室内でのトレーニングでも出したことがない。4000mからスパートを見せれば、きっと室内記録も塗り替えられるはず……!)
昨年、「Ⅴモード」での走り納めになったイーストフェリル選手権では、彼女はラストスパートでかつてないほど「Ⅴモード」からパワーを感じ、その結果13分台で走りきることができた。かたや400m68秒ペースで挑み続けている「フィールドファルコン」は、彼女の足元で疲れたような素振りも見せていない。あとは、ヴァージンの脚が、始めての「本番」でどれだけペースを上げられるかにかかっていた。
(4000mになったら、まずは1周33秒、その後に31秒まで上げていく……。体はまだ、大丈夫だから……)
一気に数人のライバルを追い抜いた直後、ヴァージンの目の前に4000mのラインが飛び込んできた。そのラインを「フィールドファルコン」で力強く踏み込んだ彼女は、体をやや前に傾けながら一気にペースを上げた。
(4000mで11分24秒から25秒と出ていた……。間違いなく世界記録を破れる……!)
400m68秒のペースで走り続けてきた脚は、自身の最大の武器を忘れたと言わせないばかりに、コーナーで一気にスピードアップに成功した。直線に差し掛かったときには、彼女は400m65秒ほどのペースを体で感じ、これまでよりも短い時間でライバルを追い抜いていく。
(まだまだ……。私のスパートは、これからが本番だから……!)
4200mからさらにペースを上げたヴァージンは、次の1周を31秒で駆け抜ける。4400mを駆け抜ける時、すぐ横の記録計に12分30秒という文字が見えたとき、ヴァージンは早くも次の世界記録を確信した。
(ここから、さらにペースを上げる……!)
ざっと数えただけで5人以上はいる集団を真横から追い抜いた直後、ヴァージンはアウトドアで何度も見せてきたラストスパートに挑んだ。全く風を感じない室内の競技場でも、スピードに挑み続ける「翼」は全く怯まない。400m55秒ほどのスピードは、この日もまた彼女はその足元で感じた。
トップスピードのまま、ヴァージンはゴールラインを駆け抜ける。スタジアムからの歓声が、ゴールに飛び込む彼女を包み込んだ。
13分58秒31 IWR
(1秒ちょっと、自分の室内記録を縮められた……)
ヴァージンは、見つめた記録計に荒い息を吹きかけながら、自らの記録を心の中で復唱した。これまで何度も世界記録を破り続けた「フィールドファルコン」で、インドア記録の更新も当然だと思いながらレースに挑んだ分、縮めた時間は短いながらも、彼女の体には自然と安堵感が漂っていた。
(でも、今日何よりの収穫は……、ラップ68秒のペースを中盤でも感じていたこと……。少しずつ、ラップ68秒をキープできる時間が長くなっているし、「フィールドファルコン」もラップ68秒で走り続けたいという私の気持ちを分かりつつあるのかも知れない……)
ヴァージンは、呼吸を整えながら足元を見た。「フィールドファルコン」が、相変わらず次のレースに走り出そうと、ヴァージンに語り掛けているようだった。同時に、それを従える足もまた、ラップ68秒のペースをしっかり刻み込んだかのように力強く見えた。
(プロメイヤさんと……、プロメイヤさんの世界記録といつ勝負するかまだ決めてないけど、私は戦う準備ができている。あとは、ラップ68秒のペースで本番を走ればいいだけ)
ようやく2位の選手がゴールラインを駆け抜ける中、ヴァージンの心には昨年の世界競技会で見せつけたプロメイヤの涼しげな表情が繰り返し映し出された。それは、いずれ挑まなければならない相手であると同時に、今すぐにでも挑みたいライバルであることを、この時の彼女ははっきりと感じた。
(プロメイヤさんに……、私は勝つ!)