第62話 勇敢なスプリンター(2)
アルデモードがグラスベスからゼロ円提示を受けてから、五日目のことだった。
普段のように、ヴァージンがトレーニングから戻ってくると、リビングにフォーマルウェアのブランド「ユナイテッドダンディー」の袋が置かれていた。中には、アルデモードの体のサイズにちょうど合ったスーツが上下揃っており、彼の移籍交渉に使うものであることははっきりと分かった。
(アル……、やっと動き出すか……)
ヴァージンが袋から目をそらすと、それを遠くから見ていたかのようにアルデモードがヴァージンのもとに近づいてきた。悩んだ表情を浮かべていた、ここ数日のアルデモードを考えれば180度変わったと言っていいほど、彼は普段の甘い表情に戻っていた。
「もう、僕だって立ち止まってなんかいられないよ。だから、僕は決めたんだ。二人三脚で移籍先を探そうって」
「すごいじゃない、アル。チャンスは、いくらでも転がってるんだから」
ヴァージンは、小さくうなずきながらアルデモードに声を掛けた。だが、その直後に彼のセリフを心で復唱したヴァージンは、その中に一つだけ引っかかる言葉を見つけたのだった。
(あれ……、もしかしてアル……、いま二人三脚って言わなかった……?)
ヴァージンが小さく息を飲み込むのと同時に、アルデモードが彼女に一枚の紙を見せた。
「おそらく、君か君のコーチのどちらから提案してくれたと思うんだけど……、ホワイトスカイ・スポーツエージェントのメドゥから、エージェント契約に来てくれないかって、僕宛に封筒が来たんだ。それが、明日だから、さっき慌ててウェアとか買いに行ったんだよ」
ヴァージンは、今度こそ本当に息を飲み込んだ。メドゥからヴァージンのところに直接話が来なかったので、エージェントの中でどこまで話が進んでいるか、彼女は知る由もなかった。
ヴァージンは、正直に事の経緯を話すと、アルデモードは半ば納得した表情を浮かべた。
「それは、君のコーチのほうが、一歩大人だったね。エージェントに勤めるメドゥと結婚しただけあるよ」
「たしかに、あの時はコーチが半ば自信たっぷりに言ったから……、私もやられたと思った」
アルデモードは、数日前の絶望的な表情とは打って変わって、笑っていた。それを見て、ヴァージンもマゼラウスの提案で事が進んでいったことすらも気にしなくなっていた。
(メドゥさんから私に話がなかったの、おそらく私に気を遣ったからなのかも知れない……。私がアルの問題を気にすることなく、競技生活に打ち込んで欲しいと思った……)
だが、翌日トレーニングを終えたヴァージンが家に戻ってくると、アルデモードは前日買ったばかりのスーツを着たまま首を横に振りながら彼女の前に現れた。手で軽く茶髪を撫でながら、ヴァージンに結果を告げた。
「この歳でエージェント契約を結ぶな、ってメドゥの上司がいきなり言ってきて、すぐに追い返された」
「私とかマゼラウスさんとか、名前を出すこともなく、出てきたわけ……?」
アルデモードは力なくうなずいた。誰に言われたのか、ヴァージンにはすぐ分かった。
(ハイアットさんか……。一番そういうことを言いそうなのは……)
ヴァージンは、初めてホワイトスカイ・スポーツエージェントの本社に行った時、あまりにも有名過ぎるということだけでハイアットが機嫌を損ねるのを目の当たりにした。アルデモードに対しては、逆に年齢だけでクライアントを蹴ったのだった。
(きっと、ハイアットさんは年齢というよりも、将来性でアルを見限ったのかも知れない……。ガルディエールさんだって、将来のことを考えて私を切ったんだし、プロの代理人は本当にパートナーにしたい選手としか仕事をしたくないのかも知れない……)
ヴァージンはそこまで考えたものの、それをそのままアルデモードに伝えるわけにもいかなかった。少しだけ元気を取り戻した彼が、全てを否定されていると考えてしまえば、また沈んでしまうに違いない。
気が付くと、彼女はアルデモードに伝える言葉を必死になって考え始めていた。だが、突然首を横に振ったアルデモードの一言で彼女は顔を上げた。
「でも、チャンスはゼロじゃないんだって、今日改めて気付いたよ。こんなチャンスを用意してくれた君と、君のコーチに、僕を動かしてくれたことにありがとうって言いたい」
