第63話 勇気の翼 力尽く(3)
スタインでの世界競技会、女子10000mも残り1000mを切り、ヴァージンが5mほど前を行くロイヤルホーンを睨み付けながら、一気にペースを上げた。それまでのラップ70秒から、一気に67秒を切るペースまでスピードを上げ、ヴァージンはロイヤルホーンの横に出た。
ロイヤルホーンもヴァージンを横目で見ながらさらにストライドを大きく取り、ヴァージンを前に行かせまいと抵抗する。それでも、ロイヤルホーンの横顔は苦しさをにじませており、これからまだスピードを上げようとしているヴァージンとは全く対照的な体になっていることが、その目から容易に分かった。
(私は、今のロイヤルホーンさんを簡単に追い抜ける)
残り2周、9200mのラインを駆け抜けた瞬間、ヴァージンはコーナー手前でロイヤルホーンより前に出て、ラップ65秒近くのペースで突き放す。「フィールドファルコン」もロイヤルホーンには戦闘力をほとんど使っていないように、彼女の両足は感じた。
(あとは、後半で少しだけ無理をした私が、最後までパワーを維持できるか。世界記録は……きっと破れる!)
もはやライバルの息遣いは全く聞こえない。周回遅れのライバルを軽くかわしながら、ヴァージンは自らの記録へと立ち向かう。「フィールドファルコン」が力強い翼でトラックの上をハイスピードで飛び続けているかのように、彼女の足はもはや着地の衝撃を感じない。
最後の1周の鐘が響いたとき、ヴァージンは出せる限りのスピードまでペースアップした。体感的にはラップ58秒から59秒ほどのペースまで上がり、それでもなお足にほとんど負担を感じない。だが、一度勝負を仕掛けたヴァージンは、徐々に膝が重くなっていくのを感じた。
(やっぱり、7600mあたりのペースアップで、無理をしたのかも知れない……。でも、残りはあとわずか!)
ヴァージンは、懸命のラストスパートで世界記録に立ち向かう。できる限り体の重心を前に傾けながら、最速女王の全身が勢いよくゴールに飛び込んだ。
29分28秒81 WR
(何とか、世界記録を打ち破った……)
芝生の上で膝に手を当てながら、ヴァージンは記録計に目をやった。わずか0.04秒だけ前に出たと知った彼女は、小さな声で「やった」と呟き、それから再び下を向いた。足元の「フィールドファルコン」はそれでも飛び立とうとしていたが、久しぶりに極限まで力を出し切った「使い手」がそれ以上走り出すことはできなかった。
それから数秒も経たないうちに、ロイヤルホーンの手がヴァージンの肩に触れ、そこでヴァージンはようやく体を戻した。ロイヤルホーンもまた、疲れ切った表情の中でヴァージンを称えていた。
「本気の走りを見せたつもりだったけど、今日もまたグランフィールドには届かなかった……」
やや小さい声でそう言ったロイヤルホーンに、ヴァージンはしばらく返す言葉を思い付かなかった。最後の2周近く、ロイヤルホーンがどれほどまで食らいついたのかも分からないまま、ヴァージンは大型ビジョンに映った記録に目をやった。それから、小さく息を飲み込んだ。
(ロイヤルホーンさんが、自己ベストを大きく伸ばしている……)
ロイヤルホーンの記録は29分35秒86と、ネルスでの自己ベストよりも2秒以上縮めていることにヴァージンは気付いた。自己ベストでは、ヴァージンが差を縮められた形になっている。それらを全て心に言い聞かせた後、彼女はロイヤルホーンに目を元に戻した。
「ロイヤルホーンさんだって、もっと強敵になったじゃないですか。私が止まっていたら、いつ追いつかれてもおかしくないくらいにタイムを上げてます」
「でも、その時のグランフィールドに勝てなきゃ意味がない。それに……」
ロイヤルホーンが一度小さくうなずいて、ヴァージンに小さな声で告げる。ヴァージンは、少しずつ穏やかな表情に戻っていくロイヤルホーンをじっと見つめながら、次の一言を待った。
「私は、10000mよりも5000mのほうが似合っているのかも知れない。スタッフにも相談するけど、5000mだったら最後パワーが足りなくなるようなこともなくなるし、勝負を仕掛けるまでの退屈な時間も短くなる」
「5000mでも、私を意識するということですね」
「勿論。グランフィールドが、女子5000mの世界記録を誰よりも多く破ってるから、勝負のしがいがある」
「分かりました。ロイヤルホーンさん、待ってます」
