第7話 潰えかけたヴァージンの夢(4)
(予選落ち……)
ヴァージンは、係員の言葉を聞くなり、目の前が真っ白になった。ゴールラインのすぐ先でガックリと肩を落とす彼女の目の前を、たしかにグラティシモやバルーナが通り過ぎたのを見たが、ヴァージンの記憶にそれらのライバルが残ることはなかった。
ここ数ヵ月、トレーニングで伸ばすことのできなかった彼女のタイムになくしかけていた自信は、大会前のわずかな時間で取り戻すことができなかった。それが、ただ一つの敗因と言ってもいい。悪いのは、ヴァージン自身だと言うことを、その時彼女ははっきりと悟った。
薄い青のトラックは、結果を残せなかった一人のアスリートの中で、ぐしょぐしょに映った。
「ヴァージン」
聞き慣れた声に振り向くと、そこにはマゼラウスの姿があった。彼は、腕を組みながら細い目でヴァージンを見つめている。その姿を見るなり、ヴァージンは溜めていた涙を、トラックの上にこぼした。
「もう……、私、ダメですか……」
「私にも分からない」
これまで、何度となく教え子を励まし、勇気づけてきたその温かみのある口調からは想像できないほど、マゼラウスの言葉もどことなく悲しみに沈んでいた。マゼラウスは首を軽く横に振って、ため息をつく。
「ただ、ヴァージン。今の君を、私はどうすることもできない」
「コーチ……」
「どうすればいいか、今は自分で考える時だろう。何言っても、たぶんヴァージンの心を動かすことはできない」
そう言うと、マゼラウスはヴァージンに背中を向け、彼女の前をゆっくりと後にした。
セントリック・アカデミーとも、マゼラウスともこのような形で別れなければならない。それは、ヴァージンが言われなくても分かっていた結果だった。
ロッカールームに入り、ショートトップを脱ぎ捨て、トレーニングスーツをいそいそと着る。そして、スタジアムからケープシティ中心部のホテルにタクシーで向かう。ありきたりの動作にも関わらず、ヴァージンに吹き付ける風は、何もかも変わってしまった。
とくに、ヴァージンとマゼラウスはその間全く口を聞かず、最後は目すら合わせることなく隣同士のシングルルームに入った。ドアがパタリと閉まり、ベッドの上に座り込むと、ヴァージンはトレーニングスーツを着たまま、両手で額を覆った。
(私は、この大会でも結果を残せなかった……)
決勝に進むこともなければ、自らが標的にしてきたライバルたちに、予選ですら遠く引き離されていた。そして、最後は自らを襲うプレッシャーに、本気とはほど遠い力でスタジアムを去ることになってしまった。
ヴァージンは、ボストンバッグの中にある、これまで何度かの勝負のときに身に付けたショートトップに目をやった。アメジスタの国旗を彩ったそのウェアは、どこかかすんでいた。
――その夢を捨てろと言っただろ!何度も何度も!
――こんな貧しい国に、アスリートは生まれない!
以前から、口すっぱくジョージに言われてきた、アメジスタに関する呪縛。その呪縛を解き放とうとして、外に出たヴァージン。その彼女に、わずか1年で待ち受けていたのは、残酷すぎる現実だった。
(やっぱり、私には無理だったのかな……)
この間に取ったタイトルは、ジュニア大会での優勝が2回。それだけだった。世界トップクラスの選手が集うレースでは、全くいい結果を残していない。現実は、それだけだった。
そして、入れ代わり立ち代わり脳裏に飛び込んでくる、CEOの言葉もまた、彼女を苦しめる。
――ヴァージンは切れ!伸びないアスリートは切れ!
