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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
出会いと別れは突然訪れる
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第62話 勇敢なスプリンター(4)

 イリスの真剣な表情が、第4レーンが導く勝負の道を貫く。両隣には、ヴァージンも名前を知っているレベルの有名選手がイリスの存在をかすませようとしているが、イリスの目は隣のレーンを走るライバルに打ち勝とうという、強い意思を持った眼差しだった。

 スターターが号砲を高く上げ、トラックに横一列に並んだ8人の足が戦闘態勢に入る。わずかな静寂に、客席にいるヴァージンもかすかに息を飲み込む。そして、号砲がスタジアムにとどろいた。

(イリスさんの……、成長した姿。私は期待している……)

 イリスの全身が前に伸び、100m先のラインを追い続ける。3レーンと5レーンに揃ったライバルよりも、イリスは一瞬だけ前に出る。彼の出せる限りのスピードに、早くも達したようだ。その直後に、彼はヴァージンの目の前を駆け抜けていく。

(速い……。あっという間に、イリスさんが駆け抜けた……。まるで、風のよう……)

 ヴァージンは、普段のレースでは決して使うことのない動体視力で、8人の選手の背中を追った。序盤はトップに上り詰めたイリスが、たちまち両隣の二人にかわされていた。その二人に食らいつくも、二人よりも前に出るためのスピードは、今のイリスにはなかった。

 それでも、イリスの体は決してスピードを落とすことなくゴールラインに飛び込んだ。先を越された二人のライバルよりも、ヴァージンには一歩だけ差ができているようにしか見えなかった。

(たった、たった2mの差……。5000mでも1秒にもならない差のはずなのに……、100mだとほとんどタイムの差がないはず。でも、私の目から見てもイリスさんはトップに立てなかったのだけは分かる……)

 ヴァージンは、疲れ切ったかのようにゴールの先で膝に手を当てるイリスの表情を確かめようとした。だが、彼の目は決してヴァージンのほうを見ようとしなかった。彼よりも前に出た二人――決勝進出を決めた二人――を見ながら首を横に振る。ヴァージンには後ろ姿しか見えなかったが、悔しさだけははっきりと映っていた。

(おそらく、イリスさんは3位。あとは、全体のタイム次第で決勝に進めるか……)

 ヴァージンの目がイリスの姿を追い続けるうちに、彼はトラックの外に出て、オメガスポーツ大学の旗に向かって歩き出した。ヴァージンから見て右斜め前の、関係者用スペースに陣取った数多くの大学陸上部員が、100m予選を懸命に走ったイリスを出迎える。

(あっ……!)

 次の瞬間、ヴァージンは記憶の中から一人のライバルの顔を思い出した。リゼット・プロメイヤの若々しい顔と、空からの光に照らされ輝く茶髪に、ヴァージンはすぐにその存在に目を細めた。

(私にとって、間違いなくライバルになる存在……。たしか、シェアハウスで私を意識するような発言をしているって、イリスさんから話が来ていたような気がする……)

 だが、ヴァージンがプロメイヤのことを思い出した瞬間、プロメイヤもまた一般席にいるヴァージンの存在に気が付く。プロメイヤの鋭い視線が、ヴァージンにはっきりと伝わった。

(私を睨みつけている……。イリスさんが、プロメイヤさんに私が来ることを話していなかったとしても、同じ種目で戦うライバルだから、私のことを意識するのは間違いないけど……、これから走るわけじゃないのに恐怖の視線を浴びせているようにしか見えない……)

 プロメイヤが睨みつけたのはほんの数秒だけだったが、ヴァージンにはそれが何分もの時間に感じられた。それでもヴァージンは、いつか戦わなければならない相手だと割り切って、気が付くと笑っていた。

(たしかに、ネルスでのプロメイヤさんは驚異的なペースだった。でも、今の私が負けるわけない)

 ヴァージンが、新たなライバルに向けて自信を見せたとき、プロメイヤの周りにいる部員たちがわっと喜んだ。トラックの外で予選3組のタイムが出るのを待っていたイリスが力強く拳を握りしめると、客席から部員たちが次々と「おめでとう」の一言をイリスに浴びせるのだった。

 10秒59。イリスは、決勝進出者を除く全体の2位に入り、決勝進出を決めた。決勝に進めるか否かのラインは、わずか0コンマ02秒だ。

 それまで気が気でなかったような表情に見えたイリスも、3時間後の決勝に向け早くも調整に入っていた。


 イリスの予選結果に胸をなでおろすヴァージンだったが、彼女がすぐ近くにいるライバルと鉢合わせする筋書きは、それとは関係なく既に作られていた。

 オメガセントラルでのレースに出るわけではないのに、ヴァージンの足は客席からサブトラックに向かった。多くの選手が荷物を置いているトラック横の広いスペースに、家から持ってきたバッグを置き、そこからトレーニング用の「フィールドファルコン」を取り出した。

