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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
出会いと別れは突然訪れる
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第62話 勇敢なスプリンター(3)

「さっきサウスアイランドの担当者とアポイントが取れたから、明日移籍交渉に行ってくるよ」

「分かった。アル、明日、オフだから家でいい結果待ってる」

 アルデモードから数日おきに移籍交渉の話が出てくるようになり、ヴァージンにはそのたびに安心感が生まれていた。契約を結ぶという最高の収穫には至っていないものの、アルデモードが少しずつ自信を取り戻しているようにヴァージンに見えるのは、間違いなかった。

(有名選手だと、オメガ国内に限らず、世界中のクラブチームからオファーが来たりする。アルも、国内がダメだったら、もしかしたらサッカーが盛んな他の国を1週間かけて交渉するのかも知れない……。今のアルには、その覚悟もできているのかも知れない)

 洗濯機の前で、一人笑顔を浮かべるヴァージンは、ふと壁に飾っているカレンダーに目をやった。

「あっ……」

 その声にアルデモードが振り向いたことも気付かないほど、ヴァージンはカレンダーの前で息を飲み込んだ。

(そうだ……。明日、イリスさんの出るオメガセントラル選手権だった……)

 明日のオフは、早い段階でヴァージン自身が決めていたものだったことに、彼女はこの時点で気が付いた。だが、その後にアルデモードの問題が降りかかり、手帳にメモまでしていた予定を前日まで思い出せなかった。

(明日、イリスさんの走りを見に行こう。スタジアムはすぐ近くだし、アルが帰ってくるまでには戻れそう)

 それからすぐに、彼女はパソコンのメールを開いた。すると、数分前にイリスから新着メールが届いていた。そのメールには「明日11時に選手用受付前の広場で待っています」とだけ書かれており、調べたところその時間は男子100m走予選の集合時間の10分前だった。

(たしか、オメガセントラル選手権は、100mが予選と決勝で終わる。だから、上位に残ればイリスさんの決勝まで見られるかもしれない……)

 ヴァージンは、ネルスのスタジアムで見かけたイリスの表情を早くも思い浮かべていた。


 そして、オメガセントラル選手権の当日がやってきた。朝早い時間にアルデモードを送り出すと、ヴァージンはオフにもかかわらずトレーニングウェアに身を包み、「フィールドファルコン」をも入れたボストンバッグを持って、イリスの待っている会場へと出かけた。

(もし決勝まで残るとしても、予選から決勝までの間に3時間くらい空いている。その時間を使って、別にレースに出るわけじゃないけど、サブトラックを軽く走ってこようかな)

 トレーニングセンターに向かうときと重さがほとんど変わらないバッグも、この日だけは軽く感じられた。やや暑さを感じる市街地を徒歩で通り抜け、ヴァージンはオメガセントラル陸上競技場に辿り着いた。

(イリスさんは、選手受付の近くで待っているとメールしてくれたけど……)

 何度かこのスタジアムでも走っている彼女は、迷うことなくその場所に向かった。すると、11時の10分前であるにもかかわらず、一度その姿を見た覚えのある茶髪の青年が広場に立っていた。オメガスポーツ大学のパーカーを着ており、それだけでも確実にイリスだと分かった。

「イリスさん……!お久しぶりです!」

 ヴァージンが先に青年に声を掛けると、すぐにイリスが振り向いた。

「グランフィールド選手……、いや……、グランフィールド……さん。お久しぶりです。本当に、僕のレースを見に来てくれて、今とても嬉しいです」

「私だって、イリスさんとスタジアムでもう一度会えるなんて、思わなかったです」

 二人はすぐに握手を交わした。ヴァージンの目から見つめるイリスの顔は、9年前と比べれば多少引き締まっているものの、笑顔を浮かべたときの表情がリバーフロー小学校で最初に見たときと全く変わらなかった。それとは対照的に、体の筋肉、とりわけ肩や太もも周辺の筋肉は、小学校で出会った時よりもはるかに硬くなっており、短距離走でメダルを取るようなトップ選手よりもたくましく見えた。

 ヴァージンは、イリスの姿を一目見るはずが、あまりにも強そうな肉体に思わず次に出てくる言葉を失った。それどころか、彼女と正反対の種目を専門としているにもかかわらず、イリスに対する憧れさえ飛び出してくるのを感じた。

(イリスさん、とても強そうに見える……。アスリートの私が見ても、ときめきを感じた……)

