第64話 悲しみの先に見た真実(6)
「これ……、たしか、私の母さんの名前……」
ヴァージンは、姉フローラとは母親が違う。そのことは、物心ついたときにはジョージやフローラから聞かされていた。だが、フローラの母親もヴァージンの母親も、ともに出産間もなく亡くなっており、特にヴァージンにとっては「母親」の存在すらほとんど記憶になかった。
それでも、ヴァージンが生まれて間もない頃、30年近く前に聞いた名前だけは、紙に記されているだけではっきりと思い出せたのだった。
「そう……。ヴァージンにはなかなか言えなかったが……、これがヴァージンの母さんの名前だ」
「でも……、これ……、離縁状って書いてる……。日付が……、私が産まれて2歳にもなっていない……」
ヴァージンは、ジョージが亡き母の離縁状を持ってきた理由が分からない。だが、ジョージは夕方玄関先で見せた以上の険しい表情になって、ヴァージンを見つめていた。
「ヴィーナス・カーヴェル。私が二人目に愛した人は、結婚した時、まだ18歳だった。アメジスタの片田舎で生まれ、グリンシュタインで偶然私に興味を示してくれた。だが、その時ヴィーナスは……、本性を隠していた」
「本性を隠して結婚して、私を生んで……、こんなに早く離婚したって……」
ヴァージンはそう言いかけて、離縁状の中身に目をやった。そこには、一言こう書かれていた。
――私は、自分の長年の夢を叶えるために、オメガ国に亡命します。あなたとの縁、そしてアメジスタの国籍を捨てますので、あとの詮索はなさらないでください。
「アメジスタから、オメガへの亡命……」
ちょうど、アルデモードが亡命という形でオメガに出ていった状況に重なっているように、ヴァージンには思えた。離縁状を手にしながら、ヴァージンの体はかすかに震えていた。
「おそらく、ヴィーナスが何の夢のために亡命しようとしたか、ヴァージンなら分かると思う」
「もしかして……、アスリートになる夢……」
ヴァージンは、ジョージの問いかけに、真っ先に答えた。そうでなければ、ジョージがわざわざこのタイミングでヴァージンに真実を告げることはないと思ったからだ。そして、案の定、ジョージは首を縦に振った。
「ヴィーナスは……、私を見て結婚したいと飛び込んできた。その足を見たとき、ヴィーナスがアスリート……、おそらく陸上選手のように思えた。けれど、ヴィーナスはそのことを一切告げず、文筆業を後ろで支えると言いながら、最初のパートナーを失った私と結婚し、ヴァージンを生んだ」
「あの時代も、アスリートだと知られたら、白い目で見られたとか……」
「おそらく、そういうことだろう。少なくとも、ヴィーナスが私に声を掛けてくれた時代も、アメジスタのスポーツは世界の中でも最も遅れていて、アスリートが街を歩くだけで恥さらしと言われる、そんな時代だった」
そう言うと、ジョージはヴァージンの横に立ち、一緒になって離縁状を上から眺めた。それからすぐに、ヴァージンは離縁状から目を反らし、ジョージに視線を移した。
「でも、結婚して……、私を生んで……、夢を諦めることができなかった……」
「いや、そうではない。ヴィーナスは……、結婚して子供まで作れば、アメジスタから出ることを許してくれるだろうと、私に言った。一人前の女性として育たなければ、ヴィーナスの両親が認めなかったんだ」
そこまで言うと、ジョージは離縁状を手に取って、それを裏返した。そこには一つだけ、記録が書かれていた。
「中等学校4年の部、5000m……、14分42秒……」
ヴァージンは、母ヴィーナスの記録を読み上げた瞬間、もう一度息を飲み込んだ。それは、ヴァージン自身が中等学校4年の時にジュニア選手権で叩き出したタイム、14分57秒38をはるかに上回っていた。
「これは、ヴィーナスが初めてアスリートになる夢を私に言った時、一緒に自己ベストを書いたものだ。この時の私には、そのタイムが速いか遅いかすらも、直感では分からなかった」
「中等学校4年の時点では、私の負けです。母さんのほうが速いです……。だからこそ、アスリートになるという夢を盾に、離縁状を書くのも分かります……」
「たしかに、今のヴァージンからすれば物足りないタイムだが……、中等学校4年の時点でこのタイムは、本当に世界レベルと言っていいのかも知れない……。だが、夢を最初から告げずに、子供を産んで2年も経たないうちにアメジスタを捨てること、裕福なオメガに行ってしまうことが……、心の中で許せなかった」
ジョージは、徐々に声を低くしつつ、当時のことを思い出しながらヴァージンに告げる。トレイルランニングのコースのほうから、虫の音がダイニングに響き、ジョージの険しそうな雰囲気を幾分和らげていった。
「父さんは、母さんの夢に協力したんですか。それとも、無視したんですか」
「この離縁状に、私はサインしなかった」
ヴァージンは、ジョージに言われて離縁状の右下を見た。そこには「ジョージ・グランフィールド」という名前はどこにもなかった。
「離縁状にサインしなかったから……、母さんは飛行機の飛ぶ日に一人で出ていったとか……」
「私の稼ぎで、そう簡単にオメガに行けるわけない。ヴィーナスが出ていったのは、『夢語りの広場』だ……」
(「夢語りの広場」……。私と同じだ……!)
