第62話 勇敢なスプリンター(6)
予定よりも数分早く、イリスはヴァージンの待つ選手受付の前に姿を見せた。オメガスポーツ大学の陸上部員は、彼と同じシェアハウスで生活するプロメイヤを含めてスタジアムを後にしており、イリスだけがもう一度広場に戻る形になった。
「やっぱり、来てくれたんですね。今日は、僕のレースを見に来てくれてありがとうございます」
「こちらこそ、目の前でイリスさんの本気のスピードを見られて、本当によかったです」
つい1時間前に全速力で100mを駆け抜けたとは思えないほど、イリスの足はしっかりとアスファルトを踏みしめていた。この場所がもしもトラックであれば、イリスがここから走っていきそうだ。
イリスは、ヴァージンに笑顔を見せるとスタジアムの外にまっすぐ右手を伸ばした。
「グランフィールドさん。今日は、陸上部で打ち上げをやらないので、二人だけで僕の過去最高順位のお祝いやりませんか。それに、グランフィールドさんにどうしても教えて欲しいことがあるので」
「私に、イリスさんが教えて欲しいこと……、ですか……」
「そう。ぜひ話が聞きたいんです。忙しいかと思いますが、いいですか」
ヴァージンに頭を下げるイリスに、ヴァージンはすぐに笑顔でうなずいた。
「そんなかしこまらなくていいですよ。私は、普段のイリスさんが見たいんです。ぜひ、打ち上げやりましょう」
「ありがとうございます。女子でも気に入ってくれそうなお店を見つけたので、一緒に行きましょう」
イリスに誘われたお店は、おしゃれな雰囲気が白黒の壁に溶け込む、大人のカフェだった。ヴァージンもイリスも、この場所にあまりフィットしないトレーニングウェアで店のドアを開く。それでも、世界レベルのアスリートとしてたくましい体に育った二人は、この大人の空間でも1分もしないうちに溶け込んでいった。
「イリスさん、よくこのお店に行くんですか」
「そうですね。トレーニングの後に気持ちを落ち着かせるんだったら、この店って決めているんです」
そう言うと、イリスはカフェのスタンプカードをヴァージンに見せた。イリスが、1年で10回以上もこの店に通っていることに、ヴァージンは思わず息を飲み込んだ。
「じゃあ、むしろこの店のことはイリスさんに聞けば分かりますね。おすすめのメニューを教えてください」
「そうだね……。僕がグランフィールドさんに似合ってると思うのは、この『金のバナナジュース』ですね」
「『金』という言葉だけで、陸上選手はときめいてしまいます。一ついただきます」
「じゃあ、僕もこの『金のバナナジュース』にします」
イリスは、ウインクだけで店員を呼び、オーダーした。それから体の向きを戻すと、小さく息をついた。
「グランフィールドさんにいろいろ聞く前に、今日こうして9年ぶりに会った僕の印象、少し気になります」
「イリスさんの印象……。小学生の頃とギャップを感じないくらい、強い陸上選手に育ったと思います」
「小学校の頃と、ギャップがない……。地元の同級生ですら、そう言われたことないです」
イリスは、やや顔を赤くしてヴァージンに笑顔を見せ、すっかり汗の引いた茶髪を右手で撫でる。
「何と言うのかな……、イリスさんは小学校のみんなとレースをしたとき、いや、授業の時からかも知れないのですが……、私に本気の表情を見せてくれました。あの時と比べてイリスさんの体は大人になりましたが、今日の予選と決勝、走っている間ずっとあの表情を見せていました。今思うと、やっぱり……、アーヴィング・イリスという同じ人間なんだって思いました」
「僕が成長しても、そこだけは変わらないってことですか」
「そうですね。勇敢に駆け抜けるのが、イリスさんのトレードマークですから。逆に、どんなにスピードがあっても、あの表情が見えなかったら人も変わったと思ってしまうんです」
ヴァージンの言葉に、イリスは何かに気付いたかのようにはっとした。それから彼は、納得した表情をヴァージンに見せ、逆にヴァージンに聞き返した。
「逆にグランフィールドさんがレースで走っていて、これこそグランフィールドさんだと思わせるのは何ですか」
「世界記録を追い続けるための、トップスピードだと思っています。たとえ記録更新が無理そうなタイムでも、できる限り最後は出せる限りの力で走り切りたいと思うんです」
「僕も、グランフィールドさんの強さ、そこに感じますね」
そう言って、イリスは軽く笑った。それからややヴァージンに顔を寄せて、再び口を開いた。
「で、僕のレース、見て分かったと思うのですが、やっぱり上が強すぎて、僕は4位がやっとなんです。グランフィールドさんが……、どうして世界一になれたのか、何かコツみたいなのがあったら教えて欲しいんです」
(えっ……)
ヴァージンは、真剣な表情を浮かべるイリスに戸惑った。オルブライトを上回る4位であることを全くよしとしない姿勢が、イリスの声からもはっきりと伝わる。
