第64話 悲しみの先に見た真実(1)
病院で正式にアルデモードの死亡判定が出され、亡骸とともに一夜を過ごした後、朝一番に区役所に出向き、死亡届の提出や葬儀の許可などを得なければならなかった。陸上選手としての活動ではない上、あまりに急な出来事だったため、代理人のメドゥに連絡することもできないまま、ヴァージンは一人で手続きを行った。
ただ一つ、ヴァージンの覚えていた区役所からの指摘は、アルデモードがアメジスタから亡命した存在であるため、アメジスタで火葬や土葬ができないということだった。そのため、オメガセントラルの外れにある市民墓地で土葬をするほかなかったが、ヴァージンはアメジスタ人としてすぐに首を縦には振れなかった。
翌日、病院から土葬場まで寄り添ったヴァージンが、徐々に土を被せられるアルデモードに向けて最後の涙を流した。涙の中で、まるでモザイクのように消えていく夫は、それでも何も言わなかった。
最愛の夫から全ての希望が失われた時を指したまま、ヴァージンの心の中の時計は止まってしまっていた。
(アル……)
ようやく家に戻っても、ヴァージンはアルデモードのことを思い返すことしかできなかった。ヴァージン自身がそちらの世界に向かうわけでもないのに、長い間の思い出が走馬灯のように蘇ってならなかった。
ベッドに入っても、アルデモードとの記憶はとどまることがなかった。まず、最初に思い出したのは、初めてアルデモードに出会った瞬間――トレイルランニングを終えたヴァージンが、14歳にして初めて本物のアスリートを目にしたとき――彼の目は輝いていた。
――いつか、その名前が世界じゅうに知れわたるといいね。
(私が、世界で戦うアスリートを目指していると言ったら、アメジスタの現実と……、その先にある希望の光を見せてくれた……。これが、アスリートの持つ希望だということを……、教えてもらったような気がする……)
陸上とサッカー。明らかにジャンルの違う存在とは言え、ヴァージンはアメジスタにほとんどいないアスリートとして、アルデモードの背中を見つめた。「ワールド・ウィメンズ・アスリート」で見て、そして憧れたライバルに実際に出会う前は、ヴァージンにとってアスリートと言えばアルデモードしかいなかった。
(その後も、アルとは何度も出会ってきた……。彼も、すぐにオメガで活躍を始めたんだった……)
その後、ヴァージンはプロデビューを果たし、アメジスタを背負ってアカデミー生活を始めた。アメジスタを出る前後に全く会うことのなかったアルデモードだったが、ヴァージンが初めての世界記録を出す前に、彼もまたアメジスタから世界へと飛び出した。
だが、アルデモードと再会したヴァージンに待っていたのは、ヴァージンへのスポンサー支援を拒むヒューレットからの強いパンチだった。それをアルデモードは、言葉の力で止めようとした。
――アメジスタに、こういう素晴らしい、勇気のある人間がいるって……、専務も認めて下さい!
(あの時、アルの心はいつもアメジスタにあるんだと……、改めて気付いた……。亡命したとは言え、本当はアメジスタの代表で戦い続けたかったはず……)
アルデモードは、その時アメジスタを背負って戦うたった一人のアスリートを、たった一つの体で守り切った。だが、アルデモードのことを心配したヴァージンの耳に届いたのは、感謝ではなく、大人のアスリートの対応だった。
――僕が戦うかよ。こんな場所で。
――君が戦う場所は、ここだろ!トラックの上だろ!
