第62話 勇敢なスプリンター(5)
(走り方を、私に近づけた……)
目の前で全力のラストスパートを見せなかったものの、さらりと「近づけた」という言葉を伝えたプロメイヤに、ヴァージンはやや目を細めた。ヴァージンのようにスパートを重視し始めたメリナでさえ、そこまで強い口調で言ってくることがなかっただけに、プロメイヤがメリナ以上の強敵であることをヴァージンはすぐに察した。
「私は、たしかに前半をある程度のスピードで進み、後半伸ばしていくタイプです。私がそれで世界記録を出しているから、私を真似するライバルが増えていくのは、間違いないようですね……」
「そうね。先に出るためには、最低限その走りを真似した上で、そこから精度を上げていかなきゃいけないって、私はいつも言い聞かせてる。だからこそ、私は高校からあなたの走り方にずっと近づけようとしていた」
プロメイヤが、ヴァージンの目をじっと見つめながら、落ち着いた口調でヴァージンに告げる。ヴァージンがかすかにうなずくと、プロメイヤの声がさらに大きくなった。
「いつまでも、ヴァージン・グランフィールドが女王であり続けるなんて、誰が考えてもあり得ない。今のあなたに勝てる女子は、ほとんどいないと思う。私の他には」
「なら、私はプロメイヤさんだけには負けないと、いま決めます」
「女王のあなたは、そう答えるわけね。でも、そう言ってられるのも、おそらく、来月の世界競技会までよ」
ヴァージンは、プロメイヤの出場を想定していたものの、本人の口から直接そう告げられたことで改めて納得した。彼女の自信たっぷりの口調が、ヴァージンの闘争心をより高めていく。
「世界競技会、勝負になりますね。プロメイヤさんとの初めての対決」
「そういうこと。そして、私はその場で、ヴァージン・グランフィールドを倒す」
そう言って、プロメイヤはヴァージンに背を向けた。プロメイヤが遠ざかるにつれ、本番と同じような「無」の空気もまた遠ざかっていくのを、ヴァージンは感じていた。
(初対面でここまで私に敵対心を燃やしているの、初めてかも知れない……。今まで、ウォーレットさんとかメリナさんとか、強い口調のライバルはいたけど、その二人をプロメイヤさんははるかに上回る)
プロメイヤの気配が完全に消えたとき、ヴァージンは両足に携える「フィールドファルコン」から激しいパワーが放たれているのを、ようやく感じた。今すぐにでもその足でプロメイヤとの勝負に臨みたいかのように。
(「フィールドファルコン」を履かないで、あのスピード。プロメイヤさんは、かなりの強敵だ……)
レースに出場しないにも関わらず訪れたサブトラックを、彼女はゆったりと走りつもりだったが、最初の一歩を踏み出す前には、できる限り全力で5000mを走り切りたいとさえ思うようになっていた。
(私は、プロメイヤさんに追いつかれないように、今の世界記録をまた破る。強敵と出会った私が、プロメイヤさんに見せつけるのは、次の世界記録でしかないのだから)
男子100mの予選から決勝までの間に流れる3時間はあっという間に過ぎていき、イリスが決勝の舞台に立つ時間が近づいてきた。サブトラックでのトレーニングを終えたヴァージンは、予選の時に座っていた席に向かった。世界競技会が近く、それほど有名選手が出ていないこともあり、ヴァージンが座っていたスタンドは4割ほどしか席が埋まっていなかった。
(おそらく、私の座っていた席は空いているはず……)
ヴァージンは、入口のフロアから一段、また一段と階段を下りていった。やがて、観客の頭と頭の間に小さく、つい数時間前に彼女が座っていた席が現れた。だが、その席には一枚、紙が置かれていた。
(もしかして、私が座っていた席が壊れて、座れなくなったとか……)
席の上に紙があることしか分からないヴァージンは、あれこれ考えながら席の前に辿り着いた。すると、そこには手書きで短めの文章が書かれた1枚の紙が、セロテープで張り付けられていた。
――決勝が終わっても、大学のみんなはテストが忙しくて、打ち上げをしないみたいです。僕は、せっかく来てくれたグランフィールドさんともう少し話がしたいと思っているので、もし忙しくないようなら、15時にさっき会った場所で待っています。 イリス
(イリスさん……。私、15時に必ず行くから。私だって、もう少しイリスさんと話がしたいし)
席に貼ってあった紙を外し、ヴァージンは予選と同じ席に座った。ちょうどその時、選手入場口からイリスが姿を見せ、ヴァージンの座るスタンドを一目見るなり、小さくうなずいた。予選以上に真剣な表情のイリスは、わずか10秒の世界を心の中でシミュレーションしているようだった。
(ギリギリで決勝に残ったけど、もしイリスさんがこのトップアスリートばかり揃った決勝で優勝とかしたら、その瞬間にイリスさんもその仲間入りができるはず……)
男子100m決勝。オルブライトをはじめ、知名度の高い選手ばかりが揃う、大会で8人しか挑むことが許されない世界。その中に、たった一人、ほぼ無名のイリスがいる。けれど、たった10秒走った結果次第で、それを見る多くの者の心を動かすこともできる。
これまで、スタジアムで何度も歓声を聞いたヴァージンは、数分後に走り終えてからのイリスを心の中で想像した。勝負に挑もうとするイリスは、ヴァージンの目に映る8人の中で誰よりも強そうに思えた。
(イリスさん……。私は、さっきよりもいい結果を待っているから……)
ヴァージンが祈るような目を浮かべながらスタートを待っていると、スターターが8人の横までやって来る。ようやく止まっていた時間が動き出した。これから、一瞬で終わる大勝負が始まる。
(頑張れ……、私がずっと応援してきた、若きアスリート……!)
