第61話 驚異の実力を持つ新人アスリート(7)
(メリナさんも自己ベストを更新し、そうでなくてもプロメイヤさんが後ろから迫ってくる……。そろそろ「フィールドファルコン」を慣らすようなレースはできなくなってきた)
イグリシアから戻る飛行機の中で、ヴァージンはセントイグリシアでのメリナとの一騎打ちを何度も思い返していた。たしかに、出せる限りのトップスピードを感じることはできたものの、残り1000mを2分30秒以内で駆け抜けることもできず、13分53秒台という、トレーニングでも叩き出してきたようなタイムを乗り越えることができなかったのは事実だ。
(「フィールドファルコン」は、まだかなり力を残している。私がもっと速く走っても、それについて行ける。きっと、エクスパフォーマはそのことを考えて、シューズの性能を決めてくれたのかも知れない……)
ラップ68.2秒のペースが、それまで履いていたシューズの時よりゆったりと感じられて仕方がない。トータルのタイムを上げるとすれば、そこにも何かしらのメスを入れなければならないだろう。
(次は、世界競技会……。今回みたいに、軽く勝たせてもらえないようなレースがきっと待っている。でも、私はまだ、「フィールドファルコン」を履いて負ける気がしない……!)
ヴァージンはオメガセントラル国際空港からタクシーで自宅へと戻った。重いバッグを抱えたまま、自宅まで走る気にもなれなかったのと、もう一つ、イグリシアでのレースに参加している間にいろいろなことが動いていないかが、気になって仕方なかったのだ。
玄関のドアは閉まっていた。ヴァージンは鍵を開け、電気もついていないリビングに向かった。
(アル……、書置き残してくれてる……。たしか、今日が……契約更改って言ってたかな……)
ヴァージンは、イグリシアに出発する前、アルデモードが面接本を読み広げていたことを思い出した。たしか、この日が契約更改だということもはっきり言っていた。
(アルの契約が、うまくいけばいいんだけど……。頑張って、グラスベスに残って欲しい……)
まだ空が青い午後のひと時、ヴァージンは荷物を降ろして、遠征中のウェアを洗濯機に入れた。そしてまたリビングに戻ってくると、今度はパソコンへと向かった。もう一つ気になることがあったのだ。
(届いてないかな……。私が送ったメール……)
ヴァージンの目の前で、メール画面が現れる。彼女はすぐに差出人の名前を追った。あえて下の方、つまりイグリシアに出発した直後からのメールを確かめ、それから徐々に今に近づけていった。
すると、ちょうど1日前に、何度か目にしたことのあるアドレスが輝いていた。
「あった!イリスさんが……、私のメールに気付いてくれたのかな……」
件名には「Re:お久しぶりです」と書いてあった。このタイトルだけで、イリスがヴァージンのメールを読んでくれたことは間違いなかった。そして、それが分かった瞬間に、ヴァージンは思わず震え上がった。
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グランフィールド選手、こちらこそお久しぶりです。
実家で使っているメールアドレスに、グランフィールド選手からのメールが届いていたので、すぐに返事を書いています。大学生になり、シェアハウスで生活している僕は、時々しか実家に帰らないので、メールを読むのが遅くなってしまいました。すいません。
それにしても、まさかグランフィールド選手が、ネルスで僕と同じ場所にいたなんて思わなかったです。女子5000mのレースに出ていなかったので、今日も会えないと思っていたところを見られたので、少し意外でした。
おそらく、グランフィールド選手は知っていると思いますが、僕はやっとアスリートの仲間入りをしました。勿論、それはリバーフロー小学校に通って、グランフィールド選手の言葉を間近で聞いたからだと思っています。
それまで僕は、陸上選手になりたいという夢だけでクラブに通い続けていたのですが、あの時「戦わずに諦めることがどれだけ辛いことか」って言われ、それから僕は夢を形にすることだけをずっとずっと考えてきました。田舎で、あまりにもチャンスが限られている中で、僕はサウスティア州で優勝したり、ジュニア選手権で3位になったりと、本気でライバルに立ち向かっていきました。
