第61話 驚異の実力を持つ新人アスリート(5)
ネルスでの10000mが終わった後は、メリナの故郷・セントイグリシアでの5000mが組まれている。ヴァージンは、早くも大会翌日からトレーニングセンターへと向かい、室内トレーニングを続けた。
「お前のことだから、やはり次の日にはトレーニングセンターにいたか……」
ランニングマシンで軽く1000mを走り終えたとき、背後からの聞き慣れた声にヴァージンは振り返った。マゼラウスが腕を組んで立っていた。
「トレーニングしないと、どんどん追い越されてしまうんです。私に、休んでいる時間はほとんどありません」
「分かっているようだな……。昨日のネルスで、とんでもない女子が現れたことを……」
ランニングマシンからゆっくりと降りてきたヴァージンが、その声にすぐにうなずいた。
「リゼット・プロメイヤさんですね。私も、昨日はレースの後残って、プロメイヤさんのレースを見てました」
「ヴァージンよ。正直、見ててプロメイヤのことをどう思った。お前の直感で話して欲しい」
やや低い声で尋ねるマゼラウスに、ヴァージンは小さくうなずいた。
「私と同じシューズで、同じようなレースをしています。しかも、ラストスパートを除けば、私が意識するペースよりも少しだけ速いペースで進んでいるように思えます。……まだ本気の力を見せてませんが、強敵です」
「お前の口から、強敵という言葉が出てくるのは、久しぶりだな。だが、口調が強気なのは、さすがだな」
「コーチ。最速女王と言われ続ける私に、今更弱気になる理由なんて、一つもありません。プロメイヤさんと勝負して、世界記録を叩き出して勝つまでです」
遠くに見えたプロメイヤの姿を、ヴァージンははっきりと思い出していた。最後に流していった走り方さえも、その場でヴァージンは記憶から蘇らせた。それでも、「女王」の解き放つ言葉は落ち着いていた。
「お前らしいな。言葉の隅々までたくましさが溢れ出ている」
マゼラウスはそう言うと、ヴァージンの肩を軽くタッチした。一方ヴァージンは、一度思い浮かべたライバルの表情を、しばらく忘れることができず、一度マゼラウスに向かってうなずき、口を開いた。
「私は、ライバルを意識しないといけません。プロメイヤさんまで間違いなく13分台を出せるとなると、私はもっと速く走らなければ、すぐに追いつかれてしまいます。でも……」
「でも……、なんかものすごい決意を語りそうだな」
「決意じゃありません。いま、こうしてライバルが増えていって……、ものすごく楽しいんです。10000mでも新しいライバルが増えましたし、そういう強力なライバルと走れると思うだけで楽しいんです!」
ヴァージンは、そこでかすかに笑った。それは、決して薄笑いではなく、心の底から笑っているように、彼女には思えた。
「ヴァージンよ。なんか、今のお前はとてつもなく何かにワクワクしている表情だぞ」
「ワクワクしてますよ。私と『フィールドファルコン』の最強のタッグでどれだけの強敵を破って、どこまで自分の世界記録を縮められるか……、私がまだその限界を知らないんですから!」
そう言って、ヴァージンはトレーニングに戻った。その横で、マゼラウスが何度もうなずいていたのが、この日のヴァージンには事あるごとに感じられた。
ライバルが増えたことが、ヴァージンに良い効果をもたらしたのか、それまでトレーニングでは13分55秒手前に落ち着いてしまっていた5000mのタイムトライアルで、何度か13分53秒台を叩き出すようになった。メリナに打ち勝った時の世界記録13分53秒28を、再び破れるような確信が、ストップウォッチを見るヴァージンにははっきりと溢れていた。
(でも、今の世界記録で満足しちゃいけない……。後ろには、何人も13分台で走れるライバルがいる!)
