第60話 最強のシューズを操れるレベル(5)
「まさか、メリアムがこんな時期に引退発表をするとはな……。傍から見ても、まだ走れそうに見えたのだが」
コーチのマゼラウスにも、代理人のメドゥにも、メリアムとの相談事を内緒にしていただけあって、彼女の引退を知ったマゼラウスがヴァージンに驚いたような表情でそのことを告げた。
「私だってショックです。引退のことを直接言われたときに、何と話しかけていいか分からなかったんです」
「なるほど、直接相談を持ち掛けられたのか……。イーストブリッジ大学に入ってから、もう10年近くほぼ同じレースに出続けているものな。お前に話しかけてくるのも、無理はないのかも知れない」
マゼラウスは、ふぅとため息をついた。ヴァージンはそのため息に目線の向きを変えるつもりはなかった。
「それだけ、お前が信頼される人間、いや、尊敬される人間になった証拠だ」
「コーチにそう言われると、ものすごく照れます」
ヴァージンの手が、無意識に髪に振れ、小刻みに撫でる。
「それにしても、メリアムの最後のレースが、今のところお前とほぼ1対1の勝負になりそうだというのが、なかなか奇遇なのかも知れない。勿論、メリアムの引退レースだからと言って、お前は手加減しないだろうな」
「するつもりはありません。むしろ、ワクワクしてます」
「ワクワク……。それは、ヴァージンにとっていつものことじゃないのか」
「いいえ、今回は特に意識しています。『Vモード』のことを。今まで使っていたシューズを私が脱ぎ捨てたいま、もしかしたら『Vモード』が本気を出して、私を引き留めるのかも知れないって、そう思ってるんです」
ヴァージンは、決して足下を見ることをせず、長い間使っていたシューズを頭の中に思い浮かべた。燃え立つような赤は同じでも、見た目のデザインや靴底から繰り出される力は、完全に違っていた。
「面白いことを言うじゃないか、ヴァージンよ」
「気になるんです。私が『Vモード』に見切りをつけ始めてから、インドアで13分台に乗せたじゃないですか」
「たしかに、そういうことがあったな……」
「ひょっとしたら、もっと速く走るために『Vモード』を捨てると知って、ちょっとシューズが本気を出したのかも知れません。でも、私はそれをあまり信じていません」
そこで、ヴァージンはようやく足下を見つめた。今の彼女のスピードにフィットするギアが、そこにはあった。
「タイムを出せるようになったのは、間違いなく私の力のはずです。シューズの性能が上がっているから、『フィールドファルコン』が『Vモード』に負けられないのはもちろんですが、人間同士の勝負として、メリアムさんに負けることもできないと思うんです」
「やはり、最後はそう持っていくか。お前らしいな」
マゼラウスは、ヴァージンを見つめながら軽く笑った。
それからの日々は、ネルスで久しぶりに走る10000mのタイムトライアルも取り入れながらのトレーニングになったこともあって、リングフォレストのレース当日までの日々があっという間に過ぎていった。その間ヴァージンは、エクスパフォーマのトレーニングセンターでメリアムと会うことはなく、トレーニングセンターへと出入りする時に意識して周りを見つめたところで、メリアムの気配すら感じることができなかった。
(でも、最後のレースを選んだ以上、メリアムさんはきっとどこかで私に勝つためにトレーニングしているような気がする。私の知らないところで、最後のスピードアップに取り組んでいるんだ)
夕暮れの空の下、家路を急ぐヴァージンは、メリアムの背中を何度も思い返していた。
リングフォレストでのレース当日、ヴァージンはレースの4時間前にスタジアムに入った。メリアムの引退と同時に、この日ヴァージンが出場することも伝えられたため、いつもより多くのファンがヴァージンに声を掛けていた。ラガシャで13分53秒台を叩き出したことも、ほとんどのファンが知っているようで、彼女に向けて掲げられたボードには、早くも「1352」と書かれたものも出ていたのだった。
(今日は、メリアムさんの引退なのに、もうすっかり私のイベントになってしまっている……。まぁ、メリアムさんに気付かれなければ、それでもいいかも知れない)
ヴァージンは、落ち着いた足取りで選手受付に向かった。普段と同じように、メリアムはまだ会場に到着していなかった。ヴァージンは、ゼッケンを受け取ると、ロッカールームへと急いだ。
(勝負の場所にやってきた。あとは、メリアムさんにどれだけ差をつけるか……)
