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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
オリンピックの灯は消えない
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第65話 スピードアップ!(1)

 夫のいない生活に慣れるまで、ヴァージンは4ヵ月かかった。いつの間にか31歳の誕生日を迎えていた彼女は、その日の夜、誰もいない広い家の天井に向かってふぅとため息をついた。

(プロメイヤさんに負けたことで、レースのやり方を変えなければいけないとずっと思っているのに……、そこから背を向けている自分がいる。次にエントリーしているフランベーエフ室内選手権も近づいているし、このままじゃいけないはず……。私は、走ることが闘いなのだから……)

 5000mのタイムトレーニングでは、相変わらず68.2秒ペースから抜けきれない。しばらくアウトドアでのレースがない分、マゼラウスもヴァージンのペースについてそれほど強く言ってこない。だからこそ、この4ヵ月の間、トレーニングでは世界記録――今は自己ベストとイコールではない――に食らいつけずにいるのだった。

 ヴァージンは、カレンダーに目をやった。イルタゴのフランベーエフ選手権までは、1ヵ月ほどしかなかった。

(いい加減、本気を出す。プロメイヤさんに勝つために……、引き離すために、何ができるかを考えなきゃ……)


 翌朝、ヴァージンは普段以上に早くエクスパフォーマのトレーニングセンターへと向かった。まだ誰もいない室内練習場で軽いストレッチを済ますと、彼女は外のトラックへと向かい、そこをゆったりとしたペースで走っている彼女の姿を思い浮かべた。

(75秒ペースは、明らかにゆったり……。72秒だってゆったり走っている……。それに……)

 ヴァージンのイメージが目まぐるしく変わり、やがて彼女はここ数年意識し続けている68.2秒ペースを思い浮かべた。それですら、ヴァージンにとってはスローペースに思えて仕方がなかった。

(このペース、「フィールドファルコン」がものすごく退屈そうにしている気がする……。戦いたいって私に語りかけているし……。それに、5000mを走り終えてもそこまで疲れてない……)

 その時、ヴァージンの脳裏に聞きなれた低い声が響いた。それはプロメイヤに挑む数日前、去年の世界競技会で10000mを走り終えた後、マゼラウスがヴァージンに何気なく告げた言葉だった。


――68秒ちょうどまで達するのは怖がっている。

――「フィールドファルコン」の力を、もっと信じていいんだ。特に5000mではな。


(間違いない……。私は、今まで「フィールドファルコン」を限界まで羽ばたかせたことが、ほとんどない……)

 彼女はこの日も、靴底で赤い翼を広げる「フィールドファルコン」でトラックを踏みしめていた。まだ走り出していないうちから、ヴァージンの全身にパワーを送っているのはこの日も変わらない。だが、この日は有り余るパワーとは別に、そのことを足に伝えているかのように思えた。

(プロメイヤさんは、ラップ68秒を少し切るペースで4000mまで走っていた。それであのスパートが出せる……。私だって、最後に失速しないのなら、もう少しペースアップしてもいいのかも知れない)

 その時、ヴァージンの背後から聞きなれた足音が響き、彼女はトラックに集中していた目線を後ろにやった。

「トラックをじっと見つめるのは、勝負に挑む前のお前だ……。こんな朝早くから見られるとは思わなかった」

「コーチ……。ちょっと、イメージトレーニングしていました」

「どういうイメトレだ。ランニングフォームの改良か。それとも……」

 マゼラウスがヴァージンの横に立ち、先程ヴァージンがそうしていたのと同じようにトラックを見つめた。

「序盤や中盤のペースです。68.2秒を続けていたら、プロメイヤさんには勝てないと気付いたんです……」

「私も、お前と同じ意見だ。世界競技会の時に分かっていたが、あえてお前自身で考えて欲しかった」

 マゼラウスの声は普段以上に低く、ヴァージンの耳にはそれが逆にささやいているように感じた。ヴァージンがマゼラウスの目を見つめると、マゼラウスもトラックから目を反らしヴァージンに向き直った。

「お前はもう、私が率先して戦術を変えるようなアスリートではない。お前が決めた戦術で戦えるようにするために、私はお前にアドバイスをするだけだ。だからこそ、5000mでプロメイヤに負けたお前がどう変わるか、この4ヵ月間、私はずっと待っていた……」