「なんか……、グランフィールドさんのほうが、僕のたくましくなった姿に驚いてるみたいですね」

「そうですね……。なんか、この9年ですっかり体が成長して、生命力の強ささえ感じています」

 イリスに促され、ヴァージンはようやく我に返った。だが彼女は、イリスも憧れの目線を浮かべながら、彼女の体をじっと見つめていることに気付いた。

「それにしても、お互い9年も会わないと……、あの時と今とで強さのギャップに驚くのも無理はないのかも知れませんね。僕は、ずっとテレビでグランフィールドさんの走る姿を見てきましたが、今こうして目の前で見ているときが一番強そうに思えます」

「逆に私は、イリスさんの9年間を知らなくて……、でも、いかにも短距離で世界の頂点に立ちたいって思えるような体つきに見えます」

「グランフィールドさん。それこそが、小学校で教えてくれた、夢の力です。ライバルと戦うために、そして勝つために……、極限まで体を絞った結果がこんな体ですから、何と言うか、そう言ってくれて光栄です」

 イリスは、あの時を思い出しつつ、ヴァージンに笑みを浮かべていた。ヴァージンも負けないように、その口元をそっと緩め、できる限りの笑顔を見せようとした。

「その言葉だけでも、イリスさんがアスリートになる夢を形にできたってことが伝わってきます」

「もうね、十分って言えるくらい形にできてます。でも、まだその中で一番になりたいという夢は、まだ形にできてません。今はまだ、挑戦の途中なんです」

 そう言って、イリスは目を細めた。間もなく始まるレースに向けて集中力を高め始めたと、ヴァージンはすぐに気付いた。

「そろそろ、僕は行かなきゃいけないです。僕の全速力を、スタンドからじっくり見てください。僕がずっと憧れてたスーパーアスリート、グランフィールドさんに見てもらえるだけでも、僕はより頑張れます」

「分かりました。たった10秒だけど、イリスさんの本気をその目で感じます」

 お互いが同時にうなずき、イリスは選手受付からメインスタジアムの中に入っていった。ヴァージンは、彼の後ろ姿を目で追いかけ、視界から完全に消えた後に観客席に向かった。

 この日もまた、客席に座るヴァージンは、観客から不思議な目で見られた。


(あれ……、このレースにオルブライトさんが出るんだ……)

 既に今シーズン限りでの引退を決めているザック・オルブライトの濃い肌と黒い髪が、ヴァージンの目に飛び込んだ。ここ2年ほど優勝できていないとは言え、オルブライトは100mのスター選手と言っていい存在であり、シニアデビュー2年目のイリスにとっては強敵であることに変わりはなかった。

(もしかして、イリスさんがオルブライトと一緒の組に走ったり……しないか)

 予選は3組あり、既に集合場所で予選の組ごとに分けられている。少なくとも、オルブライトとイリスが同じ組ではないことだけは、遠くからでもはっきりと分かった。

(たしか、この形式だと、各予選2位までが自動的に決勝進出……、それ以外で上位2名のタイムだったら決勝に残れるはず……。だから、周りのライバル次第でイリスさんが決勝に進めるかどうかが変わってくる……)

 ヴァージンがイリスの分けられた組のメンバーを見ながら、専門外の100m走のレースを予想し始めたとき、オルブライトのいる予選1組の集団がスタートに向かった。

(私の出ている種目と違って、一瞬で勝負が決まる……。注意して見ないと……)

 スタートラインに8人が並び、号砲が鳴り響いた。次の瞬間、その8人が体を前に傾けながら、目の前に見える白いラインに向けて懸命に駆けだす。

(すごい……。これが100m走のスピード……!)

 最前列から5列目に座っているヴァージンには、何とか選手たちの動きは分かったものの、目の前を通り過ぎる時にはもはや風のようだった。それでも、今回は予選ということもあり、10秒を大きく切ってくるような選手は1組目では現れなかった。

(オルブライトさんは、予選1組のトップ通過か……)

 ヴァージンは、速すぎるレースの結果を電光掲示板の表示で確かめた。だが、すぐにその表示が予選2組のメンバーの一覧に変わった。そして、その中に「アーヴィング・イリス」の名前が書かれていた。

(イリスさんがどこまで強くなったか、私は見たい……)

 スターターの声でスタートラインに並ぶイリスの目が、先程よりはるかに細くなっていた。それは、ほんの一瞬の勝負に全てを賭ける、彼の熱い想いだった。

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