ロッカールームの柱に目をやりながら、ヴァージンはふと口を動かそうとした。だが、すぐに口を閉ざした。
(メリアムさんに気を使う必要はないはず。でも、あまりにも差をつけてしまったら、メリアムさんがそこで走るのをやめてしまわないか……)
メドゥは、最後のレースでヴァージンに抜かれるまで走り続けた。そして、そこでアスリートとしての人生にピリオドを打った。その光景が、この日もまた繰り返されるかも知れなかった。
(だからこそ、メリアムさんには最後まで全力で走って欲しい。一番すごい時のメリアムさんは、今の私にだって食らいついてしまうくらい、力強く走っていたのだから……)
ヴァージンは、そこでようやく「フィールドファルコン」をバッグから取り出した。ヴァージンがその前に操っていたギアとの勝負に向けて張り切っているのか、彼女はシューズから力強い鼓動を感じた。
メリアムがスタジアムに姿を現したのは、集合時間の1時間前だった。たまたまヴァージンがサブトラックで調整を行っているときに、メリアムの紫色の髪が見え、思わずそこで手の動きを止めたほどだった。
(とりあえず、メリアムさんはレースには参加する。歩いている姿が、何かを覚悟しているかのように見える)
ゆっくりと受付に向かっていくメリアムの足は、まるでこれまで通い慣れた場所をもう一度感じているかのように、力強くアスファルトを踏みしめていた。結果次第ではもう二度と入らなくなる場所――本気で勝負のできるはずの場所――へと、メリアムは入っていった。
「グランフィールド。やっと、待ちに待ったこの時が来たわ」
集合場所に向かっている時に、ヴァージンはメリアムに声を掛けられた。ヴァージンは、小さく息を飲み込みながら、メリアムの表情を見つめる。
「メリアムさん。私だって、今日のこの大事なレースで一緒に走れるのを、素晴らしく感じています」
「そう言ってくれると嬉しい。とりあえず、気持ちは固まっているわ。でも、それは5000mを走りきるまで、決してパフォーマンスに表したくない」
「メリアムさん、そう言うってことは、最後まで本気で走るってことですね」
ヴァージンは落ち着いたトーンでメリアムに尋ねた。数秒の間を置いて、メリアムはヴァージンにうなずいた。
「よく分かってるわね。出会った時からトップアスリートだった、グランフィールドには」
メリアムの低い声に被さるように、スタッフが点呼を取り始めた。そこで、互いの目が無意識のうちに離れた。次に合わせる時には、既にメリアムの運命が決まっていると暗示しているかのようだった。
「On Your Marks……」
「フィールドファルコン」を従えたヴァージンは、シューズのかかとをトラックに乗せる。それから、三つ右隣りにいるメリアムのシューズを見つめる。彼女はこの日もまた、「Vモード」だった。
(たとえ、今日でメリアムさんの運命が決まるとしても、トラックに立つ私は手加減しない)
スターターが号砲を高く上げる。その時は来た。
(よし……!)
号砲の低い音とともに、リングフォレストに集った13人が一斉に走り出す。それからわすか2秒も経たないうちに、メリアムが外側から大きなストライドで走り出すのがヴァージンの目に見えた。
(いつものメリアムさんに戻っている……。もともとメリアムさんは、1500mが中心だっただけに、やっぱり最初から飛ばすスタイルを変えていない……!)
メリナのように、すぐにラップ67.5秒ほどのペースまで上げていかないものの、コーナーを3分の2ほど回ったあたりでメリアムがヴァージンに背中をはっきりと見せ、直線を駆け抜けるときにはメリアムのペースがラップ67.5秒を少し上回るほどになっていた。
(メリアムさんはメリナさん以上に、序盤からハイペースで引き離していく。あとは、どれだけ差をつけられずに、私の得意としているラスト1000mでの勝負に入れるか……)
トラックの底に軽く触れる「フィールドファルコン」からは、早くもメリアムを追いかけるためのパワーが溢れ出ているものの、ヴァージンはこの日も決してペースを上げようとはしなかった。メリナとのレースではラップ68.2秒から少し上げていたが、この日はそこからほとんどペースを上げないまま、2周、3周とメリアムの様子を伺うことにした。
(メリアムさんは、今日のレースを決して諦めてなんかない……。その走りが、はっきりとそう言っている!)
ヴァージンの目に、今もなお本気の「Vモード」が飛び込み、彼女はそれに向けてやや目を細めた。