第61話 驚異の実力を持つ新人アスリート(6)
セントイグリシアの初夏の光が、スタジアムに向けて穏やかに差し込む。心地よい日差しの中でメインスタジアムに足を踏み入れたヴァージンは、入口で大きく息を吸い込み、それから客席に目をやった。
(やっぱり、メリナさんがイグリシア生まれ選手だから、メリナさんを応援する幕がものすごく多い……)
姉のメリナと妹のカリナで、選手登録上の国籍を変えているものの、二人ともこのセントイグリシア郊外に生まれたことは、選手名鑑を調べて分かっている。メリナのほうがイグリシア国籍を残しているだけあって、ここではメリナのファンがかなりの数見られた。
逆に言えば、ヴァージンにとってはアウェイのような場所だった。
(私はまだアメジスタでレースをしてないわけだし……、国籍だけで考えたら、いつもアウェイ。それでも、その中でも私を応援してくれる人はいつもいる。だから、今日だって一人じゃない……)
ヴァージンは、「メリナ・ローズ」ばかり見られる横断幕の間に、小さなアメジスタ国旗を見つけた。それは、これからメリナに立ち向かうための勇気へと変わった。
(今日こそ、私は本気のメリナさんを追い抜いてみせる。ラガシャ選手権は、ウォーミングアップなんだから)
ちょうどその時、ヴァージンの横を背の高いイグリシアの選手が通り抜けた。大きな歓声に包まれる中、ヴァージンは右手の拳をやや強く握りしめた。
「On Your Marks」
女子5000mのレースが始まる。スターターの低い声がスタジアムを包み込むと、それまでメリナを応援していた数多くの声が静まり返った。ヴァージンの周りに漂っていたアウェイの空気は、その一瞬だけ消えていった。
(大丈夫。いつもの私だったら、メリナさんに絶対勝てるはず。自己ベストだって、まだ6秒も上だから……)
号砲が鳴ると同時に、ヴァージンは何度も意識してきたラップ68.2秒のペースまで一気に加速していった。かたやメリナも、慣れたスタートダッシュでヴァージンの前に割り込み、レースを引っ張ろうとする。
(メリナさんは、やっぱりいつもの戦略を取る……。でも、この方が私にとっては戦いやすい)
最初の直線に差し掛かる頃には、ヴァージンはやや楽な姿勢で、普段のペースでの走りに入った。一方のメリナは、ヴァージンを少しずつ引き離すが、そのスピードを小刻みに変えているように見えた。
(メリナさんが……、いつものペースに落ち着かない……?)
最初の1周で、メリナがラップ67.5秒ペースに落ち着くのを、ヴァージンは後ろから何度も見てきた。だが、この日のメリナは一度67.5秒のペースに上げるものの、そこからややスピードを緩めては、再び上げていく。
(前に私に負けて、この2ヵ月くらいでレースの運び方を変えたのかも知れない。メリナさんの調子が悪くなったようには見えないし……、きっと最初から私を意識しているのかも知れない……)
ヴァージンの目に不気味に映ったメリナの小刻みな変化は、2周目を終えたあたりでほとんどなくなった。その時のペースは、ヴァージンの感覚でラップ67.7秒ほどだった。
(普段より、少し遅いペースに落ち着いた。でも、これは最後のスパートに向けた、メリナさんの作戦のはず)
ヴァージンは、4周目でほんのわずかペースを上げ、体感的にはラップ68.1秒近くまで達した。一方のメリナは、2周目を終えたあたりからほとんどペースを変えることなく、レースを引っ張っていく。普段より、ヴァージンとメリナの差がそれほど広がらないことだけが、何度も競い合った二人の大きな変化だった。
メリナの走りを、常に作戦と意識しながら、ヴァージンはひたすらメリナとの差を意識し続けた。
やがて、ヴァージンの読みが当たる時が来た。予想よりも早い地点で、メリナのストライドが変わったのだ。
(メリナさんが、3200mで動き出した……)
3200mを9分02秒ほどで通過したメリナが、そこでややストライドを大きく取り、ペースを上げた。ラップ67.7秒で走り続けてきたメリナが、普段のペースであるラップ67.5秒を大きく通り越し、67秒を切ろうかというところまで勝負に出た。
一気に突き放されたヴァージンには、「フィールドファルコン」がスピードを上げたがっているように感じられた。だが、彼女は心の中で首を横に振った。
(私は、まだここで勝負しない。4000mからの勝負が、一番スパートを決められるのだから……)
ヴァージンも、ラップ68秒手前まではペースを上げるものの、そこでメリナの様子を伺うことにした。メリナが動き出した3200mでは20mだった二人の差が、わずか1周の間に5m以上広がっていく。それでも、ヴァージンは落ち着いて、勝負の時を待った。
メリナを支える数多くの声に交じって、世界女王のスパートを待っている声が、スタジアムに小さく響いた。
(私は……、本気のメリナさんと戦いたい……!)
