第63話 勇気の翼 力尽く(1)
世界競技会の舞台、アフラリに出発する前日、ヴァージンは軽めのトレーニングを終えて午前中には家に戻ってきた。右手で玄関の鍵を取り出すのと同時に、左手をドアの取っ手に乗せた彼女は、すぐに違和感を覚えた。
(あれ、ドアが開いてる……)
アルデモードは、オメガじゅうのクラブチームに移籍交渉を申し込んでいるはずだ。少なくともこの時間に家にいることは、この1ヵ月ほどに限れば一度もなかったはずだ。
「アル、ただいま」
半信半疑で扉を開けたとき、中からドタドタと動くような音がはっきりと聞こえ、廊下の先でアルデモードが机からクローゼットに向かって急いで横切るのが、ヴァージンにはっきりと見えた。
「早かったね、ヴァージン。帰ってくるとは思ってなかったから、僕も慌てちゃったよ」
アルデモードは、フォーマルウェアに急いで身を包みながら、やや小走りになってヴァージンに近づく。
「アル、今日は移籍活動これからなのね」
「そうだね。今日は、カーザルというチームにこれから交渉しに行くんだ」
アルデモードは、そう早口で言いながらヴァージンにそっと笑顔を見せた。だが、ヴァージンはその一連の動きに戸惑うしかなかった。一応フォーマルウェアに着替えたとは言え、全く整えている様子もない。おまけに、移籍交渉に行くときにはほとんど欠かさず持っていたバッグを持たずに、玄関に向かおうとしていたのだった。
「アル、バッグ忘れているし、どうして慌ててるの」
「それは……。僕がちょっと時間を見間違えただけだよ。ちょっと遠くだから、今から行かないと間に合わない」
「いつもしっかりしてる、アルらしくない……。本当に未来を考えているんだったら、もっと落ち着かないと」
「分かってるよ……。まぁ、今日は失敗しないようにしないと……。行ってくるね」
アルデモードの手でドアを閉める音が聞こえると、家は再び静寂に包まれた。ヴァージンは、小さく息をついて、ゆっくりとリビングに向かった。半ば意識しながら机に目をやると、近くのゴミ箱の脇に、くしゃくしゃになった一枚の紙がゴミ箱に弾き返されて落ちていた。
(「あなたを一生幸せにする、素敵なガールがお待ちしています!」……って書いてある)
ヴァージンが髪を拾わなくても、そこに書いてある文字がはっきりと上に向けられていた。そこでついに、ヴァージンは紙を広げ、彼女の目の前に近づけた。
(何かの裏紙に使ったわけじゃない。両面に女の写真がある……。これ、いったい……)
それは、明らかにオメガセントラルの歓楽街にあるガールズバーのチラシだった。これまで、ヴァージンの家のポストにこのようなチラシが入っているのを見かけたことがあるものの、既婚となった身にいらないと思い、ヴァージン自身の手で全て捨てていたのだった。だが、今回のチラシは、ヴァージンがポストで見かけたことのないお店のもので、サイズもポストに入れるのはやや大きいサイズのものだった。
それをはっきりと裏付けるものが、裏面の右下に大きく書いてあった。
(チラシは私が配りました、マリーン。お店に出る日は……、今日の日付も書いてある……)
日付までヴァージンの目に留まった瞬間、彼女はほんのわずか寒気がしてくるのを感じた。このチラシを慌ててゴミ箱に捨てようとし、慌てて家を出ようとしたアルデモードが、このチラシの店に興味を持ってしまった可能性が、わずか数十秒で強まってきたのだった。
次の瞬間、ヴァージンは思い切って首を左右に振った。
(違う……。私のアルは、こんなことをするような人間なんかじゃない……。私、信じてる……)
ヴァージンの脳裏では、アメジスタで初めて出会った時から17年ほどのアルデモードの姿が、ほんのわずかな時間で駆け巡っていた。彼女が出会った時から、アルデモードはサッカー選手で、アメジスタの代表にも選ばれるほどの実力の持ち主だった。そして、アメジスタを抜け出してまでもリーグオメガの選手として活躍する。その姿が、今でもヴァージンにとってはただ一つのフェリシオ・アルデモードという人間だった。
ヴァージンの信じていた光景が、かすかにブレようとしていた。
(そんなことはない……。アルは、たまたまこのチラシを手にしてしまって、自分からそれを捨てたんだから)
ヴァージンは、再び首を横に振った。そして、明日からの長旅の準備を始めた。
