第7話 潰えかけたヴァージンの夢(3)
翌朝、ヴァージンがセントリック・アカデミーのゲートをくぐると、そこにはマゼラウスが落ち着いた表情で立っていた。ヴァージンの、決して落ち込んでいるわけではない表情を見て、マゼラウスは軽く首を縦に振った。
「昨日はすまんな……。あれは、私が君に何も言わなかったせいだ」
「そんなことないです。私が、頑張りきれてない証拠ですから」
「そうか……」
マゼラウスは、軽く笑ってみせた。だが、すぐに目を細めた。
「ヴァージン、CEOにはひとまず説得しておいた。世界競技会まで待て、と」
「ありがとうございます」
そこまで言って、ヴァージンはすぐに苦笑いした。条件は、悪くなった訳ではなく現状維持だった。運命の日まで、あと3ヵ月もないことに、変わりはなかった。
だが、目の前に立つマゼラウスの表情は、まだ曇ったままだった。
「ヴァージン。今回は本気だ。私がCEOを止められるのも、そこまでだからな」
「はい」
「まだ時間はあるからな!ヴァージンなら、きっとメドゥを追い越すことができる!」
マゼラウスは、ついて来いとばかりにヴァージンを手招きする。だが、着替えも済ませていないヴァージンは、これから何が始まるかと、少しだけ息を飲み込んだ。
「ちょっと、この中に入れ」
「はい」
そこは、前日にCEOの怒鳴り声が鳴り響いた、コーチ控室だった。ヴァージンは何度も足を踏み入れてはいるものの、この日だけは足がなかなか前に進まなかった。幸い、CEOは不在で、ヴァージンはそのCEOの机の前まで通された。
「これは、ここに所属するアカデミー生の賞金と、ついているスポンサーだ……」
「あ……」
机の前に貼ってある紙には、全アカデミー生のデータが細かい棒グラフで示されていた。グラティシモのスポンサー数は8、獲得賞金額は今年だけで2万リアと、ヴァージンのそれらをはるかに圧倒していた。
「これは、CEOがヴァージンに見せろと言ったものだ。これを見て、君は何を感じるか……」
「私の成績が、奮ってないってことです」
「この話の流れなら、すぐに分かるな。このままのほほんと暮らしてたら、セントリック・アカデミーの収益も悪くなるってことだ」
「はい」
ヴァージンは、その棒グラフを見るたびに息を飲み込んで、まだトレーニングが始まる前であるにもかかわらず、呼吸の仕方を忘れかけた。
「だから、CEOは君を追い出しにかかっている。けれど、それはヴァージン・グランフィールドという一人のアスリートの力で、どうにでもなるものなんだ!」
マゼラウスは、右手にグッと力を入れた。ヴァージンは、コーチの握られた右手を見ながら、軽くうなずいた。
「もっと、危機感を持て。そして、1秒でも早く、走りきるんだ!」
「はいっ」
「信じるからな……。世界競技会での、ヴァージンの走りを」
ヴァージンは、その日から懸命にトレーニングを重ねた。
通常のメニューとは打って変わって、とにかくトラックでの走り込みを中心に、どんな状況でも体を前に出すようにマゼラウスに叩き上げられた。男性の長距離アカデミー生とほぼ同じメニューをこなしていたのだ。軽いタイヤを引いてダッシュしたり、重いものを背負って走ってみたりなど、これまでほとんど経験したことのないトレーニングを、マゼラウスはヴァージンに与えた。
だが17歳の女性に、そのメニューは重すぎた。
「疲れました……。もう動けません……」
世界競技会まで2週間を切ったある日のこと、マゼラウスは極度に疲れ果てた表情のヴァージンに、思わず駆け寄った。
「辛そうだな……。こんな時期に……」
「はい……。ちょっと、最近インターバルが短くて、付いて行けなくなっているような気がします」
「そうだな……。ちょっとやり過ぎたのかも知れない」
マゼラウスは、腕を組んでそう告げた。世界競技会に向けて完成させようとして組んだプログラムでは、ヴァージンの持つ実力を生かし切れているとは到底言えなかった。それどころか、ヴァージンの5000mのタイムは、この2ヵ月、ほぼ日を追うごとに悪くなっていったのだ。
「で、コーチ。今のタイムは……」
「自信なくすと思うぞ」
「やっぱり……」
マゼラウスは、走るたびにヴァージンに見せているストップウォッチを、ほんの1秒だけ見せた。そこには、15分13秒39と書かれていた。ヴァージンは、それを見て再びため息をついた。この2週間、14分台にすら届いたことはなかった。
ヴァージンは、疲れ切った全身を震わせたまま、吐き捨てるようにマゼラウスに告げた。
「このまま、終わりたくないです……。今までのタイムに、戻りたいです……」
「急にかしこまって、どうした、ヴァージン」
マゼラウスの落ち着いた表情が、ぐったりとするヴァージンの顔を覗き込んだ。
「タイムが伸びないと、なんかこう……、今まで感じたことのないプレッシャーが、私を襲ってくるような気がするんです」
「君らしくないな……。悪い方向に向いてるなんて」
「こういうの、初めてです。でも、最近トレーニングで強くなってるって実感が湧かなくて……。それでも、大会に向けて走らなきゃいけないっていう気持ちで、何とか走っています」
「そうか……」
マゼラウスは、ゆっくりと手を差し伸べた。
「なら、大会で優勝する自分を思い浮かべて、走れ。君なら、きっとできる!プレッシャーなんて、簡単に跳ね除けられる!」
「そうですね」
マゼラウスは、ヴァージンの汗だくの手を取り、強く握りしめた。運命の時が迫る、一人のアスリートをこの手で救ってやりたかった。
だが、時は既に遅かった。
「ここが、ケープシティ・ナショナルスタジアム……」
世界競技会、女子5000m予選が行われる当日の空は、暑い季節にしては珍しく厚い雲に覆われていた。オメガ国から見て東に位置するグロービス王国の大都市は、オメガ国と見間違えるほど大都会だったが、ヴァージンは息つく間もなく現地トレーニングをしていたので、ケープシティの街の建物をこれほどまで間近で見るのは、この瞬間が初めてだった。
受付で女子5000mのエントリー名簿を見る。シェターラの名前が相変わらずない代わりに、メドゥやグラティシモ、バルーナなどヴァージンが顔見知りになったライバルが普段通り名前を連ねていた。ヴァージンも、普段通りアメジスタ国旗の赤と紺に彩られたウェアを着て、「GRANFIELD」のゼッケンをつけた。
(よしっ!)
