第1話 世界を夢見るアメジスタの少女(3)
(アルデモードさん、どこかにいないかな……)
それからのヴァージンは、しばらくは寝ても覚めても甘いマスクのアルデモードの顔を忘れることができなくなった。学校でアルデモード似の男性をクラスに見つけては、まず会うはずもない彼を、クラスメートの顔で勝手に思い浮かべてしまうようになった。
しかし、いくら顔が似ていたとしてもそれは全くの他人で、クラブ活動も工芸部にいるほど、体を動かすことには消極的な男子だった。昼休みに外で遊ぶ姿など、まず見かけない。
そして、その果ては記憶の変質だった。人の視覚的な記憶が衰えていくのは少女ヴァージンであっても例に漏れず、次第にアルデモードの顔の前にその男子生徒の顔を思い出すようになってしまった。
結局、最後には元アスリートの凛々しい顔は、出てこなくなってしまった。
「はぁ……」
この日も、10kmのトレイルランニングを走り終えたヴァージンの表情に絶望の二文字しか出てこなかった。家の時計は、その間に37分18秒も過ぎていた。あの日から、タイムが伸びない。
何しろ、雑木林にさしかかるたびにアルデモードのことを思い出してしまう。真面目に走り出したとしても、途中でランニングをしている彼に出会わないかと思うようになってしまう。そして、出会わないまま走り終えたくないと、最後は少し気の抜けた走りを出してしまうのだった。
「どうした?今日も少し遅かったじゃないか?」
「父さん……」
突然、奥の部屋から出てくるジョージの、耳を突き刺すような声が響いた。ヴァージンは思わず体を後ろにのけぞった。これまでヴァージンが走りに出かけるところを何度も見ているが、ジョージから速いとか遅いとか言われたことはなかった。
「あのな、お前が外に走りに出てから戻って来るまでの時間が、体感的に分かるようになってるんだ。でも、今日はいつもより何か遅かったような気がする。それだけ」
「そんなこと、分かってるよ……」
ヴァージンは吐き捨てるようにそう言い、いそいそと父の真横を通り過ぎようとした。しかし、ジョージの手が通り過ぎていくヴァージンの手に軽く触れて、ヴァージンは反射的にジョージの方を振り向いた。
ジョージは心配そうな表情を浮かべていた。
「何かあったのか?全力で走ることも躊躇うような心配事とか。あったら話してみな」
「ないよ、別に……」
「本当か?」
そう言うと、ジョージは軽くため息をついてみせた。どこか後ろめたい目に、ヴァージンは強がりの言葉を返すことができず、唇を軽く噛みしめた。そして、少し考えてからこう言った。
「……好きな人が、できちゃったの」
「それは、いいことじゃないか!そろそろ14歳になる年頃で、お前も初恋ができるなんて」
「うん、いいんだけどね……」
「ヴァージン。乗り気じゃないんだな」
「あのね、父さん。乗り気じゃないってことないし!」
ヴァージンは、両手を軽く上下に振り、妙な方向に進んでいく話を止めようとした。それでも止めることができなかったので、ついにヴァージンは声を大きくしてしまった。
「……なかなか会えない、人だから」
「そうか……。とすると、学校じゃないな。近所の人?」
「近所か分からない。だから会えないのよ」
ヴァージンは、何度か首を横に振った。アルデモードという名を言いたくなるにつれ、あの甘いマスクの茶髪の青年の顔が思い浮かんでくる。もはや、ヴァージンを止めることは自分でもできなかった。
「せめて、名前だけでも教えて欲しいな」
「うん……、アルデ……、アルデモードって……」
(言っちゃった……)
ヴァージンは、しばらくジョージの表情を伺おうとしたが、次第に首が下に傾いてきてしまう。しかし、一方でジョージはしばらく考えるしぐさをしたまま、娘の変化には全く気が付こうとしない。
そして、考えるしぐさをしたまま、ジョージは言葉を返した。
「アルデモード……。知らないなぁ。……ったく、どういう人だ」
「サッカーの選手。元、ね」
「サッカーの選手だと?お、お前、本気でそんな奴と付き合おうとしてるのか?」
「……はい」
ジョージの目が徐々に細くなる姿がヴァージンの瞳に飛び込み、ジョージの殺気が徐々に増していく気がヴァージンの心を打った。こんなジョージを見たのは、ヴァージンは久しぶりだった。
「アスリートで食ってけないって、何度も言ってるだろ!」
「けれど……」
ヴァージンは、アルデモードの輝いた才能を代弁しようとしたが、それを言う暇もなかった。