(一言で片づけられる問題じゃない……。でも、イリスさんは小学校の時から私にずっと憧れて、私をずっと応援しているからこそ、ほとんど誰にも言えないような悩みだって口にできるのかも知れない……)
ヴァージンは、イリスから少しの間だけ目線を反らし、彼女なりの考えをまとめようとしたが、その時に限って静寂を切り裂くように、二人の前に「金のバナナジュース」が運ばれてきた。
ヴァージンは、運ばれてきたドリンクに少しだけ口をつけ、イリスに向けて一度うなずいた。
「私は、信じています。最終的なタイムを決めるのは、身体能力だけじゃないって。ライバルや、過去の自分に勝ちたいという気持ちの大きさ、そしてその強い気持ちでどれだけのパワーを生み出せるかだと思うのです」
「グランフィールドさんは、身体能力の差じゃないって考えるですね……」
「身体能力だけで順位やタイムが決まるなんて、考えたくありません。トラックに立つ前に勝負がついてしまうのなら、走る意味なんてない。みんなが同じレースを走る中で、どれだけの強い気持ちを見せられるか。全く勝ち目がないと言われているライバルを前にしても折れないくらいの強い心で挑めば、きっとその強い心から、ライバルに食らいつけるパワーが出てくると思うんです」
ヴァージンは、イリスにそう答えながら、何度も追いつけなかったライバルの背中を思い浮かべていた。真剣に聞き入るイリスに、ヴァージンはさらに話を続けた。
「私だって、最初は自己ベストだけを見れば、勝負にならないようなライバルがたくさんいました。けれど、どんなに追いつけない背中であっても、戦うたびに勝ちたいという気持ちが大きくなって、何度か挑戦してやっとその背中を抜き去ることができるのです。だから私は、トラックに立った時、弱い自分を絶対見せるものか、と心に言い聞かすのです」
「でも、人間そううまくはいかないですよね」
「イリスさんの言う通りです。5000mも走っていれば、時々どこかで弱い自分が現れてしまいます。でも、本当に大切なのはそれをどれだけ早く捨てられるかです。一瞬で勝負が終わるイリスさんは、弱い自分を見つける前に無我夢中で走り切ってしまいそうですが……」
ヴァージンの言葉に、イリスは笑った。それから小さな声で「考えている暇なんてないですよ」と告げた。
それからヴァージンは、真剣に聞き入っていたイリスにやや声を強くして言った。
「長く話しちゃったけど、イリスさんはとても勇敢なアスリート。勝てないって思うんじゃなくて、もっと勇気を膨らませて、その勝てないと思っているライバルに挑んでいけばいい。イリスさんなら、きっとできます」
カフェの中を、ヴァージンの言葉が余韻として響き渡る。その余韻が消えた直後に、イリスは静かに言った。
「さっきオルブライト選手に勝てたのも、偉大な存在に対して勝ちたいと思ったからですね。きっと」
4位に満足していないはずのイリスが、それでもこの日唯一の収穫には満足している様子であるように、ヴァージンの目には見えた。
「イリスさん。私からも一つだけ聞きたいことがありまして……」
「何でも聞いていいですよ」
「あの……、さっきトラックの上でオルブライトに何と話したんですか……」
ヴァージンが尋ねると、イリスは先程よりもはるかに大きな笑顔を見せた。わずか10秒のレースを思い出しながら、イリスはこう告げた。
「これが、オルブライト選手の背中を見て育った、僕の力です」
二人分のお代を、ヴァージンはまとめて支払った。その時、レシートをトレーニングウェアのポケットにしまったことすら、別れ際のイリスの表情に夢中で、彼女は気付かなかった。
日が暮れた頃、ヴァージンが家に戻ると、アルデモードが先に戻っていた。アルデモードを出迎えるはずだったヴァージンは、心の中で一瞬だけ青ざめたのか、ポケットの中から「2名様」と書かれたレシートを落としたことすら気付かなかった。
「ごめん、アル。オメガセントラル選手権を見てたら、こんな時間になっちゃって」
「まぁ、遅くなるんだったらいいけど、これ――」
アルデモードの手に握られていた「金のバナナジュース」2杯のレシートが、ヴァージンの目に飛び込んできた。彼女の右手は、正直に口を抑えようとしたが、慌てれば慌てるほど事が悪化していくことに気付き、すぐにその手を引っ込めた。
「私が小学校に特別授業に行った時、一人だけ陸上クラブに入っていたイリスさんが、プロデビューしたんです。その彼に、レースの後にいろいろと教えて欲しいと言われて……、こんな時間になってしまって……」
(全く違う説明になってしまった……。アル、怒るかな……)
ヴァージンは、アルデモードの表情の変化を追った。だが、彼の甘いマスクが硬くなることはなかった。
「なるほどね……。一人のアスリートとして教えてあげるのも、また大事な活動だと思うよ」
アルデモードが、普段と変わらないトーンで返す。だが、その言葉を言い終えた後、アルデモードは小さくため息をつき、じっと床を見つめた。それからアルデモードは、決してヴァージンに聞こえないように呟いた。
「僕はもう、見切りをつけられたのかな……」