(決勝まで何時間もある。だから、ここで私は自主トレ。軽く走るだけだけど……)

 ヴァージンは、シューズを足に纏うなり心の中でそう言い聞かせた。もっとも、13分53秒02という女子5000mの世界記録を叩き出したアスリートにとって、「軽く」は決して「ゆったり」という意味にはならない。念入りにストレッチをした後、ヴァージンはトラックの上に立って前を見つめ、スタートの体勢に入った。

 だが、その直後に彼女は後ろから鋭い気配を感じた。ライバルが近くにいると、彼女は直感で分かり、左右を見渡す。すると、トラックの後方からプロメイヤがゆっくりと近づいてくるのが分かった。

「あなたが、ヴァージン・グランフィールドね」

「はい。プロメイヤさん……、初めまして」

「こちらこそ。それにしても、さっきまで一般席にいたのに、あなたがこんなところでトレーニングしているなんて思わなかった。さすが、今は私の上に立つ、女子長距離界のスーパースターね」

 プロメイヤの口元は、そう言うなり静かに笑った。言葉のところどころから、明らかに敵対心がにじみ出ているように、ヴァージンは感じた。メリナのそれをより強くした口調を、わずか19歳の大学生が普通に使っていることさえ、出会うライバルたちに恐怖心を与えているようだ。

「私は、時間が許す限り速く、強くなりたいと思っています。せっかく、ここが解放されているのですから」

「それは私も言えること。今日は大学の応援で呼ばれたけど、今は部員の出るレースがない自由行動の時間だから、私は私なりに時間を組み立てていくの」

 そう言うと、プロメイヤが5000mスタートラインに迫り、ついにヴァージンの横に立った。

「一つ忠告しておこうかな。私は、神のような存在が大嫌いなの。勝負の世界に、神なんていない。レースで一番になった選手だけが、その瞬間だけ神になれるの。それだけは分かっておいて」

「たしかに、そう言ってくるアスリートは何人もいますね」

「そんな言い方をしているあなたのほうが、周りから女王と言われる存在なのにね」

 そう言うと、プロメイヤはヴァージンを振り切るようにトラックを駆けだした。全く呼吸が合わなかったヴァージンは、プロメイヤと同時に走り出すタイミングを失い、一度トラックの外に出た。

 そこでヴァージンは気が付いた。

(プロメイヤさんが、「フィールドファルコン」を履いてない……。あれは、どう見てもフラップのシューズ……)

 エクスパフォーマのロゴのない、黒いシューズばかりにヴァージンは意識が行ってしまい、半周以上回ってからようやくプロメイヤのラップを追った。

(プロメイヤさんが……、トレーニングなのにラップ68秒ペースで駆けている。もし5000m走るとして、私でもタイムトライアルじゃない限り序盤からこのタイムを意識しないのに……)

 ネルスでのレースよりもはるかに近い距離で、ヴァージンはプロメイヤの走りをじっと見つめる。ヴァージンのストライドと比べ、プロメイヤの序盤の走り方はかなり落ち着いて見える。後半にパワーを残していること以上に、ゆったりと走ってラップ68秒を維持できていることのほうが、ヴァージンには気になって仕方ない。

 そして、ネルスでのレースよりもやや遅いペース――ヴァージンの感覚で8分31秒ほど――で3000mを駆け抜け、そこでプロメイヤがかすかにスピードを調整した。ゆったりとした走り方から、徐々にペースアップの瞬間を待つ走りへと変わっていく。彼女の息遣いすら、ヴァージンの耳にはっきりと聞こえてくる。

(あの時と同じように、私と同じ4000mでペースを上げていくはず……)

 徐々にラップを進めていくプロメイヤを、ヴァージンはじっと見つめ続けた。足元の「フィールドファルコン」が、ここからでも勝負をしたいかのようにヴァージンの足にパワーを吐き出しているが、彼女は決してこの場での勝負をするつもりはなかった。

 だが、プロメイヤの足が4000mのラインを過ぎた瞬間、彼女は一気にペースを上げるどころか、そこで力を抜いて、歩きながらトラックの内側に入った。ほんの30歩進んだだけで呼吸を整えたプロメイヤは、ゆっくりとヴァージンに近づき、先程のような薄笑いを浮かべた。

「どう、私の4000mまでの走りに驚いたでしょ。できる限りあなたに近づけたのだから」

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