第62話 勇敢なスプリンター(1)
「ゼロ円提示……。それって、アル、どういうことなの?」
椅子に座ったまま頭を抱えるアルデモードを見つめながら、ヴァージンはその場に立ち尽くした。何となくの状況は分かっているものの、彼の口からその意味を聞かずにはいられなかった。
「簡単に言うと……、来シーズン、グラスベスは僕に1リアも払いませんってこと。僕がチームに存在する価値がないっていうこと。普通は、来シーズンの年俸が10万リアとか100万リアとか提示されるんだけど、チームに必要ない選手には、ゼロと書かれた書類が一枚渡されるんだ。もうチームにはいられない」
「やっぱり、クビということ……。残れるチャンスは、もうないってことなの?」
ヴァージンは、自身の走った最初の世界競技会の後のことを、アルデモードを見ながら思い返していた。13年も前の話であるにもかかわらず、あの時一度アカデミーを追い出されたかけた時の記憶が鮮明に蘇る。
アルデモードが、やや時間を置いて力なく首を縦に振った。受け入れたくない現実を伝えたいかのようだ。だが、時間を置いたこと、力なく意思を表明したこと全てを、ヴァージンは自分の過去と重ねた。
――ヴァージンが、もっと将来性のあるアスリートであれば、セントリックにとって大変いい人材になったのだが……、そうではなかったようだ。
セントリック・アカデミーのCEO、リッチ・ウィナーが、解雇通知を見せながらきっぱりと告げた言葉は、13年経った今でも忘れることはできなかった。ヴァージン自身の手で解雇通知にサインをし、それからほんの少しだけ静かな時間が流れた。ちょうど、今のアルデモードのように、気力すら失われていたのだった。
(でも、私は……、あの時グラティシモさんの一言で、また動き出した……。動き出せた……)
――ヴァージンが、もう一度本気で走る姿を、私は見たい。
(グラティシモさんは……、もうクビが決まった私に、最後の勝負をしたいと言った……。でも、今から思えば、それはグラティシモさんがライバルの私に差し伸べてくれた、最後のチャンスだった……)
最後のチャンスだと言い聞かせながらグラティシモと勝負し、彼女に初めて打ち勝ち、自己ベストすら大きく伸ばしたヴァージンは、その脚で解雇通知すら破らせたのだった。
(だからこそ、アルにもう一度チャンスがあるのなら……、いや、本当にグラスベスでのチャンスがなかったとしても、もう一度立ち上がるための言葉を、私がかけてあげなきゃいけない)
いつまでも、アルデモードの真横でショックを受けているわけにはいかなかった。ヴァージンは、言葉を選んでいた。だが、個人スポーツとチームスポーツとの間にある壁――居場所がなくても競技を続けられるか否か――が、彼女の口を滑らかに動かすことを妨げていた。
(アル……、まだサッカー続けたいはずなのに……)
ヴァージンは、小さくしゃがんでアルデモードに目線を合わせた。アルデモードがヴァージンに向けて反射的に瞳を動かした瞬間を見計らって、彼女はやや言葉を溜めながらアルデモードにそっと告げた。
「グラスベスをクビになったからって、アルのサッカー人生が終わるわけじゃない」
「ヴァージン……。どうしたんだよ、急に低い声になって……。僕がふがいないだけなのに……」
アルデモードが、頭を抱えていた手をほどいて、顔だけヴァージンに向けた。彼の瞳には、かすかに首を横に振るヴァージンの表情が映った。それをしっかりと確かめてから、ヴァージンは再び口を開いた。
「今のアルを支えられるのは、私しかいないじゃない。だからこそ、私はアルに立ち直って欲しいの」
ヴァージンの強い声が、広いリビングに反射する。その声に、アルデモードが小さくうなずく。
「陸上とサッカーで、全然違う話だと言われてしまうかも知れないけど……、アルの力強い右足は、あの日私が試合を見ていてもかなりのパワーを感じたし、ここまで頑張ってきたアルを、神様は見捨てないと思う」
「……そうだよね。僕のことを、ヴァージンと神様は……、見捨てるわけないよね……」
アルデモードの小さなため息が、ヴァージンの耳にもはっきりと聞こえた。彼女もまた、心でため息をついた。
(この言葉じゃダメか……。それ以外は見捨ててしまったと思っているのかな……)