「けれど、じゃない。アルデモードは、間違いなくアメジスタ国民の落ちこぼれだ」
「落ちこぼれては……」
「ヴァージン。アメジスタでアスリートになること自体、自らを捨てたに等しいんだ。試合に負け続け、彼らは間違いに気が付く。でも……、その時にはどこの会社も雇ってはくれない」
「……たしかに」
サッカーの世界ランキングが最下位だと知ってから、ヴァージンは学校の体育の先生に他の競技についても聞いてみた。返ってくる答えは、どれも同じだった。
「だから、アスリートになるような人の生き方には、絶望しか感じない。勿論、お前もだ」
「でも、父さん……」
「でも、じゃない!アスリートとの恋愛は、とっとと忘れろ」
「話を聞いてよっ!」
ヴァージンの心の底から溢れ出た声が、空気の流れさえ止めた。そのアスリートを目指す一人の少女は、限りないエネルギーをその身に纏っていた。
ヴァージンは唇を震わせて、涙声で声を吐き出した。
「たしかに、アメジスタのサッカーはどこの国にも勝てないし……、アメジスタのアスリートはどこの国に行っても、負けるだけ……。けれど、私は彼を見て、それでも輝いてるって思ったの!」
「輝いてる……。勝てないのに、か……?」
「うん。……勝ててないのに、それでも戦おうって言ってるような気がしたの」
ヴァージンの脳裏には、アルデモードの言葉がぎっしり詰まっていた。彼の言ったこと一つ一つは、力強さ、そして希望にも満ちた印象さえヴァージンに植え付けたのだった。
「父さん。私だって、戦うの好きだもん。グラウンドで打ち負かすの、楽しいし。なんか、私と気が合うって思ったの」
「そうか……。お前も、とうとう自分のもう一人の理解者を見つけてしまったか」
「理解者……って?」
ジョージの抑え気味の声に、ヴァージンは思わず目を丸くした。それを見て、ジョージは少しだけ笑ってみせた。
「気持ちを分かろうとする人のことだ。気持ちが通じ合えるって言った方がいいかな」
「父さん……」
ヴァージンは、数回軽くうなずく。少しずつ落ち着きを見せてきたジョージの表情に、ヴァージンもほっとしたしぐさを見せた。
「とりあえず、人が人を好きになるのを止めたりはしない。まだ年齢的には早いから、今すぐの結婚はダメだけど、一度くらい想いを伝えてもいいんじゃないか」
「はい」
「まぁ、その代わりだが……、本物のアスリートと付き合ってお前がどう変わるか見るけどな」
すると、ジョージはヴァージンをスッと両腕で抱きしめて、思わず笑みをこぼした。ヴァージンも温かくなったジョージの腕に吸い込まれるように微笑んだ。
しかし、その腕は少しずつ冷たくなってくるような気さえ、ヴァージンにはした。自らを最大の理解者と言い切ったことが、既に作り上げた虚構であるかのように。
それからというもの、時々アルデモードの顔を思い出すものの、ヴァージンは以前のようにそれで体の動きが止まってしまうようなこともなくなった。日曜日のトレイルランニングも35分台後半から前半までペースが上がるようになり、クラブ活動でも女子の5000mでは学校に並ぶ者がいないほどの実力者までなっていった。
半年ほど経ったある日のこと、普段通り学校から帰ってきたヴァージンに、ジョージは手紙を片手に持って駆け寄ってきた。
「ヴァージン。いい知らせがあるぞ」
「いい知らせ……って?」
「当ててごらん」
「……知らない。まさか、勉強ができない私のために、本当に家庭教師とか……?」
「もう忘れたのか?」
ヴァージンは、そう言われて思わず息を飲み込んだ。困惑しかけるヴァージンの手に、ジョージは一通の手紙を手渡した。ヴァージンは手に取った手紙をゆっくりと目に近づけて、その文面を呼んだ。
~アメジスタの小さなアスリート ヴァージン・グランフィールド~
半年前、僕は君に会えて、とても嬉しかった。
希望すら失っているはずのアメジスタで、
たった一人本気でアスリートを目指している君が、とても輝いていたから。
そんな君に、一度見て欲しいものがあって、僕はこの手紙を送ったんだ。
もし時間がありそうなら、今度の日曜日、朝10時にグリンシュタインの聖堂の前に来て欲しい。
勝手に、住所を調べてごめんなさい。
でも、もう一度だけ会いたくて……。
~フェリシオ・アルデモード~
「アルデモードさん……っ!」
久しぶりに見たその文字に、ヴァージンは思わず手紙を抱きしめた。言葉にならない喜びが、ヴァージンとジョージの間に流れていた。