4000m手前、記録計はちょうど11分20秒を刻んでいる。メリナが先に、スパートを仕掛ける。
(勝負が、始まる……)
ヴァージンは、「フィールドファルコン」の底でトラックを強く蹴り上げ、一気にペースを上げた。ラップ68秒から65秒へと、彼女の体でさえその変化が分かるほど、速いテンポでトラックを駆けていく。
(メリナさんも、私とほとんど変わらないラップ65秒ペース……。でも、ここからまだ上がっていく!)
4000m時点で30m以上にまで広がったメリナとの差を、ヴァージンは4200mまでにほんのわずかしか縮められない。だが、ここでヴァージンはもう一段階ギアを上げていく。
(ラップ61秒!メリナさんとの勝負は、ここからが本番になるはず!)
ヴァージンの携える「フィールドファルコン」が風に乗って飛んでいるかのように、ヴァージンの体は湧き上がるようなスピードを感じた。その風を背後に感じたメリナも、コーナーから出たところで一気に加速する。
(メリナさんも、ラップ62秒くらいのペースに上げた……!)
メリナの背中がなかなか大きくならない。それでも、ヴァージンの脚は「宿敵」に挑み続ける。
直線を抜け、再びコーナーに差し掛かったときに、ヴァージンの目にメリナの表情が見えた。死に物狂いでヴァージンに抵抗しているかのようにさえ、彼女には映った。
(こっちはまだ、全然疲れていない。メリナさんがさらにスピードを上げても、きっと追い抜ける!)
スタジアムは、メリナとヴァージンの両方の名を呼ぶ声が交錯している。その全てが、ヴァージンにとって追い風になった。破りたい、いや、破らなければいけない相手との勝負を楽しんでいるかのようだ。
ラスト1周のラインが近づき、メリナがヴァージンを10m以上離して鐘を鳴らす。二人の差はもはや2秒もない。ヴァージンも、記録計が12分57秒を刻んだ瞬間に、そのラインを大股で駆け抜けた。
(メリナさんと私のどちらのトップスピードが早いか、見せる時が来た!)
メリナが、ラップ60秒を切るかのようなペースまで一気に加速していく後ろで、ヴァージンが出せる限りのスピードでその背中を追う。「フィールドファルコン」がその「翼」を力強く羽ばたかせ、勝負に挑んだ。
「宿敵」メリナと、ヴァージンの持つ世界記録にアタックするトップスピードを、ヴァージンは全身で感じた。
(これが、ラップ55秒。私の本気。そして、「フィールドファルコン」の戦闘力!)
ラスト250m。ヴァージンは直線でメリナを横からかわし、その姿を横目で見ることなくメリナの前に出た。本気を見せたメリナの苦しそうな息だけを背中に残し、自らの世界記録という名のライバルの背中も掴んだヴァージンは、決してスピードを緩めない。
スタジアムは、メリナを応援する声から一転、ヴァージンの新たな記録を待つ声に飲み込まれていった。
13分53秒02 WR
(何とか、世界記録との勝負に勝った……)
ヴァージンの足の裏で、「フィールドファルコン」がまだ戦いたがっている。初めてレース中にトップスピードを感じたにもかかわらず、逆に53秒台に終わってしまったことに、ヴァージンは首を小さく横に振りかけた。
だが、息つく間もなくメリナがゴールラインを駆け抜けた。彼女のタイムは、ヴァージンより3秒から4秒遅い程だが、ヴァージンとの死闘の末に自己ベストの更新までたどり着いたのだった。
メリナは、ヴァージンを抱きしめながら静かに告げた。そのメリナの背中を、ヴァージンは汗だくの左手で軽く叩く。
「やっぱり……、本気出してもグランフィールドには勝てないわね……」
「メリナさんは、逆に私を本気にしてくれたじゃないですか……。それだけでも、メリナさんは私にとって、尊敬するアスリートだと思います」
勝負を終えたヴァージンの落ち着いた声に、メリナは彼女の胸元で薄笑いを浮かべた。
「尊敬する……か。ずっと世界記録を持っているのに、私を尊敬できるなんて、なかなかできない」
メリナの声に、ヴァージンは小さくうなずいた。これからもきっとメリナが「強敵」であり続けることを、ヴァージンは全身ではっきりと感じるのだった。