ヴァージンは、再び次の言葉を思い出そうとした。だが、あの時の彼女自身の記憶に寄り添うしかなかった。それでも、彼女は思いついた言葉をゆっくりとアルデモードに伝える。
「私は……、まだアルにチャンスがあると思う。ミラーニとグラスベスでフォワードとして多くのゴールを決めたという実績を、どこかのチームが評価してくれると思う。そして、そのチャンスがある限り、諦めちゃいけない……。前を向いて、サッカー人生を歩き続ければいいじゃない!」
「ヴァージンも……、たしかそういうこと、何回かあったよね……。だから、僕にもそう教えてくれるんだよね」
「そう、私だって、アスリートとして何度も挫折した。でも、今もこうして走り続けられるのは……、数少ないチャンスをものにしてきたからだし、アルもチャンスの力を信じて欲しい」
ヴァージンは、何度か首を横に振りつつ、アルデモードの表情を伺った。悲壮感が漂っていたアルデモードの表情が和らいでいるように見えた。それでもアルデモードは、再び頭を抱えて、テーブルの上に肘をついた。
「チャンスか……。きっと、僕にだってあるよね……。君にだってあったんだし……」
「そうよ、アル。それを信じて。これまで自分のしてきたことを信じてよ。そうすれば、チャンスに巡り合う。その時に、アルの実力を見せつけてやればいいじゃない!」
「だよね……。さすが、世界トップレベルのアスリートの生き方は……、今までの僕とは全然違う」
まだ頭を抱えたままのアルデモードだったが、少しずつ声の調子を取り戻していることに気付き、ヴァージンは彼に向かって小さくうなずいた。それからかすかに微笑み、彼女は何も言わずにアルデモードに寄り添った。
(アル……。大丈夫。私がついている。今のアルを癒してあげられるのは……、私しかいないんだから……)
「ヴァージンよ、ちょっと今日は元気ないな。メリナとの勝負で疲れたのか」
夜遅くまでアルデモードの横に寄り添い、少しの表情の変化を見続けていたヴァージンの「疲れ」は、翌日のトレーニングに露骨に表れていた。「フィールドファルコン」を履くようになってからほとんどなかった、5000mタイムトライアル14分台の数字を見せられ、ヴァージンは小さくため息をついた。
「コーチ。言い訳にしてはいけないと分かっているのですが……、ちょっと家庭内で難しい話がありまして……」
「ついこの間結婚したばかりなのに、もうヴァージンに家庭内の悩みができたのか」
「ついこの間って、もう結婚して1年半です。それに、夫婦関係の問題じゃなくて……、夫がクラブチームを追い出されて、これからどう支えればいいんだろうって思ったんです」
「そうか……。陸上と違って、サッカーは所属するチームがなければどうすることもできないからな……」
マゼラウスは、しばらく考えた後に、思い出したように彼女に告げた。
「そうだ。ホワイトスカイ・スポーツエージェントに彼の移籍先を働きかけるというのはどうだ」
「それいいかも知れません。メドゥさんからその話を持ち出して……、移籍先を見つけてもらうんですよね」
「そういうことだ。お前が契約を結んでいるエージェントに、お前の夫の現実がうまく伝われば……、あそこはサッカー選手も何人かいるし、お前がエージェントを鞍替えする前は二流、三流の選手しか見ないようなところだからな」
マゼラウスが軽く笑い、その表情に誘われるようにヴァージンも口元を緩めた。
「それ、乗ります。もしメドゥさんから紹介できると言われたら、本人にも話をしてみます」
ヴァージンは、アルデモードの頭を抱えた姿を脳裏に浮かべながらも、そこに光が差し込んでくるような光景に変わっていくのを感じた。そして、自身の悩みも少しだけ消えていくのを感じた。
「とりあえず、この問題ができる限り早く解決できるように、私もお前も祈るしかない。お前には、新たな強敵が揃った世界競技会に意識を向けてもらわなければならないからな」
「分かりました」
大きくうなずいたヴァージンは、全力を出し切ったにも関わらず、これがウォーミングアップであるかのように全身にパワーが溢れてくるのを感じた。その場で5000mをもう一度走れてもおかしくないように思えた。
(アルはきっと……、元気になる。ショックから立ち直れると思う……。私は、彼に残されたチャンスを信じるしかない……)