第64話 悲しみの先に見た真実(3)
(私が世界記録を出せるのも……、プロメイヤさんにそれを奪われたことも、決してシューズが理由じゃないのに……、ここまで世界記録を出し続けていると、国際陸上機構から目をつけられてしまう……)
ヴァージン自身の実力だと信じたい気持ちは、ヒルトップから告げられた言葉を前に力を失っていった。広い自宅に戻る途中で、彼女は何度か「フィールドファルコン」でアスファルトを強く踏みしめたが、力が入らない。
(最近、ショックなことが多すぎる……)
守り続けてきた世界記録を奪われ、夫を失い、シューズでさえも一般販売が取りやめになる。10000mでロイヤルホーンに打ち勝った日以降、ヴァージンには何一ついいニュースがなかった。
「ただいま……」
呆然とした気持ちで、自宅の鍵を開けるものの、出迎える人はもういなかった。玄関から見渡せるリビングに電気は付いておらず、ヴァージンは通る部屋に一つずつ灯りをともさなければならなかった。
(もしアルがいたら……、今日あったこと、何と言って伝えようか……)
考えたところで実現できるわけないことを、ヴァージンはしばらく考えるしかなかった。だが、ようやくそれが無意味だと気付いた段階で、ヴァージンはリビングの椅子に座り、天井を眺めた。
(アルの他に、私を支えてくれるものって、何だろう……)
ヴァージンは、ショックの波がいくつも襲い掛かる中、何かに掴まりたかった。陸上選手として力強い足を持っているにもかかわらず、その足で支えることすらできなかった。
(私には……、アルに代われるような、日常的に支えてくれる人が欲しい……)
たしかに、トレーニングセンターに行けばマゼラウスがパフォーマンスを見ている。大会申し込みの手続きや各種契約、打ち合わせ関係はメドゥが行っている。だが、それはあくまでもアスリートのビジネスとして支えてくれるだけであり、かつてないほどに落ち込んだ彼女の心からの支えとしてはあまりにも不十分だった。
(やっぱり、もう少しアルの言葉に耳を傾けるしかないか……)
数日前、思い出せば思い出すほどベッドの上を涙で汚すことになった、アルデモードの言葉たち。彼の言葉と、起きてしまった現実のギャップに、ヴァージンが悲しむばかりだった。だが、最大の支えになっていたアルデモードの言葉から逃れることは、今の彼女にはできなかった。
(今日は、どこから考えよう……)
その夜、ヴァージンがベッドの上で目を閉じると、再びアメジスタののどかな光景が浮かび上がり、トレイルランニングをするアルデモードの姿が現れた。それから、ヴァージンもその背を見ながら走り出した。
(こんな光景……、実際にはないはずなのに……。少しずつ思い出が脚色され始めている……)
ヴァージンは、場面を変えるために目を開けようとした。だが、気が付くと二人でグリンシュタインの街中を走っていた。それも、内戦で焼ける前どころか、ロープで区分けもされていない、ヴァージンの遠い記憶の中にあるグリンシュタインだった。明らかに、脚色されていた。
最初はアルデモードの背中が遠かったヴァージンは、徐々にその差を詰めていく。やがて、アルデモードに追いついたとき、アルデモードが突然その場所で立ち止まった。それから突然、サッカーボールを蹴り上げ、ヴァージンに微笑みながら告げた。
――みんな、僕を見てサッカーをしたいって思ってほしいんだ……。この、どうしようもないアメジスタが少しでも元気になっていければ……。
(あれ……。言葉だけはどこかで聞いたような気がする……)
ヴァージンの記憶の糸は、すぐに探り出した。場面こそ完全に脚色されているにもかかわらず、アルデモードが遠い昔に言った言葉であることに何の疑いもなかった。
(たしか、私がアルと競走して……、完全に負けて……、荒れ果てたスタジアムを見たときに言ったはず……)
その瞬間、脚色されていたグリンシュタインの街並みは二人の前から姿を消し、ヴァージンがこの後何度か訪れ、その度に決意を重ねる陸上競技場が彼女の頭の中に思い浮かんだ。それからヴァージンは、先程のアルデモードの言葉をもう一度思い返したのだった。
(私が先に、アメジスタを元気づけたいって言ったら……、アルは同じアスリートの視点で答えてくれた……)
