第61話 驚異の実力を持つ新人アスリート(1)
ヴァージンにとって久しぶりの10000mとなる、ネルスでのレースは2週間後に迫っていた。リングフォレストでのレースが終わった日から、彼女はこれまで数日に一度のタイムトライアルしか行っていなかった10000mにトレーニングの多くの時間を割いていた。
「ここ何回か、ものすごくタイムが上がっているようだ。さすが、お前はどのレースも本気で走ってしまうな」
感心したような表情を浮かべるマゼラウスが、ストップウォッチを手にヴァージンのもとに近づく。「フィールドファルコン」を操るようになってから、その数字はほとんど29分台が刻まれていたが、この数日は29分38秒73をも上回るタイムばかり叩き出していたのだった。
そして、この日はトレーニングでも出したことのない29分32秒の数字が刻まれていたのだった。
「私が思っていたタイムより、3秒くらい早いです。しかも、最後のラップで普段のように60秒を少し切るようなペースで走っていても、全く疲れませんし……」
「だろうな。私が見ても、余裕のある走りに見えた。そうなると、ネルスに強力なライバルが出てくれば、一気に10秒以上世界記録を更新してしまうかも分からんな」
ヴァージンの足の裏で、まだ「フィールドファルコン」が走りたがっている。10000mを走り終えて、ここまで走りたい気持ちが湧き上がってくるのは「Vモード」のときにはなかったことだ。
「ライバルがいなくても、出せそうな気がします。最後のラップをもう1秒、2秒……、ちょっと前まで5000mで出していたスパートで攻めれば、間違いなく29分30秒の壁を破れそうな気がします」
「その言葉が出てくるときのヴァージンは、絶好調の証だ。私は、今のお前を完全に信じていいと思っている」
そう言って、マゼラウスは静かにうなずいた。ヴァージンも、その言葉に軽いプレッシャーを感じながらも、それを跳ね飛ばすくらいのパワーを全身に感じていた。
(いま、自己ベスト29分台の選手って、どれくらいいるんだろう……)
最後に10000mを走ったのが一昨年の世界競技会だったヴァージンは、ここ2年の動向を全て把握しているわけではなかった。家に戻ると、彼女は洗濯もすることなくパソコンに向かい、国際陸上機構のサイトにある大会記録一覧を見た。
(一昨年の世界競技会で最後まで粘られたメリナさん以外、みんな自己ベストが上がっている……)
昨年、オメガセントラルで行われた世界競技会の女子10000mで、ヒーストンが5年ぶりの優勝を果たしたことはヴァージンも知っていたものの、その時の優勝タイムが29分53秒36。同じ大会でレジナールも29分台のタイムをつけている。
(サウスベストさんは、最近レースに出なくなったけど、サウスベストさんも入れたら29分台は5人……)
ヴァージンは、10000mの記録一覧をさらに最近に近づけた。そして、昨年の10月、アフラリのインテカ選手権までスクロールした時、彼女は思わず息を飲み込んだ。
(優勝タイム、29分45秒28……!?)
優勝選手の名前に、ポーリア・ロイヤルホーンと書かれてあった。14年近くトラックに立ち続けているヴァージンでさえ、聞いたことのない名前だった。記録一覧から分かることは、ロイヤルホーンが地元アフラリの選手であること、そしてメリナにも10秒以上の差をつけて優勝していることだった。
(今のところ、私に次ぐ自己ベストを持っているメリナさんを……、ここまで引き離すなんて……)
ヴァージンは、ディスプレイの中に映るライバルの文字を見て、早くも「戦いたい」と心の中で誓った。
ちょうどそのタイミングで、メドゥから電話がかかってきた。
「メドゥさん、久しぶりです」
「すごいじゃない、ヴァージン。10000mで最高のタイムを出せたって聞いたから、私もうれしくなったわ」
電話口の向こうで、メドゥは少し浮かれている様子だった。ヴァージンもライバルの名前から目を背け、メドゥとの打ち合わせに集中しようとした。
だが、彼女のその思惑はあっさりと外れてしまった。
「ところで、ヴァージン。ポーリア・ロイヤルホーンって選手、聞いたことあるかしら」
(ひょっとして、私のパソコン画面をメドゥさんが見て……るわけないか……)
ヴァージンは、その名前が聞こえた瞬間に、口元を電話口から外して、再び息を飲み込んだ。だが、その音があまりにも大きすぎたため、すぐにヴァージンは諦めることに決めた。
