第7話 潰えかけたヴァージンの夢(5)
「こんな形で、見送らなければならんのは、こちらとしても残念だ」
「はい……」
ソファに浅く腰かけたヴァージンが最初の一言を聞いた瞬間、その目から涙を流す気にもなれなかった。それが自らに残された道だった。
この日まで、自分の主張を何度も言ったその口は、ウィナーの硬い表情を前に全く動くことはなかった。
「ヴァージンが、もっと将来性のあるアスリートであれば、セントリックにとって大変いい人材になったのだが……、そうではなかったようだ」
そこまで言うと、ウィナーはヴァージンの目の前に一枚の紙を差し出した。オメガ国に来てわずか1年のヴァージンにも、「解雇通知」を意味するオメガ語ははっきりと読めた。
「これで、終わりだ」
「はい……」
続いて、ヴァージンの目の前にサインペンが置かれ、彼女はウィナーの言葉のままにペンを握る。そして、署名欄に自らの名前を、これまでにないほどきれいな字で書き記した。
(終わってしまった……)
セントリック・アカデミーの意思とは全く違う強化選手としてアカデミーに雇われたこと。それは、決してヴァージンにとって不満を募らせるものではなかった。このアカデミーに入り、一筋縄ではいかないにしても記録は伸びていった。けれど、最初が誤りであったために、簡単にアカデミーを追い出されてしまう。
――コーチ。私、一からやり直します……。
ヴァージンの胸の内は、定まっていた。
しかし、サインを終えたヴァージンの耳に、聞き慣れたライバルの声が届く。
「ヴァージンが、もう一度本気で走る姿を、私は見たい」
「グラティシモさん……」
CEOがいるにも関わらず、ヴァージンは思わず顔をグラティシモに向ける。グラティシモの表情は、決して憤慨しているわけではなく、いたって穏やかだった。
「今日が、このアカデミー最後の日なんだから、最後ぐらい勝負をしてみたい」
「何を、話に入ってくる。グラティシモ」
ウィナーの表情が一瞬だけ緩む。だが、そんなウィナーの表情を、グラティシモは鋭く見つめる。
「このセントリック・アカデミーで、ヴァージンは私のいいライバルだったと思う。他のライバルたちは、大会の場じゃないと出会えないし。まだ何度も戦えると思ったから、あまりヴァージンとは勝負をしなかったけど、その気になればいつでも準備はできていた」
(グラティシモさん……)
自らの上達に繋がるか。その基準で、一度は誘いを断ったはずのグラティシモに、ヴァージンは思わず涙を見せた。グラティシモも、この時間が終わりを告げようとするのを、よしとはしていない。
ヴァージンは、グラティシモを見る。つい数日前、自己ベストを更新した自らの2番目のライバルが、彼女の瞳にはりりしく映っていた。
「そうか……。だが、この状態のヴァージンと勝負をしてもな……」
ウィナーは、軽く唸る。そして、グラティシモとヴァージンの表情を何度か交互に見つめ、ついに自分一人で考えるしぐさを見せた。
(ここで、私が言わないと……)
ヴァージンは、グラティシモの表情を軽く見つめた。そして、ウィナーに目線を戻すと、語りかけるように言った。
「私だって……、グラティシモさんと勝負をしたいです。機会さえあれば」
「意味が……、ないだろ。2位と……、予選落ちでは……」
「……っ」
ヴァージンは、もう一度だけ唇を震わせた。だが、CEOの落ち着いた一言に、次の言葉が出てこない。
このままじゃ、何もできずに終わる……。
「いま与えられたチャンスは、二度と巡ってこないと思います。少なくとも……私には」
「マゼラウス!」
一度、首を傾きかけたヴァージンの目の前に、マゼラウスが仁王立ちした。彼女の目の前に、これまで懸命に育ててくれたコーチが立つと、彼女の表情はわずかながら緩んだ。
「小さなアスリートが、いま戦おうとしているんです!CEOは、勝負の世界に携わるのに、その意志を摘み取ってしまうんでしょうか……」
(コーチ……)
つい数日前、ヴァージンに対して初めて本性を見せた、恐ろしいマゼラウスは、どこにもいなかった。ここまで育て上げた教え子を懸命に守るように、マゼラウスはウィナーに立ち向かっていた。
(私は……、まだ一人じゃない!)