今や内戦の難民が集まる場所になってしまった、アメジスタじゅうの歓声を集めたはずの陸上競技場。そこに希望を取り戻すことこそ、ヴァージンにとって何よりの夢であった。たしかに、聖堂の前にクラス1のスタジアムを建設することは決まっているが、まだそれも完成したわけではない。
そこまで考えたとき、ヴァージンは再びため息をついた。
(でも……、アメジスタのアスリートは、私と……、アルしかいない……。残ったのは私だけ……)
一人で支えていかなければならない。その言葉が胸に湧き上がったとき、ヴァージンは再び震え上がった。もう一度、ベッドを涙で濡らしてしまいそうだった。流れ落ちそうな涙を何とか食い止めるものの、完全に止めるには何度も首を横に振るしかなかった。
だが、ほぼ同時にヴァージンは気付いた。
(アメジスタに帰れば……、もしかしたら答えが見つかるのかも知れない……)
ベッドの中で一言だけ思った言葉は、ヴァージンの記憶に激しく残った。翌日、彼女は朝からアメジスタ行きの荷物の整理をした。アメジスタで土葬できない分、アルデモードの実家にも形見となるようなものを持っていくことも、彼女はすぐに思いついた。
(アルの使っていたサッカーボールとグラスベスのユニフォーム、きっとオメガでサッカー選手として活躍した何よりの証拠になる……。まだ、亡くなったことを告げていないけど……)
オメガで土葬するしかないと決まった時点で、アルデモードの訃報連絡を何一つ入れていないことに、ヴァージンは今更ながら気付いた。同時に、訃報連絡を先に入れるという時点で、アメジスタに来週出発することはできそうにないことも分かった。
だが、そのような心配は、ヴァージンがネットから飛行機の予約をするときに不要だと分かった。
(あれ……、グリンシュタインへの直行便、週1便じゃない……。毎日運航になっている……)
グリンシュタインとオメガの間は、ヴァージンが物心ついたころから週1便しかなく、1年ほど前、内戦が起きたときに「オメガピース」の兵士を送るために臨時便を出すのを見るぐらいだった。
(だとしたら、訃報連絡に遺品を渡す日も書いておけば、アルの家も分かってくれるはずだし……、今までのように着いたら1週間アメジスタにいなければいけないこともなくなるか……)
ヴァージンは、ちょうど1週間後に飛び立つ飛行機でグリンシュタインへと向かい、それから3日の滞在でオメガに戻るよう、飛行機の予約を入れた。
そこまで終わると、彼女はパソコンから目を離して、天井を見上げた。
(アメジスタに答えを見つけに行くと決めたはいいけど……、アルに代わる支えになるようなものがなかったらどうしよう……)
たしかに、ファイエルなどヴァージンに理解を示すような人はいるし、グローバルキャスの中継の前で応援してくれたアメジスタ人がいることも分かっている。だが、それが本当なのかは確かめるまで分からない。
(あのグローバルキャスが最初に送ったメッセージ、いくつか否定的なものもあったわけだし……)
ヴァージンは、その瞬間にはっとして天井から目を背けた。思わず手を叩きたくなるくらいに、ここ数日の不安が少しだけ消えていくようだった。
(私が、いまアメジスタでどれくらい認められているのか……、それを知ったら、もしかしたらそれが最大の支えになるのかも知れない……!)
アメジスタにほとんど情報が入ってこないがために、行くたびにそっぽを向かれていたヴァージン。それでも、アメジスタへの帰国を重ねるたびに、彼女の知名度は少しずつ上がっている。特に3年前、初めて中継が流れて以降は、名前だけは知っているという人も多くなったはずだ。
(私は、アメジスタのみんなを信じる)
1週間後、ヴァージンはグリンシュタイン行きの飛行機に乗り込んだ。観光目的で向かう客もちらほらいるが、ビジネスの商談に行くような人や、オメガ国内で見かける建設会社の作業員と思われる人が圧倒的に多かった。
(アメジスタの建設会社だけだと、何年かかるか分からない……。でも、これでアメジスタのスタジアムが世界的なビッグプロジェクトになっているということだけは分かったような気がする……)
スタジアムの建設は間違いなく進んでおり、スタジアムの開業に向けた様々な商談も始まりつつある。ヴァージンは、アメジスタに少しだけの希望を見つけながらオメガを後にした。