第61話 驚異の実力を持つ新人アスリート(3)
(もう少し、速い記録を出せたかな……)
この日もまたライバルとの勝負に打ち勝った「フィールドファルコン」をバッグにしまいながら、ヴァージンはふと思い浮かんだ。世界記録を初めて叩き出したスタジアムは、レース後にはいつも疲れ切っており、彼女がここまでもう少し走れると思ったことはなかった。それどころか、ライバルであるロイヤルホーンでさえ、自己ベストを一気に7秒も更新できている。
(ネルスのスタジアム、意外と速いタイムを出せるのかも知れない……)
バッグを持ってロッカールームを出た彼女は、選手用出入口を出るとスタジアムの出口には向かわず、そのまま観客席の入口へと向かった。そして、ゴールがはっきりと見えるエリアに空いていた席を見つけ、そこでこの後に行われるレースを見ることにした。
(トラック競技は、もう1時間もしないうちに女子5000m……。今まで、私がこうやって自分の一番走っている種目を見たことなんてほとんどないから、なんか新鮮な感じがしてきそう……)
だが、客席の中にうまく紛れ込んだように見えたヴァージンは、それから数十分もしないうちに、一人の観客の声でその存在がバレてしまった。
「おい、ヴァージン・グランフィールド。5000mは出ないんかい?てっきり、走るために来たんだと思ったがね」
(そうきたか……)
既に集合時間が過ぎている段階で、ヴァージンが客席にいることそのものが、観客には違和感そのものだった。その声に誘われるように、多くの観客の目が一斉にヴァージンに向けられた。
「あの……、私は今日、10000mを走るためだけにここに来たので……、5000mには出ないのです……」
そう言いながら、ヴァージンは体から冷や汗が出てくるのを感じた。
トラックに、女子5000mに出場する16名の選手が現れた。メリナやカリナといった、今やヴァージンにとって数少ないライバルと言っていい存在の姿は、そこにはなかった。最も内側でスタートを待つ選手でさえ、ヴァージンに打ち勝ったどころか、2000mあたりで粘られたことすらもない選手だった。
(でも、5000mのトップアスリートが出ていないこの大会で、どこまで新しいライバルが出てくるか……)
走るわけでもないのに、「On Your Marks……」の低い声で息を吸い込んでしまう。次に号砲が鳴れば、反射神経で走り出してしまうかも知れなかった。だが、目の前に座っている観客が目に飛び込んだ瞬間、ヴァージンは首を左右に振って動きを止めた。
(レースが始まった……)
最も内側に立つ選手が、そのままレースの主導権を握る。ヴァージンの序盤とほぼ同じストライドで飛び出したように見えたので、彼女は真っ先にそう思った。だが、次の瞬間、外側から数えたほうが早いほどの場所からスタートした、一人の茶髪の選手が、素早く内側に回り込み、腕を大きく振って先頭に立った。ゼッケンに書かれた「プロメイヤ」の名を観客にはっきりと見せながら駆け抜けていく。
そして何よりも、ヴァージンの目に留まったのは、プロメイヤの足に輝く、ヴァージンが何度も見たはずの赤いシューズだった。
(「フィールドファルコン」を履いてる……。私の他に使っているライバルを、初めて見た……)
思い通りのスピードを操れる。エクスパフォーマから示されたそのコンセプトを、ヴァージンのライバルとなるかもしれない存在が巧みに操っている。それも、ヴァージンの序盤のペースを大きく上回るパフォーマンスだ。
(ラップ68秒くらいか……。メリナさんよりは遅めのスピードで進んでいるけれど、このペースだとかなりのタイムになるかもしれない……)
ヴァージンの序盤のペースをやや上回るプロメイヤのペースに、この日はもう誰もついて行けない。注目選手がほぼいないこのレースで、しかもプロメイヤというヴァージンですら名前を聞いたことのない選手が、突然トップに立ち、この日の女子5000mを引っ張っている。
ヴァージンは、誰も予想しなかった展開を、ほぼその場で一人だけ、冷静な目で見つめていた。
だが、そのヴァージンですら、次第に冷静でいられなくなるのを感じた。プロメイヤが3000mを8分29秒で通過したあたりから、ヴァージンは残りの距離とプロメイヤのペースを計算し始めていた。
(このまま行くと、プロメイヤさんは14分09秒か、もう少し上回るタイムでゴールするはず……。でも、もしプロメイヤさんがメリナさんや私のように、最後のスパートを手に入れていたとしたら……)
ヴァージンの目は、ひたすらプロメイヤの腕を追いかけていた。腕を大きく振り続けるプロメイヤの表情に、疲れている様子は何一つなかった。体や足の動きも含め、まだ余力を残しているようにさえ見えた。
そして、4000mのラインに差し掛かろうとしたプロメイヤの右足が、突然大きなストライドを取った。
(4000mでスピードを上げた……。私やメリナさんと同じような走り方をしている!)