あの時、殴られた痛みは、ヴァージンの顔にわずかに残っていた。けれど、その意味をわずかでも分かった今、マゼラウスに対する親しみが再び甦ってきたような気さえした。
「私……、今なら本気を出せると思うんです!走らせて下さい!」
ヴァージンは、マゼラウスの横に出て、懸命に頭を下げる。続くように、マゼラウスも頼み込む。
「彼女もそう言っている。せめて、最後の夢くらい、叶えさせてあげてください」
「……いいだろう。だが、これで最後だからな」
「えぇ」
ウィナーは、静かに首を縦に振った。わずかながらマゼラウスを睨みつけるようなしぐさを見せたが、その口元だけは、どこかしら笑っていた。
ヴァージンは、普段通り持参したウィンドブレイカーに身を包み、走り慣れたトラックに出た。やや遅れるようにして、グラティシモもトラックに出て、ゆっくりとスタート地点に向かう。これまで1年間のトレーニングで何度繰り返してきたか分からないウォームアップを済ませ、ヴァージンが先にスタートラインに立った。
アカデミーで生まれた長距離走のライバル二人を、マゼラウスやフェルナンド、それにウィナーがじっと見つめている。この速い時間帯から照りつけるような8月の日差しも、二人を遠くから祝福していた。
(この場所で走るのは、もう最後……)
その中で、ヴァージンの心は世界競技会を迎えたとき以上に燃え上がっていた。軽くグラティシモを見つめながら、ヴァージンはスタートラインで軽く膝を伸ばし始めた。
燃え立つような朱色のウェアが、ヴァージンの闘争心に、これまで以上に激しい火をつける。
やがて、マゼラウスの右手が下に降り、二人のライバルの目がその腕に集まる。
「スタート!」
ヴァージンは、右足から力強く前に踏み出した。イクリプスの黒いシューズが、オレンジ色に染まったトラックを力強く踏みしめる。そして、ややストライドを大きめにとるグラティシモの表情を軽く見た。
(今度こそ……、負けない!)
ヴァージンがその表情を横目で見た瞬間、グラティシモはほんの少しだけスピードを上げた。ほんの数日前、自己ベストを更新したその走りを、この何のタイトルもかかっていない場所でも見せるかのように、軽快にトラックを駆け抜けようとしていた。
だが、離されかけたヴァージンは、そこで一気に食らいついた。グラティシモの逃げるスピードをわずかに上回るペースで、すぐにグラティシモに並び、すぐに抜き去った。そして、ヴァージンの目の前には一瞬だけ誰も映らなくなった。
その時、グラティシモは悟った。
ヴァージンが、数日前に見せてしまった彼女でなくなっていることを。
そして、本気で走らなければ、自ら申し出た勝負に敗れてしまうことを。
「グラティシモ73秒!」
(……っ!)