(アルに……、珍しく叱られたんだ……。トラックの中だけ……、私は本当の実力を見せつけられるし……、そこで戦うために、毎日こうしてトレーニングをしてきた……)
少しずつ、「アスリートとは何か」を体で覚えていったヴァージンにとって、17歳で受けたアルデモードの言葉はあまりにも強烈な印象を受けた。彼女はまだ、アルデモードには追いつけなかった。
だが、その後にヴァージンの目に焼き付いたのは、それと真逆の行動を取った一人の陸上部員、ウッドソンの凶行だった。
――俺は、陸上という勝負の世界で生きているんだ。だから、競争相手になるものは、誰であろうと打ち勝ってみせる。陸上にはルールはあるが、恋愛にはルールなんてない……。
(アルは……、そこで少しだけ……私を守ろうとした……。でも、アルに待っていたのは……、骨折……)
サッカー選手の反射神経で、アルデモードは足を出そうとした。だが、スピードはウッドソンのほうが勝っており、運悪くアルデモードは急所を狙われてしまった。あの時アルデモードに言われたように、一切の手を出さなかったヴァージンに無力感が漂っていた。
(でも、私が手を出していたら……、私だってどうなるか分からなかった……。恋愛対象だと思っていた私を見限ったとき、もっと酷い仕打ちをしてくるかも知れなかった……)
その後も、年齢を追いながらヴァージンはアルデモードとの記憶を呼び覚ましていた。例えば、アメジスタにアスリートはいらないとファイエルに言われた時も、彼はヴァージンが来る前からアメジスタのためにイベントを盛り上げていた。
いつの時代も、アルデモードはヴァージンを守ろうとしていた。
いつの時代も、アルデモードはヴァージンを一人のアスリートとして認めていた。いや、普通のアスリートではなく、「アメジスタの偉大なアスリート」などと特別の表現でヴァージンを呼んでいた。
(アルが私にとってかけがえのない存在だったのと同じように……、私にとってもアルは……)
そのことに気付いた瞬間、ヴァージンは枕に顔を被せ、こみ上げるように涙を流した。
「私は……、怒りに任せて……、一番やってはいけないことをやってしまった……!」
アルデモードに教えてもらったことに逆らうかのように、ヴァージンは家を飛び出し、心の中で「彼の真意」と競走しようと考えた。だが、それはトラックの外で戦ったことと同じで、それが原因でアルデモードは道路に飛び出して、命を落としたのだった。
「アルは……、私にいろいろ支えてくれたのに……、それをたった一瞬で無にしてしまった……」
名前を考えることもできなかったシューズに「Vモード」の名前を与えてくれたのも、全くセンスがないからと黒く塗りつぶした「フィールドファルコン」の名前を気に入ってくれたのも、アルデモードだった。それらを含めて、アルデモードはいつもヴァージンに寄り添っていた。
「何より……、私を最初にアスリートとして認めてくれたのは……アルで……、アメジスタから出たアスリートだと私と同じくらい誇りに思ってくれたのも……アルだった……!」
ヴァージンにとって大きな支えを失った。この時の彼女には、そのように考えることしかできなかった。アルデモードに何かを言いたくても言葉が起こらず、彼女は何度も自分自身のしたことを悔やんだ。
「私のせいで……、アルは死んだ……」
その後ずっと涙を流していたヴァージンは、空が明るくなり始めた頃に寝付くことができ、気が付けば昼近くまで目覚めなかった。遠征などで時差ボケを起こすことはあったものの、オメガにいながらこれほどまでに不規則な生活になるのは、久しぶりのことだった。
(本当に一人になってしまった……。まず、何をしよう……)
この日までオフに決めていたが、ヴァージンに特段思いつくことはなかった。アルデモードに料理を作ってもらうことはできないため、少なくとも料理だけはしなければならないが、それ以上に思いつくことが見当たらなかった。
(この家が……、余計に広く思える……)
アルデモードが残したものは、サッカーで使うトレーニングウェア数着と、二度と着ることがないと分かっていても捨てられなかったグラスベスのユニフォーム5着、自宅練習用のボール2個、フォーマルウェア一式。それだけと言ってよかった。ランニングマシンや洗濯機を入れたとは言え、アスリート二人が住んでいた広い家にはほとんど使われていない部屋がいくつもあり、これからここを一人で守っていくにはあまりにも広すぎた。
(大変だけど……、この家を売ろうかな……。でも、こんな絶望的な状況で……、やる気も起きない……)
時計の針が止まった状態で、ヴァージンは3日も4日も前に進むことができなかった。
(これじゃいけないはずなのに……)
アルデモードの遺品をまとめようと立ち上がったとき、電話が鳴った。メドゥからだった。
「お悔やみを申し上げるわ……」
「ありがとうございます。私は、何とか……」
土葬業者以外に、初めてヴァージンが掛けられたメッセージに、その目はかすかに潤んだ。いろいろな感情にかき消されてきたが、これが現実だということにヴァージンは気付いた。
「それだったら安心した……。3日後に……、エクスパフォーマから打ち合わせの依頼が入っているんだけど、ヴァージン、行ける……?」
「打ち合わせですか……。新商品のとかですか……」
「それは分からない……。ヒルトップにそれ以上のことは言われなかった」
ヴァージンは、分かりました、とだけ言って承諾した。だが、この時のヴァージンにはそれが不安材料なのかも判断できなかった。