プロメイヤは、4000mのラインを境に一気にペースを上げた。ヴァージンの目で確かめるに、プロメイヤはラップ64秒から65秒ペース。ヴァージンの第一段階のスパートより少し速いペースだ。
それどころか、プロメイヤは4200mを過ぎたあたりで再びペースを上げた。「フィールドファルコン」を携えるようになったヴァージンの加速地点と全く同じであることに、ヴァージンは驚きを隠せなかった。
(ラップ65秒ペースから63秒ペースへ……。しかも、同じシューズ。まるで、私を見ているみたい)
ヴァージンは、この段階になると記録計とプロメイヤの姿を交互に見続けるしかなかった。4000mまでラップ68秒と、ヴァージンの基本ペースよりもわずかに速く走っている、ここで4600mからヴァージンと同じトップスピードを出された瞬間、世界記録を奪われかねない状況になった。
(目の前にいるのに、戦わずしてプロメイヤさんに世界記録を出されるのだけは、絶対嫌だ……)
ヴァージンは、4600mを過ぎた直後のプロメイヤの一歩で全てが決まると察した。そのスパートが、完全にヴァージンを意識しているようにしか思えなかったからだ。
(さぁ、どう出るか……)
最後の1周を告げる鐘が、スタンドに響く。その時、案の定プロメイヤが力強く地を蹴り、一気に加速した。ヴァージンの目には、瞬間的にラップ57秒ほどのペースまで駆け上がった。
だが、コーナーを回りきったところで、プロメイヤは後ろを振り返り、少しだけペースを緩めた。爆発的なパワーを見せつけようとしていた「フィールドファルコン」が、突如としておとなしくなる。
(スパートが元に戻った……。ラップ63秒くらいのペース……、いや、もっと遅くなった……)
決して、足がもたついているわけでも、体が疲れ果てているわけでもない。まっすぐ前を向いて、一歩ずつ着実にゴールへと向かっているだけだった。出せるはずのスピードを、今はどこかにしまっているかのようだ。
(流している……。プロメイヤさんが、完全に流している……)
目の前で行われているレースに、ヴァージンは一度だけ首を横に振った。これまで、ヴァージンがゴールラインを本気のスピードで駆け抜けなかったなど一度もなく、例えば世界競技会の予選で組のトップに入る選手が流すくらいしか見たことがなかった。だが、この日のプロメイヤは、完全に余力を残した状態で、一発勝負のレースを終えてしまったのだ。
プロメイヤのタイムは、14分03秒87。13分台での決着が当たり前になってきた、このところの女子5000mではそうそう見るようなタイムではない。だが、そのタイムにさえ、ヴァージンは釘付けになった。
(流して、このタイム……。これは、まだ本気のタイムじゃない。だから、プロメイヤさんは、メリナさんと同じくらい強敵になる……)
ヴァージンは、プロメイヤがトラックから見えなくなるまで、彼女の姿を追うしかなかった。ほんのわずかな時間だけ、ヴァージンとプロメイヤの目が合ったように思えた。
(やっぱり、一人ライバルが去ったら、また新たなライバルが生まれる。負けるのは悔しいけど、誰もライバルがいなくなるのもまた寂しいし、モチベーションも少しずつ下がってくる。だから、ロイヤルホーンさんやプロメイヤさんを見れて、今日は本当に楽しい一日だった)
観客席から外へとつながる階段を、ヴァージンは他の観客の中に紛れて降りていく。ちょうど階段を降りたところに、この日もヴァージンが通った選手用出入口がある。ガードマンが立っていて、選手と観客の動線が交わらないようになっているものの、勝負に挑む前、勝負を終えた後のアスリートの姿を間近で見られるポイントとして、ごった返していた。
普段その場所に来ることもないヴァージンは、特段意識せずにそこを通り抜けようとした。だが、たまたま人一人分空いていた隙間から、茶色のショートヘアをなびかせた、一人の青年の姿が見えた。この日出場した選手ではなく、付き添いとして入口で誰かを待っているようだ。
その顔が振り向いた瞬間、ヴァージンはわずかな時間、息を飲み込んだ。
(あれ……、この顔、どこかで見覚えがある……)
「オメガスポーツ大学」のパーカーを着ており、体つきまでははっきりと分からない。ただ、長身で、足も短距離走者のように硬そうに見えた。それでも、茶髪と、わずかに青年の顔を見たときの雰囲気は、彼女が一度は感じたもののように見えた。
しかし、次の瞬間、その青年は選手受付横から出てきたプロメイヤに声を掛けた。プロメイヤもまた、「オメガスポーツ大学」のパーカーを着て、その青年に何かを告げていた。
(なんだ……。同じ大学の陸上部どうしなのか……)
ヴァージンは、一度はそう確信した。だが、頭の中で蘇りつつある記憶を止めることはできなかった。