第61話 驚異の実力を持つ新人アスリート(4)
(あの顔、どこかで見たような気がする……。でもいったい、誰なんだろう……)
ネルスから自宅に戻ったヴァージンは、レースの結果やその後に現れた5000mの新たなライバルのことよりも、最後にその顔を見てしまった一人の青年のことを考えていた。茶色のショートヘア、見るからに爽やかそうな印象を受ける表情。ほんのわずかな時間で見た、この青年の全てがヴァージンの脳裏で蘇る。
(いつ、どこで見たんだろう……。絶対、どこかで出会っているような気がする……)
遠くから見るに、いま30歳のヴァージンよりは一回り若い。オメガスポーツ大学のパーカーを着ていた以上は、間違いなく大学生で、ヴァージンのように一度社会に出てから大学に入りなおすようなことでもしない限り、18歳から23歳のいずれかということになる。
(大学生だから、私の走っているようなレースに出るのは、最近のことのはず。しかも、あの足は短距離走だし、そもそも男子だから、私が出会う可能性も少ないのに……、どうして見覚えがあるんだろう……)
パソコンの前に座ったまま、パソコンを起動させることすらできないヴァージンは、再びネルスのスタジアムで彼女が見た光景を巻き戻した。何度も思い返しているのに、顔や髪はその時の姿ばかり出てくるのだった。
「どこかで、思い違えたのかな……。全く知らない人を、記憶しちゃったのかも……」
とうとう、ヴァージンはため息をついた。最初に出会った時の顔が思い出せないままだった。口では記憶違いという言葉を出したとしても、悩み続けた彼女がそれで納得するわけがなかった。
(きっと、彼がこういうレースに出るずっと前に、出会ったのかも知れない……。そうなると、例えば私がジュニアのレースを見に行ったときとか……、たまたま走っていたスタジアムに生徒の見学があったときとか……)
考えられる可能性を、ヴァージンはいくつも模索していた。考えれば考えるほど、可能性は広がっていく。それでも、ヴァージンがジュニアのレースを見に行った記憶は、少なくともここ10年彼女にない上、スタジアムに生徒が見学に来ていたとしても、直接生徒たちと触れ合ったことはなかった。
ただ一度の機会を除けば――。
(一度だけあった……。私が、学校で授業をしたことが……。たしか、もう10年近く前になるはず……)
ヴァージンの中で、少しずつ手掛かりが見えてきた。ため息はもう出なくなった。もはや、その可能性さえ失った時には考えることをやめようとさえ思えるくらい、彼女のその記憶にははっきりとした手掛かりがあった。
「小学校……。運動会のない、リバーフロー小学校……。私は行った……。夢の大切さを伝える授業もした!」
次の瞬間、ヴァージンの記憶からたった一人、小さなアスリートが蘇った。
「イリス君……!いや……、イリスさん……!彼だ……、あの彼だ……!」
アーヴィング・イリス。その名前も含めて、ヴァージンはほぼ同時に彼の全てを思い出した。
(たしか、フェアラン・スポーツエージェントに……、彼が一通の手紙をくれた……。運動会もないのに、どうして陸上クラブに行ってるんだと、バカにされて……、たしか走る意味すら失いかけていた)
ヴァージンは、パソコンの前から立ち上がり、彼女の部屋にある引き出しへと向かった。そこには、ファンレターや、プリントアウトした応援メールが積み上げられていたが、彼女はそれを全て取り出し、下のほうからイリスが最初に送ったメッセージを丁寧に探していった。
(あった……。イリスさんが、エージェント宛に送った手紙だ……)
「陸上をやっていること自体、無意味なんですか?」というタイトルの、イリスの想いが詰まった手紙を、ヴァージンは9年ぶりに手に取り、それをじっと見つめた。全くレースに出ることができなかった、あの時のヴァージン以上に、今の彼女には悲痛に思えるメッセージが詰まっていた。
「たしか、そんなイリスさんに……、私は言った。夢を諦めちゃいけないって……」
――心の片隅に、諦めたくない自分がいました。世界のライバルと勝負することなく、陸上選手になる夢を消したくありませんでした。スタートラインに立って、どんどん離されて勝負にならなくて、それで陸上選手になることを諦めるよりも、ずっとずっと辛いことなのです。
――アメジスタ人は世界で活躍できないっていう現実を跳ね返せるかも知れない。そして、勝負しないまま夢を諦めたくない。ほんのわずかな可能性を信じてくれたからこそ、アメジスタの人々は、私を世界ジュニア選手権に参加することを許してくれました。そして、私もその小さすぎる可能性に賭けて、世界を相手に戦い、夢を現実にしました。
――諦めたら、夢は夢のままで終わってしまいます。みんなの思っている夢は、そこで終わっていいような、小さな夢じゃないと、私は信じています。夢を実現するために、無駄なことなんて一つもありません。
(思い出せる……。私が、イリスさんに……、そしてリバーフロー小学校のみんなに伝えたことが……、もう何年も経っているのに、思い出せる……。そしてあの時、イリスさんは……、私から希望を感じてくれた)
今にも同じメッセージを書きたくなるほど、ヴァージンはその言葉を何度も思い出した。その度に、ヴァージンのメッセージを真剣に聞いているイリスの表情が重なってくるのだった。
そして、最後にイリスが放った言葉まで、彼女の記憶は達した。
――一度でいいから、僕の走りをグランフィールド選手に見て欲しいんです!