ヴァージンが苦痛を訴えた日から、練習メニューを控えめにした結果、ヴァージンの5000mのタイムはわずかながら向上していた。調子の良い時のヴァージンから見ればまだまだだが、この大会に向けてセントリック・アカデミーでトレーニングを重ねてきたヴァージンは、今更引き返すことのできない道に足を踏み入れた。
(この大会を、最後にしたくない……!)
世界競技会の予選は20人ずつ2組に分かれ、各組上位5~6人とそれ以外で速いタイムを出した数名が翌日の決勝に進めることになっている。ジュニア大会の時とは予選通過の基準が違うとはいえ、おおよそタイムで上位16人までに入っていれば決勝に進むことができるはずだ。
ヴァージンは、グラティシモやバルーナと同じく予選2組目。つまり、レース終了とほぼ同時に、決勝進出か否かがはっきりする。ヴァージンは、一足先にスタートへと向かう予選1組目を尻目に、最終調整をしていた。
すると、遠くの方からバルーナが丸顔を覗かせていた。
「バルーナさん!」
「久しぶりね、グランフィールド」
バルーナは軽く笑ってみせる。そして、矢継ぎ早にこう言い放った。
「私は、今までで最高の走りを見せるから」
「私も。バルーナさんには、いろんな意味で負けてられない」
ヴァージンは、軽く首を振り、バルーナの横顔を見つめた。バルーナの運命を変えてしまった身として、ここで負けるわけにはいかなかった。
ヴァージンの、これまで何人ものライバルを追い抜いてきた両足に、不思議と力が入る。
「On Your Marks……」
ヴァージンの運命を決める最初の瞬間が、いよいよ訪れる。
心臓の鼓動は、普段と比べてやや速く打っていた。
そして、号砲が鳴った。
(足が……!)
ヴァージンは、普段通りのストライドでスタートダッシュを試みようとした。だが、タイミングを外したかのように、普段よりはるかに小さいストライドを作ってしまった。グラティシモやバルーナは、スタートダッシュに成功し、悠々と先頭集団に躍り出ている。
(こんなはずじゃない!)
ヴァージンは、先頭集団から引き離された大多数のライバルたちにもみ囲まれていた。その目でグラティシモたちの姿を見るものの、体を前に出すことができない。前に出るために負荷をかけながらトレーニングをしていたにもかかわらず、ヴァージンの足は完全に空回りしていた。
外から集団を追い越そうとするも、今のヴァージンにそれを引き離す余力はなく、集団の外側に食らいつくのがやっとだった。そして、前二人との差が徐々に開いてしまった。
――なんで早くヴァージンを諦めないんだ!
(プレッシャーを感じる……)
スタートラインに立つまで全く感じることのなかったはずの緊張が、いま再びヴァージンを襲った。この2週間、絶対に感じたくなかった緊張だ。だが、CEOの声が波打つように甦ってくるヴァージンに、もはや走っている実感すらなかった。
――プレッシャーを跳ね除けろ!
ヴァージンは、懸命に首を振った。このトラックで行われている勝負に集中するしかない。ヴァージンは、一歩でも前に出ようと、ギアを普段のように上げていった。
(私は、こんなところで終わりたくない!)
残り5周を残して、自分の目の前には10人のライバルの姿が見える。今の位置より前に出ること。それが、ヴァージンの夢を現実に変える、たった一つの方法だった。
(私は、世界で戦いたい!)
懸命にスパートをかけたヴァージンは、一気にスピードを上げていった。アメジスタから出た、たった一人のアスリートの持つ最大の武器、それが短距離走者並みの他を圧倒するスパートだ。ヴァージンは、首を激しく横に振り、最後の可能性に賭けた。
(あと3人……!私は、まだ終わったわけじゃない!)
一人、また一人とライバルを後ろへと追いやっていく。そして、8位のライバルを捕えるため、ヴァージンは鞭を打つように右足を素早く踏み出そうとした。まだ限界には程遠いはずだ。
しかし、それ以上ギアを上げることを、彼女の疲れ切ったメンタルは許さなかった。彼女のスピードはそこで頭打ちとなり、スピードを上げたくても体が一向に速さを感じない。
あと3歩で8位を抜けるのに、その3歩が遠い。ジュニア大会決勝のヴァージンであれば、目の前にいるライバルをゆうに追い抜けるスピードを発揮することができる。だが、変わり果てたヴァージンに、それはできなかった。
そして、ついに追い抜くことはできなかった。
力なくタオルで汗を拭くヴァージンに係員が歩み寄り、無情にもこう告げた。
「ヴァージン・グランフィールド選手、残念ながら決勝には進めませんでした。お疲れ様でした」