「そうだったんですね……。私もいま、ちょうど決めたばかりです。自分自身が取りたい戦術を」

「ラップ68.1秒に上げるのか。それとも、68秒に挑むのか」

「68秒です。68秒なら、今のスパートでラスト1000mを走っても、たぶん大丈夫だと思うのです」

「大胆に出たな……。慣れた戦術を変えたくないと、何度も私に言ってきたお前にしては珍しい……」

 そう言うと、マゼラウスは強く手を叩いてヴァージンにうなずいた。

「なら、ラップ68秒のラップトレーニングを近いうちに取り入れよう。ルールは前と同じだ。4000mまでそれで走り続けろ。ただ、あまりにラップが遅くならない限り、途中で止めはしないからな」

「いいんですか……。いつもラップトレーニングは厳しくやっているような気がするのですが……」

 ヴァージンは驚いたようにマゼラウスの目を見つめた。すると、マゼラウスはその視線を待っていたかのように、彼女に向けて首を縦に振った。

「お前と『フィールドファルコン』で、そのスピードを捕まえてみろ。そこらへんは、お前の自主性に任せる」

「分かりました」


 次の室内レースに向け、室内練習場でのトレーニングも入ることから、マゼラウスが同伴してのラップトレーニングは1週間後に決まった。だが、マゼラウスとの約束がない日でも、ヴァージンはトレーニングセンターに向かい、空いている時間を見計らって5000mの自主タイムトレーニングを始めた。

(ラップ68秒ちょうど……。このところ、あまり意識したことがないだけに、最初は感覚を掴みづらい……)

 5000mのスタートラインに立ったヴァージンは、最初のコーナーを抜けるまでどのように加速すればいいかを頭の中で思い浮かべた。ラップ68.2秒までは容易に想像することができるが、そこから先は「それよりも少し速いペース」という、霧を掴むようなイメージにしかならなかった。

(でも、コーチだって私に任せている……。私がそのスピードを掴み取るしかない……!)

 ヴァージンは心の中で3カウントを刻み、新たなスピードを感じるための5000mを走り始めた。最初のコーナーに向けてやや体を傾ける中、ヴァージンの体は早くもラップ68.2秒のペースを感じ始めていた。

(ここからもう少しスピードアップすれば……、きっと68秒ちょうどのラップで挑めるはず……!)

 コーナーの出口が見えてきた頃、ヴァージンはそれまでよりもややテンポを上げて、「フィールドファルコン」の底をトラックに叩きつけた。明らかに、ラップ68.2秒とは違うペースを感じた。

 だが、それから数歩前に進んだ時、彼女は自然と首を横に振っていた。

(68秒よりも、少し遅いかも知れない……)

 ヴァージンのペースが、直線の出口で再び上がっていく。だが、二度、三度と小刻みにペースを変えることが逆にヴァージンの両足に負担をかけていることを、ヴァージンは足裏の感触で気付くのだった。

(ペースが定まらない……。68.2秒と68秒の間をさまよっている……)

 10000mのロイヤルホーンの走り方が、もがき苦しんでいたころのヴァージン自身に重なっていると気付いたにも関わらず、戦術を変えようと挑んだヴァージンでさえもその走り方になってしまっていた。2周、3周と、なるべくペースを保つように走るが、想定していたタイムよりも1周ごとにほんのわずかズレていくのだった。

(自分でラップ68秒にしたいと言ったものの、なかなかその通り走るのは難しい……)

 2000mを体感的には5分40秒より少し遅いタイムで駆け抜けた時には、ヴァージンは序盤のラップを変えることの難しさにはっきりと気付いていた。序盤はラップ68秒に近づいていると感じた足でさえ、終盤に近づくにつれて慣れ親しんだペースのテンポがどうしても出てきてしまう。

 「フィールドファルコン」は、これまで通り力を温存し続けていた。

(4000m、11分22秒より少し早いくらい……。ここから、13分52秒台に挑むしかない……!)

 ヴァージンが普段と同じようにラスト1000mでペースを一気に上げていくものの、この時の彼女は13分52秒98――プロメイヤに出された世界記録――が果てしなく遠く感じた。ラップ55秒のラストスパートを肌で感じても、それは変わらなかった。


 ヴァージンは、ゴール直後にストップウォッチを止めた。13分54秒73と出ていた。

(大丈夫……。これがスピードアップの最初だと思って、ペースを上げていくしかない)

 マゼラウスの前で正確なタイムを見てもらう日のことを、この時の彼女は何よりも意識し始めていた。

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