(それに、今の私は世界競技会のことに集中しなきゃいけない……。今回、新たなライバルが出てくる以上、間違いなく簡単には勝てない勝負に挑まなきゃいけなくなるわけだし……)
アルデモードが半ば物色したようなクローゼットの中から、ヴァージンはレーシングウェアと「フィールドファルコン」、それに滞在日数分の着替えを取り出し、大きめのバッグにしまった。
その間ヴァージンは、机の上に広げたままのチラシを決して見ようとはしなかった。
その日、アルデモードは夜になっても戻ってこなかった。朝早い飛行機に乗らなければならないヴァージンは冷蔵庫のあり合わせで一人分の食事を作り、普段よりも早い時間にベッドに潜った。アルデモードのことを少しだけ気にしたものの、彼が戻ってくる前にヴァージンは深い眠りについてしまった。
目覚まし時計が鳴ったと同時に目を覚ましたヴァージンは、思い出したかのように飛び起き、アルデモードのベッドに目をやった。アルデモードはベッドで横になっており、クローゼットには前日慌てて着ていったフォーマルウェアが整然と戻されていた。
ただ一つ、ヴァージンにとって違和感だったのは、机に広げたはずのガールズバーのチラシが、ゴミ箱の中を含めてどこにも見当たらないことだった。その代わり、机の上にはアルデモードの直筆で書き置きが残っていた。
――変なチラシを残して、心配掛けちゃったね。本当にゴメン。ヴァージンは、世界で一番愛してる。世界最速の君を、テレビで一生懸命応援するよ。世界競技会、頑張れ。
(アル……。やっぱり私から離れたわけじゃなかったんだ……)
不安を抱えながら過ごした前日の午後のことが、寝起きの状態であったとしてもどこかに飛んでいってしまうのを、ヴァージンははっきりと感じた。それから何度もアルデモードのベッドの横に行き、初めて出会った頃から何一つ変わっていない、甘い表情をそのたびに見つめた。
(私、アルが応援してくれるなら、絶対負けない。負けるわけないんだから……!)
ヴァージンは、アルデモードの眠った表情を見ながら、そう大きくうなずいた。世界競技会にどのような強敵が集まろうとも、アルデモードが守ってくれそうな気がした。
だが、これからわずかな期間で、それらの全てが消えていく運命になろうとは、ヴァージンも、そしてアルデモードさえも全く思わなかった。たとえ、二人の心がかすかに笑いあっていたとしても。
二人の間で流れつつある悲劇の車輪は、その回転を止めるどころか、さらに勢いを増そうとしていた。
アフラリは、10000mで新たなライバルとなったロイヤルホーンの出身国だった。スタイン近郊のホテルに向かうときでさえ、ヴァージンは何度もロイヤルホーンが大きく映った世界競技会のポスターを見ることになった。
(ロイヤルホーンさんの地元だから、やっぱりアフラリではロイヤルホーンさんを応援する……。でも、アメジスタではきっと、遠くから私のことを応援してくれるはず)
たとえアフラリ出身ではない選手――当然、その中にヴァージンの姿もはっきりと見えた――の画像が小さく映っていたとしても、ヴァージンの決心は揺らがなかった。ロイヤルホーンよりも10秒近く速い10000m自己ベストを持っていることが、この時のヴァージンには十分すぎるほどの自信を与えていた。
10000m当日、スタインのスタジアムにヴァージンはレース4時間前に入った。街中で見かけたものよりもはるかに大きなサイズのポスターが、スタジアムの入口に飾ってあり、そこに映っていたロイヤルホーンの画像には、アフラリの言葉で「今日」というシールが貼られていた。
ヴァージンの姿を追うカメラマンは何人かいたが、それよりもはるかに多い地元テレビ局のカメラマンが、ロイヤルホーンの会場入りを待っているかのように構えていた。それだけ、アフラリのスターへの期待があらゆるところで高まっていた。
ちょうどヴァージンの受付が終わったとき、入口から通ってきた道で無数の歓声が沸き上がった。アフラリの陽光に照らされて、やや濃いめの肌を輝かせるロイヤルホーンが、ゆったりとした足取りで近づいてくる。そして、意識的にヴァージンに目を合わせた。
「ヴァージン・グランフィールド。この前は負けたけど、今日は地元でその借りを返すわ」
「臨むところです」
二人が言葉を交わす瞬間が、アフラリの放送局のカメラにはっきりと映った。女子10000mの号砲が、その瞬間に鳴り響いたかのようだ。