第60話 最強のシューズを操れるレベル(6)
メリアムが引退を賭けた、リングフォレストでの女子5000mのレースも、残すところあと5周となった。ラップ67秒台前半のスピードまで達したメリアムのペースは、その後もほとんど緩むことはなかった。ヴァージンもまた、3000mを8分31秒ほどのタイムで駆け抜け、メリアムを追いかけるタイミングをうかがっていた。
(まだ「フィールドファルコン」の2戦目。4000mより手前から勝負をするのは、まだできない……)
メリナとのレースでは4000m近くで30m差だったが、この日は3200mのラインで30mほどの差になっていた。明らかに、メリアムが逃げ切りを図っている。メリナと違って、メリアムはそこからあまりペースを上げることはないが、引退を賭けているとは思えないほど、メリアムの走りは最も状態のよかった頃の彼女に近づいている。
(4000mで、どれくらいの差になっているか……。そこから私が本気の走りを見せれば、間違いなくメリアムさんに勝てるはずだけど、その差によって、どこでメリアムさんを抜き去るかも変わってくる)
3600mを駆け抜ける。メリアムの差が、この地点でもはっきりと遠のくのが見える。ラップタイムにして1秒近くの差があれば、目に見えるのも当然のことだ。それでも、ヴァージンは落ち着いていた。
(とにかく、「フィールドファルコン」が、今まで私が使っていたシューズに負けるわけがないのだから)
3800mからコーナーを曲がり、直線に差し掛かる。それからわずか5秒で、メリアムが4000mラインに近づくのをヴァージンははっきりと見た。
「フィールドファルコン」が、メリアムとの戦いに挑みたがっていた。
(これは、少し早いけど、メリアムさんとの勝負をするしかないか……)
次の瞬間、ヴァージンはトラックを力強く踏みつけ、一気にストライドを広げていった。ラップ68.2秒ペースだった彼女は、あっという間にラップ64秒ほどのスピードを体で感じた。それを、コーナーで受ける風向きで感じたのか、メリアムが軽く後ろを振り向き、ややペースを上げた。
(メリアムさんも……、最後1000mからスパートをかけた。メリアムさんだって、負けてられない……!)
コーナーを曲がるうちに、軽く見積もっても35m以上ついていた二人の差は、あっという間に30mを切るまでになっていた。ヴァージンは、直線を駆け抜けて4200mのラインに達すると、さらに足に力を入れる。
(これは、最後の1周までもつれるかどうか……。メリアムさんが、もう一段ペースを上げれば、分からない)
コーナーで一気にペースを上げたヴァージンは、そのスピードのまま再び直線に入った。その時にはもう、メリアムが15m先まで迫っていた。だが、次の瞬間、ヴァージンははっきりと覚えている力を感じた。
(「Vモード」のボルテージが、最高潮に達している……。今まで自分が履いていたから意識してこなかったけど……、ボルテージが上がっているところを見たのは、久しぶり……、いや、初めてかも知れない……)
メリアムが出せる限りのスピードで操っている、「Vモード」。今それは、ヴァージンでさえほとんど感じたことがないほどのパワーをメリアムに送っていた。ヴァージンの目には、「Vモード」を履くメリアムのスパートが、一瞬だけとても速く見えた。
(私は……、「Vモード」でかなりのスピードを感じることができた。少なくとも、つい最近までの自分自身が出せるくらいのスピードまで……。それは、外から見るとこんなにも速かった……)
ほんのわずかの時間、ヴァージンはほとんどスピードを感じられなくなった。
圧倒的な戦闘力を持つ「フィールドファルコン」の前に、「Vモード」というかつての「翼」がその力を懸命に止めようとしているかのようにさえ、ヴァージンには見えた。
だが、ヴァージンの右足が次の一歩を踏み出そうとしたとき、彼女は足下から全く違うパワーを感じた。
(「フィールドファルコン」が戦いたがっている……。かつてのシューズに、怯んでなんかいられない!)
かつてのシューズの前にテンポを乱される形となったヴァージンだが、すぐにトレーニングでのペースを取り戻した。15mの差があったメリアムが、一歩足を踏み出すごとに迫ってくる。最後の1周の鐘がスタジアムに名鳴り響いたときには、ヴァージンはメリアムの真後ろに付け、最後の勝負に挑んでいた。
(私は、出せる限りのスピードをメリアムさんに見せる!それが、今の私とメリアムさんの実力の差だから!)
差しかかったコーナーの前半で、ヴァージンはメリアムの真横からあっさりと抜き去っていった。その脚は、ラップ55秒のペースで着実に前へと進んでいた。一瞬だけペースを落としたこともあって、彼女自身との勝負には挑めそうにないが、逆にメリアムをどれだけ引き離すかだけを、ヴァージンは気にすることができた。
(「Vモード」には戻らない。自分が、今のスピードを出せる限り……!)
