第65話 スピードアップ!(2)
ヴァージンがラップ68秒で走ることを決めてから1週間が経ち、マゼラウスの目の前で新しい「戦術」を見せる日がやってきた。この日は、マゼラウスのほうがトレーニングセンターに先に来ており、ヴァージンが連取上に姿を見せたときには、珍しくトラックを走っていた。
マゼラウスの走るペースは、ヴァージンにとってすぐ分かるものだった。
(コーチも、ラップ68秒を意識している。引退して何十年も経つからもがき苦しんでいるけど……)
すると、マゼラウスはヴァージンの姿に気付いたところで走るのをやめ、呼吸を整えながらゆっくりと彼女の前に近づいた。マゼラウスは、見られてしまったというような目でヴァージンを見つめていた。
「お前がラップ68秒と言ったから、私もやってみた。なかなかペースを感じるのは難しいな。お前はどうだ」
「私も同じです……。自主トレで、4000mを11分20秒で走れたことは、一度もありません……」
「そうか。だが、これまで68.2秒で走り続けてきたお前のことだ。出してはいけないペースを知っている。それだけは、最低限のラインとして守って欲しい」
「分かりました」
それから2時間、普段と同じように400mインターバルなどのメニューを重ねる間、マゼラウスはヴァージンのラップのことについて全く尋ねなかった。だが、マゼラウスは事あるごとにヴァージンのストライドを観察しているように、ヴァージンは気配で感じた。それが逆に不気味でならなかった。
(この前コーチは、私の自主性に任せると言った……。それができているか、見られているかも知れない……)
徐々にラップトレーニングの時間が近づくにつれ、ヴァージンの周囲に軽い緊張感が漂うのを彼女は感じた。
「今日もやってみるか。ラップ68秒のラップトレーニングを」
その瞬間を待っていたかのようなマゼラウスの号令に、ヴァージンははっきりとうなずいた。「フィールドファルコン」でやや強くトラックを踏みしめ、それから彼女はゆっくりとスタートラインに向かう。
(ラップ68秒……。途中でペースがバラバラにならなければ、今までで一番の走りができるはず……)
この1週間、少なくとも最初の1000mまで走りが落ち着かなくなっていることを、ヴァージンの脚は感じていた。それが全体のタイムを押し下げる結果になっていることも分かっている。だが、そのことが彼女に「そうしてはいけない」走り方ばかりを増やし続けていることもまた、彼女の脚は感じ始めていた。
(今日、コーチに何が問題なのか教えてもらおう……。少なくとも、この5000mは自由に走りたい……)
ヴァージンの目が、マゼラウスの顔に向いた。マゼラウスは、ヴァージンを見守るような目で見つめていた。
「On Your Marks……」
マゼラウスの聞き慣れた声で、ラップトレーニングのスタートを告げる。ヴァージンはトラックに目をやって、力強くうなずき、最初の一歩を踏み出す右足に軽く力を入れた。
次の瞬間、マゼラウスの「Go!」という掛け声とともに、ヴァージンは一気に加速していった。最初の
コーナーの中盤までに、ラップ68.2秒のペースをはっきりと感じ、そこから足を叩きつけるテンポをさらに上げていく。直線に差し掛かる頃には、ヴァージンは全身でラップ68秒のペースを感じ始めていた。
(たぶんこれが、ラップ68秒のペース……。68.1秒とか……そこまで遅くなってはいないはず……!)
68.2秒のペースに慣れ親しんだ分、ラップ68秒はレースで差をつけられたときにしか出していない。だが、その数少ない機会に出したペースでさえも、彼女の脚ははっきりと覚えているのだった。
(68秒……。あとは、このペースを積み重ねていくしかない)
2周、3周とラップを重ねていくうちに、ヴァージンは「フィールドファルコン」がこの段階では珍しく「飛んで」いるように思えた。足をトラックに叩きつけていることをほとんど感じないまま、彼女はほとんどペースを落とすことなく、ラップトレーニングを突き進んでいく。2000mを彼女の体感では5分40秒ほどで駆け抜けたと気付いたとき、それまで少しだけ感じていた不安は、ほんのわずかの確信へと変わったのだった。
(これなら、52秒台……、いや51秒台だって夢のタイムじゃないかもしれない……!)
