第63話 勇気の翼 力尽く(7)
夏場にしては、少し寒いと思うような風が吹く夕方だった。
アフラリからオメガに戻ったヴァージンは、いつになく車通りの激しい大通りを歩道から眺めながら、ゆっくりと門をくぐり、家のドアノブに手を当てた。どうやら鍵は開いているようだ。
(アルは、今日はここにいる……。どうアルを説得させるかは、いくつも考えてきた……)
ヴァージンは、普段と全く変わらない手つきでドアを開き、アルデモードの待つリビングに向かって歩き出す。
「ただいま、アル」
その声がリビングに届いた瞬間、リビングからやや小走りにアルデモードが迫ってきた。廊下のライトに照らされ、アルデモードの甘いマスクがこの日はより一層輝いて見えた。アルデモードも平静を装っているようだ。
「おかえり、ヴァージン。世界記録を破られたこと、気にしてないよね」
「大丈夫。前と違って、たった0コンマ04秒だし、そこまで気にしていないから」
そう返すと、ヴァージンは少しの間言葉を止めた。レースの結果以上に、アフラリチャンネルに告げられたことの真相を確かめなければならなかった。次第に目を細めながら、ヴァージンはそっと告げた。
「ところで、アル。移籍チームは決まったの。もうリーグオメガ開幕でしょ」
ヴァージンが意識的に微笑む中、アルデモードは一歩下がった。それからヴァージンをリビングまで招き、そこで彼は膝をつきヴァージンを見上げた。
「僕の噂……、もうヴァージンも知ってるね……。アフラリチャンネルの動画で、帰ったらどうのと出てたし」
「勿論、そのことは分かってる。でも、私だってアルを信じたいの。アルのたった一人のパートナーとして」
しっとアルデモードを見つめながら、ヴァージンはやや低い声で告げた。すると、アルデモードは一度首を横に振ってから、彼女にこう告げた。
「まず言っておくけど……、あれは不倫じゃない……。ガールズバーのマスターになりたくて……、ほら、僕はこの顔で目立つじゃん……。だから、いろいろなガールズバーに行って、僕を雇ってくれないかって」
「アル……。アルは、サッカー選手でしょ。ちょっと前まで、グラスベスのフォワードだったでしょ」
「でも……、もう雇ってもらえない……。だから、僕はお金を稼ぐためにいろいろ自分を売ってたんだ……。ヴァージンにそのことを話すと心配されてしまいそうだから……、今まで嘘ついてたんだ……」
アルデモードは、ヴァージンに頭を下げた。それでも、ヴァージンの足は震えていた。
「嘘ついたことに変わりないじゃない……。アルが私のことを気にして隠していたにしても……、やっぱり人間としてそんなことしちゃいけないと、私は思う……。で、アルは仕事見つかったの」
アルデモードは、首を横に振った。
「見つかってない。というか、君が世界競技会に行っている間に週刊誌に撮られちゃって……。もうガールズバーに入ることもできなくなった……。いや、僕の顔が噂になってから、ほとんど外も出られなくなった」
「それは、アルの自業自得じゃない……。してしまったことを、いまこの場で謝って欲しい」
ヴァージンは、やや強い言葉でアルデモードに告げた。すると、アルデモードは小さく息を飲み込んで、ヴァージンを見つめながら、やや細い声で頼み込むように彼女に告げた。
「僕のことを……、置いていかないでよ……。僕が何を言っても、もうヴァージンは許してくれないんでしょ」
(アル……。何を言い出すのかと思ったら……、突然開き直った……)
ヴァージンは、その場で首を横に振った。だが、思い付いた言葉を、彼女は口にする直前に変えた。
「アル……。私は許さないと言っているわけじゃない。アルに、もう一度考え直して欲しくて言っているの」
「考え直したよ……。そもそも、僕は君なしでは生きていけない……。だって君は……、僕のグラスベスの年俸なんかより、ずっと多くのお金を賞金で稼いでいるんだし……」
今度は、ヴァージンが息を飲み込んだ。聞きたくなかった言葉を、彼女の耳ははっきりと聞いた。
「アル……。それ、本気で言っているの……」
「そうだよ。もう、どこのクラブチームも相手にしてくれなくなった今、僕は君の稼ぎだけが頼りなんだ……。君は、僕なんかよりもずっと、世界トップレベルのアスリートなんだから……」
ヴァージンは、その言葉を耳にしている間も、無意識のうちに両手の拳を丸めていた。アルデモードの必死の弁解が、ちょうどガルディエールがヴァージンを「切った」理由に似ていることは、ヴァージンにも分かった。
