第61話 驚異の実力を持つ新人アスリート(2)
ネルスでの、女子10000mのレースが始まろうとしている。集合場所に向かったヴァージンは、出場する15人の中でひときわ背の高いロイヤルホーンを何度も見るものの、決してレース前にそれ以上話そうとは思わなかった。ヒーストンも、赤い髪をなびかせながらヴァージンを見つめるが、ヴァージンはヒーストンに対しては、ほんの少しだけ横目に流すだけだった。
「On Your Marks……」
トラックを踏みしめる「フィールドファルコン」が、翼を広げた状態でスタートの瞬間を待っているように、ヴァージンには感じられた。そこから溢れてくるパワーを、彼女はスタートラインに立つほんの数秒間で、体の全てに送っていった。
(よし……)
号砲が鳴り、ヴァージンは10000mのトレーニングで何度も積み重ねてきたラップ72秒ペースまで、一気に加速していく。このペースで走り続けていけば、それだけで30分になると分かっているものの、もはやヴァージンにはそれより遅いタイムを考えることはなかった。
(後は、自分のコンディションに応じて、少しずつペースを上げ、最後の1000mに入る前に26分50秒ぐらいになっていれば、29分台前半の世界記録を出せるはず。トレーニングでは、その9000mに入るタイムが少し遅かっただけなのだから……)
ヴァージンは、早くも最初の1周を終えようとしていた。その時には、彼女の後ろに二人のライバルが追っていることが、背後から受ける風だけで分かった。それが、おそらくヒーストンとロイヤルホーンであることも。
(序盤から、自己ベスト29分台を持つライバルだけとの争いになっている……。もし、後ろの二人の誰かが仕掛ければ、このレースは私が想像する以上にハイペースになるのかも知れない……)
ヴァージンは、5000mでも見せているように、序盤から中盤にかけてペースをキープし続けながら、前に誰もいないトラックを軽々と駆け抜けていく。ネルスのトラックの上でも、「フィールドファルコン」が飛び続けているように、彼女の足ははっきりと感じた。
やがて、レースは8周を終え、中盤に差し掛かった。3000mのタイムが、体感的には9分ちょうどとなっていたため、彼女はここで少しだけストライドを広めにとった。
(71秒まで行かなくても、少しだけペースを上げよう。さすがに9000mまでこのラップで走り続けていたら、記録だって狙いにくくなってしまうのだから)
ヴァージンの足は、全く疲れていない。ラップ72秒で走り続けることが、彼女の足にとっては退屈で、逆の意味で苦痛であるかのようにさえ思えた。
だが、その退屈は、ヴァージンがストライドを大きく取った瞬間に一気に取り払われた。背後から受ける風の向きが、ここではっきりと変わったのだった。一人、苦しそうに付いて行き、そしてもう一人は――。
(ロイヤルホーンさんが、ここで勝負を仕掛けた……!)
ヴァージンが動き出すのを待っていたかのように、ロイヤルホーンがやや強くトラックを踏みしめ、直線でヴァージンの横に出た。ストライドは、背の高い分だけロイヤルホーンのほうが大きかった。そして、ヴァージンより前に出た瞬間に、ロイヤルホーンが横目でヴァージンを少しだけ見た。
(ロイヤルホーンさんの目が鋭い……。あの笑顔からは想像もつかないほど、本気だ……)
ロイヤルホーンのラップは、瞬間的に71秒に駆け上がり、ヴァージンを背中に追いやるとややペースを落とした。一方のヴァージンは、71秒プラスアルファのロイヤルホーンをここで抜き返すことはしなかったが、勝負と決めたラスト1000mまで12周以上残したこの場所からじりじりと離されることもまた、できなかった。
(あまり離されなければ、ロイヤルホーンさんとは最後の勝負に持ち込める。それが今の私)
より前に出ようとする「フィールドファルコン」の意思を抑えつつ、ヴァージンは抜かれてからわずか数秒で自分に言い聞かせた。世界女王は、10000mでも自分自身なのだと。
それからの5000mは、少しずつロイヤルホーンから引き離されていくものの、ヴァージンも落ち着いたペースで食らいついていく様相を見せていた。ヴァージンを後ろから追っているヒーストンも、何度か勝負を仕掛けようとペースを上げるが、なかなかヴァージンの横には出てこなかった。
8400mの通過が、体感的に25分04秒ほど。最後の1000mでスパートが決まれば、間違いなく29分台前半で決着する状況に変わりはなかった。そして何より、このペースで8400mまで走り続けても、ヴァージンの足は全くと言っていいほど疲れていなかった。
(ロイヤルホーンさんとは、この段階で35mくらいの差……。大丈夫、私は追いつけるはず……!)