ジュニア選手権初出場で優勝し、18歳で女子5000mの世界記録を手にしたグランフィールド選手には、とてもかないませんでした。でも、勝ちたいとか、もっとタイムを縮めたいとか、自分の限界に食らいついていく強さで、僕はもうグランフィールド選手に負けないと思っています。
今だからこそ、僕はあの授業を受けてアスリートになれたんだと、思っています。
あと、いま実家からだから話せるのですが、ネルスの女子5000mで優勝したプロメイヤは、オメガスポーツ大学の学生が集まるシェアハウスの仲間です。だから、プロメイヤからグランフィールド選手を意識するような言葉も聞いています。ネルスでのレース、シニア初挑戦であれだけのタイムを出せたので、その日からプロメイヤは「世界競技会で絶対に優勝できる」と言い出しています。
シェアハウス的には、プロメイヤが優勝したほうが喜ぶのですが……、僕はと言うと、女子5000mはグランフィールド選手が一番強いと思っています。だから、正直複雑だったりします。
最後になりましたが、もしよかったら僕の成長を見に来てください。
世界競技会前なので、いろいろ調整で忙しいと思うのですが、7月のオメガセントラル選手権に、男子100mで僕が出ます。シェアハウス用の僕のアドレスを教えますので、もし行けそうならそっちに連絡ください。
世界記録と戦い続けるグランフィールド選手を、これからも応援しています。
アーヴィング・イリス
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(イリス君……、いや、イリスさん……。ずっと私のことを応援してくれたし……、シェアハウスでライバルと一緒に暮らしていたとしても、私が強いと信じてくれている……)
ヴァージンは、メールの文面から何度か目が離せなくなっていた。大人になって、ヴァージンと同じトラックを走れるようになるまでに成長したイリスの姿を思い出しながら、彼女はメールを長い時間かけて読んだ。読み終えたときには、レースでは感じたことのないような汗が全身に流れていた。
(絶対に、イリスさんの走るところを見に行こう……。世界競技会のファイナリストになったんだし、これからきっと強くなっていくはずだから……)
ヴァージンは、メールの最後についていた、差出人とは違うアドレスをクリックし、そこに「7月のオメガセントラル選手権に行きます」と一言だけ残した。すると、3分もしないうちにイリスから「嬉しいです」というメールが戻ってきた。
(イリスさん、私がその姿を見たと知って、ますます気になったと思う。私だって、自分がその成長を支えた、たった一人の未来のアスリートが……、いま活躍していると知ってすごく気になる……)
全身の汗が乾くのを確かめてから、ヴァージンはパソコンの前から立ち上がった。気が付くと、容量ギリギリまで入れた洗濯機が止まっていて、ヴァージンは急いで洗濯物を外に乾かそうとした。
(……!)
ベランダに出た瞬間、外の空気が凍り付くのをヴァージンは感じた。決して、外が急に寒くなったわけではないし、風が吹いてきたわけでもない。だが、入口前の大きな通りを、何度も見覚えある人間が絶望を背負ってやってくるのが、ヴァージンの目にはっきりと見えた。
(アル……、ものすごく落ち込んでいる……。きっと、契約更改が……)
ヴァージンは、洗濯物をベランダの手前の床に置き、玄関へと向かった。玄関のドアを開けようと彼女が手を差し掛けたとき、ドアがゆっくりと開いた。
「アル、おかえり!」
ヴァージンは、できるだけ普段通りにアルデモードを出迎えようとした。だが、その言葉を言い終えないうちに、彼女がただの一度も見たことのないほどの、悲壮感に満ちたアルデモードがその目に飛び込んできた。
「アル……」
ただいま、の一言も言えないほど言葉を失っているアルデモードは、ヴァージンに小さくうなずいた後、ガックリと肩を落としてリビングへと向かった。そして、椅子に座るなり、テーブルに向かって大粒の涙をこぼした。
「アルが泣くなんて……、きっととても辛い現実が待っていたのね……」
ヴァージンは、アルデモードにタオルを差し出すと、彼はすぐに顔に当て、懸命に涙をタオルににじませた。それから、アルデモードはゆっくりと顔を上げ、一度だけ首を大きく横に振り、ほとんど力のない声でヴァージンに告げた。
「ゼロ円提示……。僕はもう、おしまいだ……」