16歳のヴァージンが、たった一度きりの世界へのチャレンジを掴み取るため、懸命に夢を告げたあの日のことが、ヴァージンの脳裏に即座に蘇る。「世界一貧しいアメジスタの全てを背負って」という、彼女が強く言った言葉が、心の中で何度もこだましていた。
だが、ヴァージンの回想を遮るように、ジョージはより低い声でヴァージンに告げた。
「その広場からヴィーナスが戻ってくることはなかった……。彼女は、アスリートになる夢を告げた瞬間、袋叩きにあって、最後はレンガで頭を殴られて……、死んだ……」
「嘘でしょ……。母さんが、夢のある場所で夢を語って……、死んだってこと?」
ヴァージンの頭の中は、途端に真っ白になった。ヴァージンと同じように「夢語りの広場」で夢を語り、アスリートに対する偏見が同じように存在している中で、母ヴィーナスがその場で死ぬことになってしまったことを、簡単に信じることができなかった。
「残念だが、アスリートになることも、オメガに出ることも、告げられたアメジスタ人にとっては屈辱的なことだった。まず成功しない夢を語り、しかも国を見捨てるわけだからな……。二重の意味でアウトだ」
「私のライバルにも、活躍の場所を広げるために国籍を変える選手は、何人もいるのに……」
「アメジスタでは……、少なくともアスリートに対する偏見が根強かったアメジスタでは、誰一人として支えたくない夢だった……。だから思ったんだろう。ヴィーナスはアメジスタを捨てた、だから殺していい」
「おかしい……。絶対こんなの、おかしい……」
ヴァージンは、ジョージの前で何度も首を横に振った。だが、物心ついた頃には既に姿を見ることができない母親の姿を、ヴァージンの記憶の中でさえも思い出すことができなかった。
その時、ジョージの手がヴァージンの肩にそっと触れ、軽く叩いた。
「母親ヴィーナスと、ヴァージン。決定的に違ったのは……、一つだけだ」
「一つだけ……。たしかに、私と母さんはただ一つ、真逆のことを言った……」
ヴァージンは、静かにうなずいた。ジョージも一緒になってうなずく。
「ヴァージンは、アメジスタを背負うと言った。アメジスタを背負って、戦うと言った。それが、アメジスタの人々にとって、ヴァージンにかすかな夢や希望を抱かせたんだろう」
「母さんと違ってアメジスタを捨てなかった……。だからこそ、アメジスタのみんなが……、時間はかかったけど……、私を応援してくれるようになった……」
「そういうことだ。私も、ヴィーナスのことがあったから、アスリートにだけはなるなと言ってきたつもりだが……、今となってはそんな過去に重ねる必要がなかったかなと思っている。お前は、アスリートの体と意志をヴィーナスから継いで、そしてアメジスタ人の想いを背負って、こうして一人前のアスリートとして成長したんだからな」
ジョージの目の中に輝く涙を、ヴァージンははっきりと見た。命がけでアメジスタを出ようとしたことや、外に飛び出した結果命を失ったことが、ヴァージンが最も愛したアスリートの姿に重なってならなかった。
「今や、ヴァージンはアメジスタのあちこちで、不可能を可能にしたアメジスタ人と言われている。たとえ最愛のパートナーを失っても、アメジスタはヴァージンにずっと味方している」
ヴァージンは、ジョージの表情を見ながら、かすかにうなずいた。立て続けに起きたショックが、より一層消えていくように思えた。
「父さん……。私、これからもアメジスタのアスリートとして、戦い続ける!」
そう力強く叫ぶアスリートの声が、アメジスタの田舎に響いた。