「今さっき、陸上機構のホームページで知りました……」
「私も、去年までは全く知らなかった。去年まで、国際レースに全く出てきてなくて、地元で29分台を出してから一気に有名になったの。今年は、女子10000mの国際レースに本格的に参戦するそうよ。勿論、ネルスにも」
「ロイヤルホーンさんと一緒に走れるんですね。自己ベストも45秒台……、今日の私とは14秒差ですね」
ヴァージンは、公式の世界記録を大きく飛び越えた数字をメドゥに告げた。すると、メドゥが小さく笑う声がヴァージンの耳に響いた。
「まだ14秒もあるんじゃ、余裕ね。でも、ロイヤルホーンは世界中のライバルと戦って、まだまだ速くなっていきそうな気がする……。だから、ヴァージンもそれに負けないで」
「勿論、それは分かっています。新しいスピードを手に入れた私は、もう負ける気がしないです」
「そう言ってくれると、私も嬉しい」
その後、メドゥからはネルスより後のスケジュールが簡単に告げられた。6月にメリナの地元・イグリシアで行われるセントイグリシアでのレース。これには間違いなくメリナが出てくると思われるので、ヴァージンからメリナとの再戦の話が出た段階でエントリーしたとのことだった。
だが、ヴァージンはセントイグリシア以上に「地元対決」になることをこの段階で思い知り、メリナとの直接対決のことさえ頭に入ってこなかった。
(今年の世界競技会、アフラリのスタインで行われる……。アフラリは……、ロイヤルホーンさんの地元……)
このことを悟ったヴァージンは、早くも次のネルスで新たなライバルの実力を見たいと誓っていた。
ヴァージンにとって久しぶりとなる10000mのレースは、オメガ国内のネルスで行われる。ヴァージンが最初に世界記録を叩き出したネルスのスタジアムも、少しずつ改修が行われ、彼女が1年ぶりに入る今回はスタジアムの外観が落ち着いた青一色に塗られていた。
(スタジアムが変わっているのだから、私だってより速いタイムの世界記録を出さなきゃ……)
ヴァージンは、受付に向かってゆったりと歩いた。すると、その背後から大きな影がヴァージンを包み込んだ。
(誰か、背の高い選手がいる……?)
思わず振り返ったヴァージンの先に、つい先日からネット上で何度も見ている顔――黒のショートヘアで、やや濃いめの肌色の顔――が現れ、ヴァージンと顔を合わせた瞬間にそっと手のひらを立てた。
「も、もしかして……、ロイヤルホーンさん……」
すると、相手は二、三回うなずいてヴァージンの表情を見つめる。
「そうよ。そして、あなたはあのヴァージン・グランフィールドね」
「はい」
ヴァージンがうなずくと、ロイヤルホーンが右手を伸ばし、ヴァージンに握手を求めた。ヴァージンの手は、自然とその中に吸い込まれていく。
「世界一速い選手と出会う瞬間って、こんなにも偶然なのね。今までほとんど国際レースに出てこなかったから、雲の上のような存在に思えて仕方なかった。それが、国際レース2戦目で会えるなんて、夢のようだわ」
「私だって、世界3位の自己ベストを持つロイヤルホーンさんと走れるの、楽しみで仕方ありません」
「分かってるじゃない、世界3位だって。でも、メリナは直接対決で破ってるし、あとはもうグランフィールドしかいないって思ってる。だから、私だって楽しみで仕方ない」
メドゥから事前に流れている話では、この大会に自己ベスト29分台は、他にヒーストンが出る。だが、新たなライバルと目を合わせた瞬間、この時のヴァージンにはロイヤルホーンとの勝負が別次元のように思えてならなかった。
バッグの中で、「フィールドファルコン」のパワーが溢れてくるようにさえ思えた。
(私は……、ロイヤルホーンさんをあっさりと引き離し、次の世界記録を一気に縮める力を持っているんだから)
またトラックで、と言ってヴァージンからやや離れたロイヤルホーンを、ヴァージンは何度も振り向きながら見た。背が高いロイヤルホーンが、どこまで離れても目立っているように思えた。
(もう私は、ロイヤルホーンさんに負ける気がしない……。たとえ、その力が未知数だったとしても)
ロッカールームで「フィールドファルコン」を履くとき、彼女の脳裏にロイヤルホーンの静かな笑顔が浮かび、そのたびに彼女はそれを睨みつけた。