「アル……。なんか、アルがそう言ってくれるだけで、私、ものすごく嬉しくなる……」
「僕だって……、君まで落ち込んで欲しくないって思ってる。だから、僕はもう少しだけ頑張ってみるよ」
アルデモードは、ヴァージンの肩を軽く叩いた。それから1秒後、二人は同時に、大切なパートナーに告げた。
「頑張って」
(アルは、これから一人でリーグオメガの各チームに交渉していく……)
その夜、ヴァージンはアルデモードと並んでベッドに入ったが、天井を見上げたまま目を閉じることができなかった。アルデモードに最も寄り添わなければならない存在とは言え、付きっ切りになるわけにもいかなかった。
(アルは自分から頑張るって言ってるんだし、私はそれを後ろから見守ってあげたい)
ヴァージンに代理人がいなかった時期、彼女は競技を続けながら各所に連絡を取らなければならない生活を送っていた。今のアルデモードには所属チームがないとは言え、近くの公園などで自主トレを続けることを考えれば、状況はその時の彼女と全く同じだった。
(私は、あの時誰もいなかったんだし……、いま所属クラブを見つけるために頑張っているアルは、私を心の支えにして欲しいと思う……。そんな雰囲気を、私から伝えれば……、アルは安心すると思う……)
ヴァージンは、ベッドの上で小さくうなずくと、やがてぐっすりと眠ってしまった。
「年齢とともにパフォーマンスが落ちるという常識を跳ね返し続けているのは、お前ぐらいなのかも知れないな」
数日後、ヴァージンがトレーニングセンターに入ると、先に待っていたマゼラウスが腕を組みながら彼女に告げた。その言葉とともに出てきたため息が、普段以上に彼女の耳を通り抜けていった。
「コーチ、突然どうしたんですか」
「お前ももう分かっているとは思うが……、お前のパートナーのことだ。年齢だけで切りおった」
「私も、その話を聞いて、アスリートとして少しだけ納得してしまいました」
「だろうな……。世界記録を破り続けているお前もいつかはそうなると思うし、私だって、他の多くの選手だって……、やがてはパフォーマンスが落ちる時が来る。ただ、そう思われてしまうだけで、将来性を否定されるのはどうかと私は思うがな……、引退するときにそれを認めなければいけなかった」
言い終わると、マゼラウスは少しの間、天を見上げた。その目は、彼が引退を決めたニューシティ陸上競技場でそのことをヴァージンに告げたときと同じように、何か遠くにあるものを睨み続けていた。
(コーチは……、最後は10000mの残り30mで全てが尽きてしまった。でも、きっとその前から自分の将来のことを悩んでいたに違いない……。最後、もう勝負ができないって思わせてしまうくらいに……)
ヴァージンとマゼラウスの間に、静かな風が吹いた。その風に誘われながら、マゼラウスが顔の向きを戻す。
「コーチ、ちょっといいですか」
「どうしたんだ、ヴァージン。なんか、重たそうな表情をしているぞ」
「続けたい気持ちが、続けたくない気持ちに負けたときに、みんな引退するって、今まで何人ものライバルを失うたびに思ったんです。でも、年齢とか、パフォーマンスとか……、そういう問題から避けて通れないというのもまた事実なんだなって……、ここ数日思うようになったんです」
「お前も、そのことに気付いてしまったか……」
ヴァージンの静かな一言に、マゼラウスはそっと言葉を返した。それから、マゼラウスは右手でヴァージンの肩を軽く叩いた。
「でもな、選手としてのピークはいつになるか分からないのも事実だ。あの時がピークだったと思うようになるまで、そのことを意識しないのも事実。そして何より、お前の出す世界記録が、お前の限界がまだまだだと証明している」
「たしかに、そう言えなくもないですね」
ヴァージンはマゼラウスの言葉に、しっかりとうなずいた。彼女にとって近い将来必ずやって来る現実であるにもかかわらず、その言葉を受けた彼女には不思議と力が湧いてきていた。
(私は、私。自分の限界がどこになるか分からない中で、私はいつだって世界記録に挑戦しているんだから)
ヴァージンは一度だけうなずき、マゼラウスに送り出されるようにロッカールームに急いだ。この日の彼女が、ここ1週間で最も早いタイムを出せたのは言うまでもなかった。