だが、決して気を緩めたわけではないにもかかわらず、ヴァージンは足を踏み出すテンポが少しずつズレ始めていることに気が付いた。ラップ68.2秒まで下がっていないことは間違いないものの、慣れ親しんだそのペースに近づいていることははっきりと想像できた。
1周ごとにその横を通り過ぎていくマゼラウスからの視線が、徐々に細くなっているように、彼女は思えた。
(大丈夫……。まだ、世界記録に食らいつけるはず……)
4000mの通過が、体感的には11分21秒になるかならないか。そこでヴァージンは一気にペースを上げた。既に「翼」を広げていた「フィールドファルコン」が、さらに力強く羽ばたき、ヴァージンのペースを一気にラップ65秒までいざなう。
(最後までスパートが決まれば……、世界記録だって夢じゃないはず……!)
4200でラップ62秒へとギアチェンジし、そしてラスト1周でラップ55秒までペースを跳ね上げ、ヴァージンはスピードを緩めることなくゴールへと飛び込んだ。足をもたつかせながら芝生へと移ったヴァージンのもとに、マゼラウスがゆっくりと近づき、ストップウォッチを見せる。
「13分53秒78……。想像していたタイムと、全然違う……」
見せられたタイムに、ヴァージンは一気に息を吐き出さずにはいられなかった。自己ベストすら更新できなかったことを告げられ、彼女は力強い飛翔をつづけたはずのシューズをまじまじと見つめた。
その横で、マゼラウスがふぅとため息をつき、一呼吸置いて彼女にそっと告げる。
「たしかに、ラップ68秒に近づけようとしていたのは分かった。だが、最初の1周でそれを意識した結果、少しずつペースが落ちていることを、お前自身の体も気付かなくなっていたようだ……」
「私は3000mぐらいで、ペースが落ちていることに気付きました……。そこからペースを戻そうとしましたが、体が4000mまで待とうと決めていたように思えてなりません……」
ヴァージンがラップトレーニング中に感じたことをありのままに伝えると、マゼラウスはただ一言「だろうな」とだけ告げ、もう一度ため息をついた。
「トップアスリートのお前でも、1週間という短い期間では難しいようだ……。だが、少しずつそれを意識していけば、いつかはラップ68秒で走り続けられるようになる」
「いつかは……。私、絶対にペースで走れるようになりたいです」
「まぁ、いつもとは言わない。少なくとも、ラップ68秒よりも速いペースでレースを進める、プロメイヤやメリナのようなライバルがいる場面では、コンスタントに68秒を出せるようになるところまでが目標だ。ラップ68.2秒と68秒では、お前の最大の武器を使うまでに2秒短縮できるわけだからな」
マゼラウスがヴァージンに向けてうなずくと、ヴァージンもそれに応えるようにうなずいた。
(まだ経験が足りない……。68.2秒だって、やっとの思いで掴めたから、68秒も必ず体で覚えられるようになるはず……!)
フランベーエフでの室内選手権が迫っているにも関わらず、ヴァージンはシーズンオフのこの時期としては珍しく、ほぼ毎日のようにトレーニングセンターで5000mのタイムトライアルを重ねた。勿論、4000mを11分20秒で走ることが彼女にとって最大の目標だった。
「13分54秒39……。昨日より遅くなっている……」
マゼラウスすらいない、夕暮れ迫るトラックの上で、ヴァージンはストップウォッチに向けてため息をつく。プロメイヤに奪われた世界記録からこの日もまた遠ざかることになった結果に、彼女の全身からどっと疲れが出てきた。
(足は、確かにスピードを感じているのに、いつの間にかそれが消えてしまう……。走っているうちに、ペースを忘れてしまっているのかも知れない……)
トラックを足で踏みしめながら、ヴァージンはこの日のペースを少しずつ思い返す。やはり、序盤の2周、3周ではペースを掴めているものの、そこからはかつてのペースに戻されていくように思えた。
(それにしても、プロメイヤさんといつ戦えるのだろう……)
間もなく、年が明ける。オメガスポーツ大学に通っているプロメイヤが、そこまで遠征を重ねるはずがないと、ヴァージンは真っ先に考えた。
(オメガ国内で開催される大会か……、もしかしたらオリンピックまで会えないか……)
エインジェリア共和国のプロトエインで行われる、4年に一度のスポーツの祭典。女子5000mの世界記録を手にしたプロメイヤがそこに出ないという選択肢はなかった。だが、それまで会えないとなれば、ヴァージンはプロメイヤの姿を見ることなしに世界記録を奪い返さなければならない。記録を奪い返す前に表舞台から姿を消した、ウォーレットと同じ状況になる。
(プロメイヤさんを待つことなく、私は自分の世界記録を奪い返すしかない……)
ヴァージンは、夕暮れの空を見上げながら、はっきりとそう誓った。