トップスピードでゴールラインを駆け抜けたものの、ヴァージンは記録計に刻まれていた数字――13分56秒23――にほとんど目をやらなかった。その代わり、不完全燃焼と言わざるを得ない彼女の膝を両手で押さえ、終わってしまった勝負の場を見つめるかのように、彼女は下を向いた。
(久しぶりに、レース中に弱気になってしまった……。もっといいタイムを出せていたはず……。逆に言うと、それだけ今日のメリアムさんの走りが力強かったということなのかも知れない……)
メリアムがゴールラインを駆け抜ける気配で、ヴァージンは顔を上げた。それから、落ち着いた足取りでメリアムを出迎えに行った。
「メリアムさん、すごかったです……。なんか、抜き去る直前に後ろから見てて、圧倒されました」
「グランフィールドにそう言われるなんて……、思わなかった。なんか、いつものレース後になっている……」
そう言いながらも、メリアムの目には涙が溜まっていた。ここで流してしまおうかという意思さえ、その目からは感じられた。
「でも、私とグランフィールドにはこれだけの差ができたことを、どんなレースでも負けたら認めなきゃいけないし……、それをもう縮めることもできないと決めてしまうと、とても悲しい……」
その時メリアムの肩に、ヴァージンの汗だくの右手がそっと被さった。
「気持ちは、分かります……。今まで私の前でトラックを去ってきたどのライバルも……、本当は去りたくない、勝負を続けたいんだって気持ちを見せていましたから……」
「そうね……。それが勝負の世界に身を投じた人間の、本能なのかも知れない……」
ここにきて、いよいよメリアムの目からヴァージンの腕に、大粒の雫がしたたり落ちた。熱い涙が、クールダウンを始めているヴァージンの体温を、少しだけ上げた。
メリアムは、涙を流したまま、さらに言葉を続けた。
「グランフィールドにだけ、本当のことを言うわ……。私の成長は、ドーピングの濡れ衣を被せられたときに、終わってた……」
「フラップの……」
「グランフィールドも、一歩間違えれば、ドーピングで全てが変わってたと思う。私だから言えるかもしれないけど、2年間レースに出られないだけで、周りはみんな成長してしまう」
メリアムの涙が、徐々に小さくなっていくのをヴァージンは感じた。いよいよ、メリアムの決心が固まったと、ヴァージンはその時確信した。
「グランフィールド、今まで本当にありがとう。私はもうトラックには戻らないけど……、グランフィールドとの勝負、一生忘れない……」
メリアムはヴァージンの手をそっと振りほどいて、中腰になった。それから手を足まで伸ばすと、「Vモード」を左、そして右と脱ぎ、ヴァージンの目の前にきれいに並べたのだった。
「メリアムさん、素足ですよ……!ストッキングだけでロッカールームまで向かうんですか」
「このシューズは『フィールドファルコン』にかなわないって、グランフィールドが教えてくれたじゃない。だから、このステージを去る私にだって、履いている必要はない」
そう言うと、メリアムはシューズを履かないまま、ダッグアウトへと歩き出した。メリアムの名を叫ぶ多くの声に、彼女は一度手を上げるだけで、決して表情を変えたりはしなかった。
(行ってしまった……)
ヴァージンは、その場に残された「Vモード」を、そっと持ち上げようとした。だが、持ち上げようとしても、彼女の手がその底から伝わってくるパワーを感じ、その力に逆らわなければトラックから引き離すこともできなかった。
少なくとも2ヵ月以上持ったことのない、かつてのギアはあまりにも重かった。
(これが、私が履き続けてきた「Vモード」だったんだ……。メリアムさんが、スピードを意識した新しいシューズができても「Vモード」にこだわり続けてきたのは、この力があったからかもしれない……)
ヴァージンはその首を、無意識のうちに横に振っていた。
(でも、それは同時に、私に「Vモード」を超えるだけの実力があって、メリアムさんにはなかったということになる……。両方とも、私のモデルとして送り出されたシューズ、というのはあるかも知れないけど……、新たな力が出てくると、それも一つの宿命になってしまうのかも知れない)
メリアムが去ったいま、ヴァージンを表彰台の中央から落とすのはローズ姉妹だけと言ってよかった。だが、いつか新たなライバルが出て、そのような宿命にヴァージン自身が立たされるのは間違いない。だが、それでさえも、ヴァージンは楽しんでいるようだった。
(とりあえず、次は10000m、その後は本気のメリナさんが待っている。その時は、今日のようなレースじゃ絶対に勝てない)
ヴァージンが、力強くうなずく。右手で持つ「Vモード」の力が、「フィールドファルコン」へと受け継がれていくのを、そこにいる誰もが感じた。