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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
出会いと別れは突然訪れる
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第63話 勇気の翼 力尽く(5)

 この時期のスタインにしては、やや蒸し暑い夜を迎えていた。

 世界競技会、女子5000m決勝のスタートまで、残り数分。スタートへと向かう途中、ヴァージンの目にスタンドの中でいくつものアメジスタ国旗と、明らかに自らに向けた応援ボードや垂れ幕が飛び込んできた。


――Go!! WORLD RECORD QUEEN!!

――Go and Break 13:53.02!!


(ここまでの声援を受けたのは、久しぶりかも知れない……)

 ヴァージンは、スタートラインを前にしてかすかに笑った。地元のニューフェイスが出場する10000mとは違い、スタジアムに集うほとんどの観客が、ヴァージンの次の世界記録を待っている。特に、「フィールドファルコン」を携えるようになった今シーズンは何度も世界記録を叩き出しているだけに、期待の声は大きかった。

 新たな強敵と初めて勝負するヴァージンの心に、かすかな余裕が生まれた。

「On Your Marks……」

 ヴァージンは、外側レーンでスタートを待つ、一人の茶髪のライバルをじっと見る。大会での優勝経験はあるものの、ヴァージンやローズ姉妹と比べればほとんど名の知られていない、リゼット・プロメイヤ。彼女はこの日も「エアブレイド」をスタジアムのライトに輝かせ、右足でトラックをやや強く踏み感触を確かめている。

(よし……)

 号砲が高く鳴り響き、16人のライバルが2ヵ所のスタートラインから一斉に飛び出した。ヴァージンと同じ内側からスタートしたメリナが、ラップ67.5秒のペースまで一気に飛び出していく。その後をカリナが続き、ヴァージンは68秒よりやや遅いペースで二人について行く。最初のコーナーを曲がり切ろうとするとき、彼女が外側のレーンに目をやると、案の定プロメイヤが集団を引っ張り、やがてメリナとカリナの間に滑り込む。

(プロメイヤさんは、やっぱりラップ68秒か、それよりも少し速いペースだ……)

 最後にプロメイヤとトップスピードで勝負しなければならないと、レース前に何度もイメージしてきたヴァージンは、ラップ68.2秒まで落とさないように、普段のトレーニングよりもやや速いテンポでトラックを駆けていく。普段なら独走状態のメリナをその目ではっきりと追っているものの、この時のヴァージンには、プロメイヤの背中にぴったりついて行くカリナの姿しか見えなかった。

(メリナさんは、もう「フィールドファルコン」で2回も勝っている。極端にスピードを上げない限り、私はもう楽に勝てるはず。あとの二人は……、カリナさんがプロメイヤさんに絡んできそうだから、二人同時に抜く)

 この時のヴァージンは、前の3人との勝負を不安に思わなかった。シューズをトラックに叩きつけるとき、全くと言っていいほど衝撃を感じず、レース序盤にして、早くも力強く飛び立っている感触しかなかった。

 最速女王は、未知の強敵と「闘う」準備を徐々に整えつつあった。


 ヴァージンが2000mを体感的に5分41秒で駆けたとき、15mほど前でメリナがレースを引っ張っていることを、彼女はその目で確かめた。一方で、そのすぐ後ろにつくプロメイヤの走り方が、ここに来てゆったりとしてきた。ラップ68秒か、それをやや上回るペースは全く変わっていないものの、スタート直後と比べて腕の振り方が小さくなっており、その分だけ落ち着いて走っているように見えた。

(プロメイヤさん、スパートに入ったら腕を大きく振ってくる。ネルスの時もそうだった……)

 ヴァージンのギアを上げる瞬間が近づくにつれ、ヴァージンは脳裏にプロメイヤのスパートを思い出す。初めてその走りを見たときから何度も思い返し、勝負のイメージを組み立ててきたヴァージンにとっては、本人を前にしての唯一のイメージ確認だった。

(これから、プロメイヤさんは私にどこまで速いスパートを見せるか、もう楽しみでしかない)

 トラックを突き進む「フィールドファルコン」が、勝負の時を待つかのようにヴァージンの足でその「翼」を羽ばたかせていた。前を行く3人のライバルを捕らえ、自らの記録に立ち向かうという情熱の炎であるかのように、ヴァージンの足元でそのシューズは赤く輝いていた。

(もうすぐ3600m……。そろそろ、スパートをかけるライバルが出てきてもおかしくない)

 ヴァージンが心の中でうなずいたとき、これまでメリナに少しずつ引き離されてきたプロメイヤのストライドが少しずつ大きくなるのが見えた。ヴァージンがコーナーの途中で見る限り、わずかではあるがメリナに迫ってきているように思えた。それどころか、プロメイヤに刺激されるように、カリナまでスピードを上げ始める。

(カリナさんは……、一度も戦ったことのない相手にまで、いつものようについて行こうとしている……。これはもう、プロメイヤさんと一緒に追い抜く作戦になりそうだ)

 そう決心するのと同時に、メリナが11分16秒で4000mを通過した。それを見た瞬間、ヴァージンは普段よりほんの数秒早く、力強くトラックを蹴り上げた。

(私の本気の走りを、プロメイヤさんに見せつける時……!)

 4000mラインを駆け抜ける時には、ヴァージンは早くもラップ65秒ペースまで上がっていた。だが、その気配を感じたかのように、2位につけるプロメイヤがすぐに全く同じスピードまで駆け上がる。メリナもカリナも、ほぼ同じタイミングでスパートをかけたが、メリナとプロメイヤの差はコーナーの間でほとんどなくなっていた。

(プロメイヤさんとカリナさんが、メリナさんをあっさりと追い抜きそう……!)