1200mを走りきったヴァージンの耳に、フェルナンドの強い声が響く。すぐに、自分のものとは違うシューズの音が背後から迫ってきた。1周73秒は、最近のヴァージン自身がこの段階で叩き出すラップと比べると、あまりにも速い。
「そら抜いた!」
続けざまにフェルナンドが叫んだその時、ヴァージンの横をあたかもスローモーションのようにグラティシモが駆け抜けていった。再び、自らの目の前にグラティシモが立ち、大会で見せる彼女と同じように、少しずつヴァージンとの差を広げていく。
しかし、わずかながら離されかけたヴァージンを、聞き慣れた声が後押しした。
「これで終わるのか!本当に、これで終わるのか!」
あと少しで1600mのラインを駆け抜ける。その横で、マゼラウスが、大きな声でヴァージンに声を送っているのが、彼女の目にもはっきりと分かった。
(この勝負を終えれば、ここではもう、走れない……。けれど、私はまだ終わった訳じゃない)
ヴァージンは、右足を前に出した衝撃で、どこにあるか分からない緊張の糸が吹っ切れた。
負けたときに待っている結果に怯え、縛り付けられていたヴァージンの姿は、トラックの上にはなかった。真面目にトレーニングをこなし、どんな時も全身全霊で挑み続ける、小さなアスリートの姿だけが、このトラックでグラティシモを追いかけていた。
(もっと……、もっと前に!)
低迷していた記録が嘘であるかのように、ヴァージンのラップタイムが上がり始めた。74秒、73秒……と懸命にグラティシモに食らいついて、3600mの時点でついに70秒にまで達した。ヴァージンの目には、あと20mだけ先を行くグラティシモの本気のスピードだけが目に映る。だが、これまで何度となくラストスパートを駆使してきたヴァージンに、追いつけない距離ではなかった。
(よし……!)
ヴァージンは、普段より約1周早くスパートをかけた。まだスパートをかけていないグラティシモとの差が一気に縮まってくる。足音がグラティシモの耳に届くにつれ、グラティシモも少しずつスピードを上げていくが、すぐにヴァージンがグラティシモの真後ろにぴったりとつき、追い越す体勢になった。
(あと少し!)
ヴァージンは、さらにギアを上げる。ほぼ同時にグラティシモも本気のスピードを見せ始めたが、ヴァージンはそれをためらうことなく、その横に躍り出た。そして、振り切るようにグラティシモを抜き去った。
その気になれば1周50秒台を軽く叩き出すヴァージンのスパートに、世界第2位の実力を持つグラティシモが付いて行けない。それでも、ヴァージンは最後の最後までその足を緩めない。
もっと、この場所で本気で走りたい。ヴァージンの夢は、その一つに集約されていた。
そして、ついに5000mのゴールラインを通り過ぎた。走りたいその足を無理やり止め、ヴァージンはトラックの中の芝生に出て、そこで全ての力を出し切ったように、崩れ落ちた。
(終わってしまった……)
グラティシモとの勝負に初めて勝ったにも関わらず、彼女の表情には嬉しさ一つなかった。ヴァージンは、前に屈んだ姿勢のまま、これまで自らを見つめ続けてきた緑の芝生に軽く触れた。
その時、ヴァージンの耳に信じられない叫びが飛び込んだ。
「14分29秒38!ヴァージン、やればできるじゃないか!」
「29秒……。本当ですか!」
その声と同時にヴァージンが顔を上げると、そこには嬉しそうな表情のマゼラウスが立っていた。座り込んだヴァージンの手をゆっくりと引き、結果を残した教え子を優しく抱きしめた。
「本当だ!世界記録まで、あと6秒だ!」
「うそ……」
グラティシモの自己ベストよりも速く、最大のライバルの自己ベストにあと6秒33と迫るその記録に、ヴァージンは大粒の涙を流した。まだ足がフラフラとした印象はあるものの、ヴァージンは瞬時に達成感に包まれた。
そして、マゼラウスのすぐ横にウィナーが手を組みながらやってきた。
「ヴァージン・グランフィールド……」
「はい……」
ヴァージンは、達成感も冷めやらぬまま、軽くウィナーの表情を見つめた。
「この記録で、うちが手放すわけにはいかなくなった」
「えっ……」
ヴァージンの口が、大きく開いた。自分で自分を救った、と瞬時に悟った。
「解雇通知は撤回だ。これからも、セントリックで頑張れ」
「ありがとうございます!」
嬉し涙を見せるヴァージンを、みな喜んだ表情で見つめているのが分かった。