ここでようやく二人は抱きしめ合った。その様子が会場のモニターに映し出されたとき、アフラリの人々が再び歓声を上げたのは言うまでもなかった。
だが、ロイヤルホーンがヴァージンの前から離れてから、インタビュワーが近づいてくるまでわずかな間に、ヴァージンの目は見覚えのある茶髪のライバルが飛び込んできた。涼しげな表情を浮かべながら、ヴァージンの一挙手一投足までスタンドからじっと見つめていた。
(プロメイヤさん、今日が5000mの予選でもないのに、スタジアムに来て私のレースを見ていた……)
ヴァージンがプロメイヤの目をじっと見つめたとき、プロメイヤは慌てて席を立ち、何事もなかったように一般の観客の中に紛れてしまった。この1年ほどで頭角を現してきた存在とは言え、地元出身ではないことが幸いし、スタインのスタジアムでは全く気付かれていなかったようだ。
(10000mで全力を出し切ったけど、本当の強敵は、本気のスパートが全く未知数のプロメイヤさんだ……。でも、10000mで世界記録を出せたのだから、4日後の5000mでも世界記録をプロメイヤさんに見せつけられる)
ヴァージンは、右手を強く握りしめながらスタンドから目を反らし、インタビュワーの質問に耳を傾けた。
それから数時間後、宿泊先のホテルに戻ったヴァージンは、別の部屋に泊まっているマゼラウスに「話がある」と言われロビーのソファーに腰掛けた。普段であれば、スタジアムの中で反省会をするマゼラウスが、それをロビーまで先延ばししたのは、プロメイヤと遭遇する可能性を考えてのことだった。
「まずは、10000mでの世界記録、おめでとう」
「ありがとうございます。最後、少し苦しかったので、あまり喜べない世界記録ですが……」
「だな……。久しぶりに、お前のスパートが重いのを見てしまった感はある」
マゼラウスはロビーのスタッフにアイスティーを注文し、ヴァージンもそれに合わせる。飲み物はすぐに運ばれ、二人はほんの少しだけ口にする。
「まぁ、無理したがっているのは分かる。このまま、ラスト1000mまで何もしない作戦を続けていたら、いつか世界記録が頭打ちになるだろうし、新たなライバルが迫っているからな」
「ロイヤルホーンさんと……、プロメイヤさん……」
「お前にとっては、後者のほうがより意識高いんだろうな。声も、プロメイヤだけ少し大きかった」
「気付かれてしまいました……」
ヴァージンは、金髪を右手で撫でながら小さくため息をつく。スタジアムにいたプロメイヤが早くもヴァージンに闘志をむき出しにしていた以上、10000mのインタビューが終わっていなかったとしてもそれを意識せざるを得なかった。
「お前のタイムトライアルを見ているが、5000mも少しずつラップ68.2秒より前に出ようとしている。ただ、68秒ちょうどまで達するのは怖がっている。だからこそ、傍から見ててもお前は4000mまで退屈そうに走っているし、逆に5000mで今日のようなきつさを私に見せることもない」
(たしかに、そうだ……)
ラップタイムの幅の大きいヴァージンを意識して開発された「フィールドファルコン」を操るようになってから、ヴァージンは足の裏に衝撃を感じることがほとんどなくなっている。特に5000mでは、走り終えた後もまだ走り出せるほど、シューズを含めて力を残していた。スパートより前にどれだけラップタイムを上げられるか、ヴァージンは自分自身で試行錯誤しているものの、一気にペースアップするきっかけに乏しかった。
「だからこそ、言いたい。『フィールドファルコン』の力を、もっと信じていいんだ。特に5000mではな。今日のような、ほぼ限界に近い走りを見せられれば、おそらくお前の意識するライバルも、突き放せる」
「プロメイヤさんを突き放せる……。間違いないと思います」
「これから始まる、5000mの予選、決勝。そこで、突き放してみろ。まだ同じトラックで走ったことのない相手だが、私はお前の走りを信じるからな」
「はい」
そう言うと、マゼラウスはアイスティーを一気に飲み干して、ヴァージンの目を見ながら小さく息をついた。一方のヴァージンは、プロメイヤの4600m過ぎまでしか見せなかったスパートを何度も思い返しながら、5000m決勝をどのように戦うか考え続けていた。
(まだ、トレーニングで68秒ちょうどを走り続けたことがない……。でも、コーチの言うように、できる限りそれに近づけることならできるかも知れない……)
レースを一つ終えたばかりのヴァージンは、早くも次のレースをイメージしていた。