 プロメイヤは4200mを過ぎた瞬間さらにペースを上げ、コーナーの入口でメリナの横に出た。ヴァージンもほぼ同時にラップ62秒までペースを上げるが、ここでもプロメイヤがほぼスピードまで加速し、あっさりメリナをかわした。

(いつもラップ62秒くらいのスパートを見せるはずのメリナさんが……、ついて行けない……)

 ここに来て、ヴァージンはプロメイヤが「強敵」であることを改めて意識した。ネルスでのプロメイヤはここから4600mまで、ほとんどヴァージンと同じ走り方を見せている。

(プロメイヤさんを、最後の1周、トップスピードで追いかけるしかない……!)

 プロメイヤにつけられた15mほどの差が、なかなか縮まらない。さらに、プロメイヤを追い続けているカリナとの差もほとんど変わらない。逆に、4400mを過ぎてコーナーに差し掛かったところで、ヴァージンの目の前に、3位に下がったメリナが迫ってきた。彼女は、もはや前の二人に食らいつくこともできなそうだ。

(もう、今日はメリナさんとの勝負じゃない……!)

 ヴァージンは直線に入るところでメリナの横に出て、ものの10秒もかけずしてメリナの前に出た。その瞬間、最後の1周を告げる鐘が鳴り響いた。自らの世界記録までのカウントダウンを告げる記録計と、その先でプロメイヤが大きく腕を振って加速する姿を、ヴァージンは鋭い目で見た。彼女との差は、まだ10m以上ある。

(プロメイヤさんが、ネルスのレースと違って、一気にペースを上げている!私は世界記録を狙えるかギリギリのところだけど、その前に、プロメイヤさんとここで勝負しなきゃいけない!)

 ヴァージンは12分57秒ほどで4600mのラインを駆け抜けるよりもやや早く、出せる限りの力でトラックから跳ね上がり、一気にトップスピードまで駆け上がった。「フィールドファルコン」の力強い「翼」が、前を行く二人を捕らえんばかりに、トラックの上で果敢に羽ばたいている。

(まずは、カリナさん……!)

 プロメイヤのトップスピードにいよいよ付いていけなくなったカリナの背中に、ヴァージンは食らいついた。もはやスローモーションにしか見えないカリナを、ラップ55秒まで達した力強いスパートで、あっという間にかわした。

 そして、ついにプロメイヤの背中がヴァージンの目に飛び込んだ。

(いよいよ、プロメイヤさんとの勝負……!)

 プロメイヤが、輝くような茶髪と引き締まった背中をヴァージンに見せながら、「エアブレイド」をトラックに激しく叩きつけ、懸命に逃げている。ヴァージンは、プロメイヤのストライドを確かめた。

(プロメイヤさんが……、ラップ57秒くらいのペース!)

 最後の1周をあっさりと流していったネルスとは世界が180度変わったかのように、プロメイヤが猛烈なスピードで飛ばしている。これまで他のライバルの動きに隠れてほとんどフォームが読めなかったが、プロメイヤの本気の走りを、ヴァージンは目のあたりにした。ラップ57秒は、「Vモード」を履いていた時代のヴァージンがターゲットとしていたスピードで、ライバルがそのスピードを見せるなどこれまであり得なかった。


――できる限りあなたに近づけたのだから。


(プロメイヤさんは、完全に私を意識している。最後の1周まで……、私を再現しようとしている!)

 プロメイヤが、直線から最後のコーナーに差し掛かろうとしている。ヴァージンもラップ55秒ペースのトップスピードでその背中を追うが、そのスピードをもってしてもプロメイヤとの距離をほとんど縮められない。コーナーの出口で5mほどまで近づくのがやっとだった。

 それでもヴァージンは、目の前の強敵と世界記録を、決して諦めようとしなかった。ストライドをさらに大きく取り、プロメイヤの横に出ようと体を斜めに向ける。ヴァージンと一心同体となった「フィールドファルコン」が、「エアブレイド」で逃げ切りをはかるプロメイヤに、スピードと高い戦闘力を見せつける。

 だが、次の瞬間、ヴァージンの目に飛び込んできたのはプロメイヤの苦しそうな横顔ではなく、まるでバリアでも張るかのような右腕の力強い一振りだった。前に出ようとするヴァージンを、空気の壁が跳ね返していく。


――私はその場で、ヴァージン・グランフィールドを倒す。


 見えないバリアから解き放たれるかのように、プロメイヤの言い放った言葉がヴァージンに襲い掛かった。それからプロメイヤは再び右腕を力強く振り、ヴァージンの前に出ようとする足を立て続けに封じる。

 その時、ヴァージンは足にかかる推進力がほとんどなくなっていることに気付いた。

(「フィールドファルコン」のパワーが……、奪われていく……)

 ハイスピードで立ち向かう「翼」が、度重なるプロメイヤの抵抗を受け、戦闘意欲を失ったかのようにしぼんでいく。もはや、ヴァージンの敗北は時間の問題だった。

 だが、それよりも彼女は気にしなければならないことがあった。

(プロメイヤさんが52秒台で……、ゴールしそう!)


 13分52秒98 WR


 記録計に刻まれた新たな世界記録は、最速女王の完敗と、ニューヒロインの誕生を光だけで伝えていた。

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