結局、レース当日まで公式の世界記録こそ超えることはなかったが、何度か53秒台を叩き出していることそのものがヴァージンにははっきりとした自信になっていた。
(私は、本気のメリナさんに打ち勝てば、さらに記録を伸ばせる……。手ごたえは、十分ある)
その一方で、イリスに送ったメールは何日待っても返信が来ず、ヴァージンはメール画面を開いては返信がないことにだけ落胆するのだった。
そして、いよいよイグリシアに向かう前日となった。飛行機が朝早いため、この日ヴァージンは午後早い時間にアルデモードの待つ自宅に戻った。ヴァージンがドアを開けた瞬間、アルデモードが椅子に座って何かを言っているのが、彼女の目に見えた。
(アル、いったい何をやってるんだろう……)
ヴァージンは、ゆっくりとアルデモードに近づいて行く、すると、数歩近づいたところでアルデモードが驚いたように振り向いた。彼の手には、もう何年も前に買ったと思われる、面接の手引書があった。
「お帰り、ヴァージン。明日がイグリシアに行く日だっけ」
「そう。私がメリナさんの地元でレースをするの。……で、アル、いま何してたの?」
ヴァージンは、アルデモードの横に立ち、彼の表情と面接本とで交互に視線を落とした。その様子に気付いたのか、アルデモードは面接本をテーブルの上に置き、何事もなかったように作り笑顔を見せた。
「面接のセルフ練習。いま、僕はとても緊張してるんだよ」
「面接……、って何の面接をするの。アルは、そろそろグラスベスの契約更改でしょ」
「その契約更改が、君がイグリシアから帰ってくる日なんだ。でも、たぶん今年は重たい面接に代わるような気がする。今までのようにサイン一つで終わらなさそうで……。正式には言われていないんだけど……、今回はみんなが僕に、厳しいって言ってくるんだ」
アルデモードは、作り笑顔の中で震えていた。もはや、彼自身でどうすることもできないほど、そのことを誰かに伝えたくて仕方ないような様子だった。
「アルは大丈夫よ。グラスベスで、今まで何十本もシュートを決めてきたんだし……、何よりアルが今回の契約更改を難しいって考えたら、最高の結果はきっと出てこない」
「そうだ……、ね。やっぱり、ヴァージンならそう言うと思ったよ……。さすが、トップアスリート」
そう言って、アルデモードは再び作り笑顔に戻った。ヴァージンは、落ち込むアルデモードに優しく告げた。
「アル、自分のしてきたことを信じて。自分がどれだけグラスベスに貢献してきたか、思い出して。そうすればきっと、どんな辛い面接になったとしてもクリアできると思う!」
「ありがとう、ヴァージン」
軽く頭を下げながら、アルデモードは小さく言葉を残した。
翌日、オメガセントラル国際空港に数多く離発着する飛行機の中から、ヴァージンはセントイグリシア行きの便を選んだ。機内は、心なしか観光客が多めで、ヴァージンのように「仕事」としてイグリシアに向かう乗客のほうがむしろ目立って仕方がなかった。これまで、いくつもの国に遠征に行った彼女でも、初めて訪れる国がどのような雰囲気であるのかは、機内の様子を見るまではっきりと分からなかった。
(もしかしたら、セントイグリシアでのレースに出るライバルが、この飛行機に乗っているのかも知れない……)
彼女はビジネスクラスの座席に着くなり、シートを少しだけ倒し、なるべく機内でリラックスしようとした。だが、その直後に三つ隣の席に、見覚えのある黒髪の男性が座ろうとしているのが、彼女の目に飛び込んだ。
(ガルディエールさんだ……。メリナさんの代理人だから、普通にオメガから飛ぶのか……)
ヴァージンがガルディエールの姿を見つめたと同時に、ガルディエールもヴァージンに向き直り、そこで二人は目が合った。そして、彼は座席に手提げバッグを置くなり、ヴァージンの席の横にある通路まで移った。
「お久しぶりですね。まさか、こんなところでばったり会うとは思わなかったです」
「ガルディエールさん……。それは、私のセリフです」
ガルディエールと最後に出会ったのは、昨年のネルスでのレースだった。ちょうど1年ぶりに、今やライバルの代理人となった、かつての代理人と顔を合わせたが、その時と比べてガルディエールの表情は険しかった。
「早速、敵対心を燃やしているようですね。ただ、それは私も同じです」
ヴァージンに向かって、静かに言葉を連ねるガルディエールは、さらに低い声で彼女に告げた。
「4月のラガシャ選手権、私は恥をかかされたと思っています。『SSIL』のスポーツ科学が、シューズひとつに負けるなんて思わなかったですから」
「それは、シューズの力じゃありません。私と、メリナさんの実力の差です」
「ただでさえ2連勝して、もう追いつけないところまで行ったんですよ。世界記録更新も間違いなしの状況。その中で、『SSIL』の研究チームにも泥を塗ってしまったわけですから……、今回のレースでは私もやすやすと優勝を渡すわけにはいかないんですよ。分かってますね」
念を押すような声で、ガルディエールはヴァージンに迫った。だが、そこでヴァージンは首を強く横に振った。
「私だって、本気でメリナさんに挑みたいんです。勝ちたいんです。それだけは、私がいつもレースで意識していることなんです」
「それはどうなんでしょうね」
そう言って、ガルディエールは座席に戻った。その後ろ姿を、ヴァージンは目を細めながら見続けた。