前を行くロイヤルホーンは、ラップ71.2秒ほどのペースのように思えた。ロイヤルホーンは、スパートをかけなくても29分48秒から50秒と、昨年のインテカ選手権で見せた自己ベストに匹敵するタイムを出そうとしている。だが、トレーニングで公式の世界記録より速いタイムを出し続けているヴァージンにとって、ロイヤルホーンの現時点での自己ベストなど、足元にも及ばなかった。
そして、8800mのラインを駆け抜けた。そこで、背の高いロイヤルホーンの体が少しだけ動いた。
(ロイヤルホーンさんが、少しペースを上げた……!)
それを見たヴァージンは、残り1000mよりもやや早い地点でトラックを蹴り上げた。今にも戦いたがっている「フィールドファルコン」が、ヴァージンの脚をさらに軽くしていくようだった。
(私がペースを上げた瞬間、「フィールドファルコン」も戦闘モードになっていく!前を行くライバルと、そして自分の記録に勝負するための強い翼を、いま私は携えている!)
ラップ71.8秒ほどだったヴァージンのペースは、9000mを通過する頃には早くも68秒ほどに跳ね上がっていた。ロイヤルホーンもペースを上げて逃げ切りを図ろうとするが、スパートに入ったヴァージンがその差を詰めていく。前を行く大きな背中が、ヴァージンの目に迫ってくるようだ。
(この400mで、だいたい25mくらいまで縮まった。でも、まだ私はスピードを上げられる!)
ヴァージンは、「フィールドファルコン」の底でさらに強くトラックを蹴り上げ、もう一段ギアを上げていった。体感的には、ラップ64秒ほどのペース。ロイヤルホーンが、ここで後ろを振り返るものの、ラップ69秒を少し切るペースまで上げるのがやっとだ。コーナーだけで5m、次の直線で5mと、ヴァージンが見る見るうちにロイヤルホーンの背中を捕らえていく。
そして、最後の1周を告げる鐘が鳴り響いたときには、ヴァージンはロイヤルホーンの真後ろにぴったりと付いた状態で、さらにペースを上げた。
(まだまだっ……!私は、29分台前半の世界記録と戦いたい……!)
コーナーの途中で、ヴァージンはロイヤルホーンの横に並び、その大きな体をあっさりとかわした。もはや今の彼女には、世界第3位のタイムを持つライバルなど勝負にならない存在だった。それよりも、ヴァージンは次元の違う世界記録との勝負を望んでいたのだった。
トラックの上を飛んでいる「フィールドファルコン」とともに、ヴァージンはトップスピードで戦い続けた。
(ラップ58秒ちょっと。私はこのペースで、やっと本気で走っているように思える……!)
ヴァージンは、自分にはっきりとそう言い聞かせ、ゴールラインを駆け抜けていった。
29分28秒85 WR
(だいたい10秒、自分の世界記録を縮められたか……)
ゴールを駆け抜けた直後、ヴァージンはすぐに記録計の数字に目をやった。間違いないと思っていた29分台前半での記録を見た瞬間、彼女は一度だけうなずいた。だが、彼女が携える「フィールドファルコン」は、それでもまだ走り出したそうに、ヴァージンの脚にパワーを与えていた。
ヴァージンから10秒近く遅れて、ロイヤルホーンがゴールすると、ヴァージンはすぐに彼女のもとに向かい、汗だくの両腕で抱きしめた。
すると、出会った時とは全く違う、低いトーンでロイヤルホーンが告げた。
「今日のところは、私の負けだわ。メリナ・ローズは破ったけど、グランフィールドは、今の私には強すぎる相手ね……」
「ロイヤルホーンさんだって、ほとんど2年前の私の世界記録じゃないですか……。もし私が本気でスパートで来てなかったら、世界記録はロイヤルホーンさんのものですよ」
すると、ロイヤルホーンがヴァージンにはっきり見えるように、首を横に振った。
「それだけは、確かに言える。けれど、今日のグランフィールドに勝てなければ、何の意味もない」
ロイヤルホーンは、そう言ってヴァージンから腕をほどいた。そして、最後に一度だけ首を横に振り、言った。
「これから、少しでもグランフィールドに追いついてみせる。これが、私の決意よ」
「ロイヤルホーンさん……」
後ろを振り向き去っていく敗者の姿を、ヴァージンはその目で見続けた。たとえ、今年の世界競技会でその背中がより硬い壁になっていたとしても、絶対に負けることはないとヴァージンは誓った。