オルブライトが5レーン、イリスがすぐ隣の6レーン。多くの観客は、6レーンの青年をほとんど見ていない。だが、10秒後の彼を想像できる者は、ヴァージンとイリスを除いてほとんどいなかった。
静寂を切り裂く号砲がスタジアムに鳴り響く瞬間、8人が一斉に飛び出す。イリスが一瞬でスピードを上げ、8人の中から体一つ分だけ前に出る。隣のオルブライトが、一人の青年に食らいつくような走りしかできない。少なくとも、オルブライトの走りが、イリスの力を前にぼやけていることは間違いない。
それでも、ほんのわずか生まれたスタートダッシュの差は、ヴァージンの前を駆け抜けるよりはるかに早く失われ、一人、また一人とイリスをその後ろに追いやっていく。イリスはただ、正面に見える白いゴールラインに照準を合わせ、出せる限りのスピードで前に出たライバルに食らいついていく。
(イリスさん……!まだほとんど差が付いてない。きっと、きっと勝てる……!)
ヴァージンの目の前を、8人がほぼ同時に駆け抜ける。彼女は、イリスのスピードが予選をはるかに上回っていることをはっきりと感じた。
――これが、アーヴィング・イリスの出せる全ての力だ!
そう吠えるように、イリスはトラックの上で立ち向かう、勇ましき獣になっていた。
ヴァージンは、歓声に包まれていくスタジアムの中で、最後の最後までイリスの背中を追い続けた。そして、どの背中が一番ヴァージンより遠くに達したかも、後ろ姿ながら確かめた。
(イリスさん、4位……。でも、あと少し実力を上げれば、間違いなく優勝できる差だった……)
ヴァージンが、心の中でそう言い聞かせた瞬間、大型ビジョンに100m決勝の順位が一覧で表示され、そこに刻まれた名前に一斉に歓声が上がった。その中でも、オメガスポーツ大学の応援席が特に盛り上がり、そこから割れんばかりの拍手が沸き上がる。
(もしかして……、イリスさんが3位に入ったとか……。いや、それはないはずだけど……)
すると、ヴァージンの隣に座っていた男性が立ち上がり、大型ビジョンにまっすぐ手を伸ばした。それから、その結果を確かめると声高らかに叫んだ。
「まだほとんど名前を知られてない青年が、あのザック・オルブライトに勝つなんて!」
(そうだ……。イリスさんばかり気にしていたけど、イリスさんはオルブライトさんに追いつかれなかった!)
そのことが分かった瞬間、ヴァージンも席を立ちあがり、「普通ではない」4位の青年を大きな声で称えた。ちょうどその時、トラックの上ではオルブライトがイリスにゆっくりと近づき、鍛え上げた腕でイリスの体を抱きしめた。イリスはその瞬間にオルブライトに何かを言ったが、ヴァージンには聞こえなかった。
(イリスさん……)
これまで男子100mで輝き続けたオルブライトより前に出たことが、このレースで何よりスタジアムを沸かせていた。イリスのその姿に、ヴァージンは席に座ることができないばかりか、かすかに涙さえ流していた。
(私も、全く無名の時にジュニア大会で優勝して、みんなを驚かせた。18歳で世界記録を破ったときもそう。今のイリスさん、それに近い雰囲気を感じる……)
今年いっぱいでの引退を決めている「偉大な父親」から若きイリスへと、世代が変わっていく――ヴァージンはその瞬間に立ち会ったのだと、はっきりと確信した。