(私……)
直接目の前で話したことはないにしても、いつか遠目で見たあの表情をヴァージンは忘れることができなかった。そして、交互に映る、アカデミーでの様々な思い出たち。
(居場所を失ってしまう……)
このままアカデミーに戻れば、ロビーに入った瞬間、ウィナーに解雇を言い渡されてしまう。そして、わずか17歳のヴァージンは、生活の場すら失い、文明の発達したオメガの中で一人彷徨い続けることになる。
(そんなの嫌……)
ヴァージンは、軽く首を横に振るものの、それを覆すはずの自らの足が期待された結果を残していない以上、その現実を受け入れざるを得ない。だが、たった1年で全てと別れなければならないのは、ヴァージンの18年近い人生の中で初めての経験であり、それを受け入れてどうなるか、未だに意識したことがなかった。
これまで、アカデミーが用意したワンルームマンションで、トレーニングで疲れた体を休めていた。
ウェアの洗濯は自分自身で行っていたが、食事は全てアカデミーの中で済ませていた。
スポンサーが少なく、活動費用を出すことができなかったが、少なくとも大会参加の手続きや費用は、全てアカデミーが負担していた。勿論、それをアカデミーがよしとするわけではなかったが、そこまでヴァージンは助けてもらっていた。
それらが全て、音を立てて崩れようとしていた。
「嫌だ……!嫌だ……!」
マゼラウスのもとでトレーニングができなくなるどころか、ヴァージン自身がアスリートとして生きる全ての基盤を失ってしまうことと同じだ。そう悟ったヴァージンは、途端に右の拳をふかふかのベッドに叩き付けた。そして、マゼラウスが宿泊する部屋側の壁に向けて力いっぱい枕を投げつけ、それを何度も繰り返した。
「誰か……、助けて……」
「おいっ!」
(……っ)
狂ったようにドアが開き、これまで聞いたことのないトーンの声が、ヴァージンの耳を貫いた。恐る恐る顔をドアのほうに向けると、そこには右の拳を握りしめたマゼラウスの姿があった。
「いい加減にしろ!なんで、私の見てない前で、壊れちゃうんだ!」
「……すいません」
マゼラウスの顔には、ヴァージン以上に涙が溜まっていた。マゼラウスが何度か首を横に振るたびに、部屋の中に無数の涙の粒が落ちていく。
ドアをバタンと閉めたマゼラウスは、ヴァージンの前に立ち、教え子の強張った表情をじっと見つめる。物を言わないマゼラウスに、ヴァージンは何も言えない。
「ざけんなっ!」
マゼラウスは、左手でヴァージンの腰を掴み、ヴァージンをベッドから立ち上がらせる。そして、その勢いでおもむろに右手の拳をヴァージンの右の頬に叩き付けた。
「痛っ……!」
激しい耳鳴り音が、ヴァージンを襲う。それでも彼女は、恐れをなすような目でマゼラウスに顔を戻す。そこに、マゼラウスは拳を再び叩き付ける。
「目を覚ませ!」
二度、三度。ヴァージンに浴びせられる強い衝撃。ヴァージンは、歯を食い縛りながら、マゼラウスに顔だけを向けた。そして、しばらくの間が空いた後、マゼラウスは涙を顔に浮かべたまま、ヴァージンを睨みつけた。
「気持ちは分かる。でも、それならなぜ、それを力に変えないんだ!」
「……すいま、……せん」
「お前はアスリートだろ!悔しさを力に変えることが、できるんじゃないのか!」
マゼラウスがここまで険しい表情になったのを、ヴァージンは未だに見たことがなかった。彼女には、いま目の前に立つ人物が、別人であるようにさえ感じた。しかし、それは彼女の心に強く訴えかけるような印象を与えていた。
首を傾けることもできず、ヴァージンは1年間熱心に指導してくれた、心の支えとなる彼の表情をじっくりと見つめた。
「あのな……。ヴァージンがどれだけ頑張ってると言っても、おそらく私はもうCEOを止められないと思う。けれど、私は君のアスリートとしての人生を、ここで終わらせたくない」
「終わらせたく……ない……」
「君もそう思うだろ。走りたいんだろ!ライバルを追い越したいんだろ!」
その通りだった。
たとえ、1年前と全く同じ状況に戻ったとしても、ヴァージンの走りたいという気持ちだけは、たった一度のショックで消えてしまうようなものではなかった。メドゥやグラティシモなどといったライバルを、追い越してみたいのは、この時も変わらなかった。
アカデミー生としてではなく、勝負に挑む一人の人間として……。
「コーチ。私、一からやり直します……」
「ヴァージン……。どうしたんだ」
「もう一度、やり直そうと思います……。今まで、アカデミーに頼りっぱなしだった自分ではできないくらい、アスリートとして本気で勝負に……取り組みたい……」
全てを失う運命にあるヴァージンに、それが無理難題であることは分かっている。それでも、彼女を動かしたのは、マゼラウスの一言、ライバルの存在、そして何より、自身の抱いた熱い想いだった。
「大丈夫だな……?」
「はい」
「分かった。……君が、心を取り戻してくれて、本当に良かったよ」
マゼラウスが部屋を出て行くと、ヴァージンは睨みつけるように天井を見つめた。渡航費用や大会への参加費用を集めることがどれほど難しいか身を持って体験した彼女だが、今の彼女にそれが不可能と言える理由はどこにもなかった。
(夢があれば、いつかそれは現実に変えられる……)
翌日、本来ならヴァージンもそこにいなければならない女子5000m決勝が行われ、今年もまたメドゥの優勝で終わった。だが、最後までぴったりとついていたグラティシモが14分30秒86と自己ベストを更新したことのほうが、全てのライバルにとって気持ちを引き締めるきっかけになった。
予選とはいえ15分22秒38という低レベルのタイムで終わってしまった、ヴァージンには遠いタイムにも見えた。だが、それは決して追いつけないタイムではなかった。
アカデミー生は、同じ飛行機でオメガ国に戻ってきた。そして、同じバスに乗り、全く同時にアカデミーのゲートをくぐった。そして、ロビーを通過する選手一人一人を出迎えるウィナーの目に、ヴァージンとグラティシモの姿が留まった。
その時、覚悟はできていた。
「ヴァージン。それにマゼラウス。ちょっと待て」
「はい……」
そう言うと、二人はコーチ控室ではなく、ソファへと通された。
だが、その横でグラティシモも同時に止まり、ヴァージンの表情を見つめているのが、ヴァージンには不思議でたまらなかった。