「イリスさん……、いや、あの時のイリス君は、ものすごく勇気があった。陸上クラブに入っていることを、私の支えで恥じなくなって……、その後、私はイリス君が小さなアスリートになる瞬間を、真横で見た……!」
小学生たちが次々に「一緒に走りたい」と口にしたことで、実現したヴァージンと小学生リレーでの5000m勝負。最後にイリスと勝負した時、先にゴールラインを駆け抜けたいという気持ちどうしがぶつかり合っていた。そして「ヴァージンと勝負する」チャンスを手にしたイリスが、最後にヴァージンを振り切ったのだった。
(思い出せた……。何もかもを思い出せた……。あとは、ネルスで見たのが、本当にイリスさんなら……)
ヴァージンは、ようやくパソコンを立ち上げて、思い出した一人の選手の名を検索した。
「あった……。もうシニアでも活躍してるんだ……!」
――アーヴィング・イリス、20歳。100m走、200m走を専門とする男子陸上選手。オメガスポーツ大学スポーツテクノロジー学部所属。19歳でシニアデビューを果たし、昨年のオメガセントラルでの世界競技会では、シニア初挑戦ながら100mのファイナリストとなる。小学生から陸上クラブに通い、中学生ではサウスティア州の中学生大会で優勝経験を持つ。強豪ぞろいの男子短距離走で15年ぶりの大学生ファイナリストは、どこまでタイムを伸ばしていくのだろうか。
(イリスさん……。しばらくメッセージが来ないうちに、ものすごく活躍していた……。しかも、世界競技会のファイナリストだったなんて……、どうして私が今まで、イリスさんの成長に気付かなかったんだろう……)
生い立ちから所属まで、イリスの何もかもがつながった。オメガスポーツ大学のパーカーを着ていることさえも、イリスの今を考えれば当然のことだった。
ヴァージンがふと気に留めたことが、この瞬間に確信へと変わった。
「アーヴィング・イリス……さん。私、アスリートになる夢を叶えた彼の姿、一度でいいから見てみたい……」
ヴァージンは、すぐにメールを開き、過去の膨大なメールの中からイリスのアドレスを探し出した。それから彼女は、そのアドレスに短いメールを送った。
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イリスさん、お久しぶりです。小学校で授業をした、ヴァージン・グランフィールドです。
先日、ネルスのスタジアムで、イリスさんを見かけました。走っている姿じゃありませんでしたが、オメガスポーツ大学のパーカーを着て、仲間を称えている姿を少しだけ見えました。それで、今イリスさんが、私と同じ陸上選手になっているんだということも分かりました。
陸上選手になりたいという夢が叶って、私は本当に嬉しいです。活躍を応援しています。
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(なんか、ありきたりすぎているけど……、今の私はイリスさんのことが、ものすごく嬉しく思っている……)
ヴァージンは、何度も文面を迷いながら、送信ボタンを押した。これまで返信メッセージしか送ったことのないイリスのアドレスへメールが届いた瞬間、彼女の手からどっと汗が出てきた。