「アル……。私は、たしかにお金を稼いでいる。でも、お金のために走ってるわけじゃないって……、何度もアルに言ってきたでしょ。なのに……、どうしてアルは今になって私の賞金とか契約金に頼ってくるの」
「それは……、もう自分では稼げないって、どこのクラブチームからも言われたからだよ。ここまで来たら、僕は君にずっと寄り添わなきゃいけない、そう思ったんだ……」
「アル……」
ヴァージンは、そこで言葉を止めた。横に置いた重い遠征用バッグを右足で蹴り、ヴァージンはそれをアルデモードの前まで滑らせた。それでもヴァージンの震えは止まらなかった。
「アル……!夢を諦めるの……。一流のサッカー選手になる夢を諦めた……、しぼんだアスリートになるの」
ヴァージンの言葉に、アルデモードは何も言葉を返せない。だが、離れないで欲しいと見つめるアルデモードの目は、ヴァージンから見る限り何一つ変わらなかった。
「だから、もう諦めたさ……。僕は、君のようなトップアスリートにはなれなかった……。分かってくれよ……」
「その気持ちが分からない……。アルは、私と出会ったときから、どれだけ夢に形にする生活を送ってきたの」
「16年も経てば、夢も希望もしぼんでくるよ……。それが、人間の現実だよ!」
ヴァージンの耳に届いた言葉は、完全に「守り」だった。そして、その言葉がパートナー以外の全てを失ったフェリシオ・アルデモードの現実をはっきりと映し出していた。
ヴァージンは、吹っ切れた。これ以上、何を言っても無駄だと。
「夢のない人間とは、一緒にいたくない……!」
ヴァージンは、床を強く蹴り上げ、玄関に向かって走り出す。すぐ後から、アルデモードの足音が響いた。
「どこ行くんだよ、ヴァージン!」
「考え直してよ……!」
慣れた動きで玄関のシューズを履き、ヴァージンは外に向かって走り出した。体感的には、普段の5000m走どころか10000m走のペースよりもずっと遅い、400mに直せば77秒ほどのスローペースだった。
(アルは、きっと自分が何を言ったか気付いて、私を追ってくるはず)
玄関で、アルデモードが靴を履き、玄関から再び走り出した音が聞こえたとき、ヴァージンの体は大通りに出ていた。慣れからか、彼女は普段と同じように反時計回りで走り出す。
だが、大通りに出た直後、彼女は勢い余って高さ10cmほどの縁石から外に出てしまったことに気付いた。すぐに大股で縁石を乗り越えると、ほぼ同時に乗用車が彼女の右腕スレスレを走り去っていった。
(私、完全に冷静さを失っている……。普段ここを走るときは、後ろから来る車のことを思い出すのに……!)
ヴァージンは、走るスピードをさらに落とした。言い過ぎた、と思う気持ちが、彼女に襲ってきた。
不安になったヴァージンが、走りながら後ろを振り向いた。
キイイイイイッ!!!!
不吉な音がヴァージンの耳を貫いた。角を曲がろうとしていた足をターンさせ、その体を力ずくで音のする方向に向けた。その直後、トラックの下からグシャッという音がヴァージンの耳に飛び込み、トラックが止まった。
アルデモードの姿は、見えなかった。足音すら聞こえなかった。
「アル……」
ヴァージンは、トラックに向かって走り出した。ほぼ時を同じくして、トラックの運転手が運転席から飛び出し、トラックの真後ろに駆けつける。
家から数m離れた道路上に、見慣れた青年の背中がトラックのタイヤに押しつぶされ、横たわっていた。
「アルーーーーーーッ!」
何も物言わず、体だけはヴァージンに向け、アルデモードは目を閉じてアスファルトの上に沈んでいた。しばらく、ヴァージンは何が起こったのか分からなかった。
それでも、時間だけは過ぎていく。
トラックの運転手とたまたま近くにいた警察が、轢いた、家から飛び出した、という言葉を掛け合っていた。
程なくして救急車がやって来て、ヴァージンは妻ということだけで乗せられた。
救急車の車内で「もう死んでますね。手遅れです」という言葉を聞いた。
だがそれでも、何が起こったのか、この目で見ている世界が現実なのか、ヴァージンには全く分からなかった。
アルデモードの目は、もう開かない。
仰向けになった彼の口も、もう笑うことがない。
これが、現実だった。
「アル……。信じたくない……。こんな形で最期を迎えることになるなんて……」
ヴァージンは、救急車の中で大粒の涙を流した。