第60話 最強のシューズを操れるレベル(4)
メリアムのトレーニング時間まで1時間ほどあることを確認して、ヴァージンはメリアムの手を握りしめながらトレーニングセンター脇の公園に向かった。そこに辿り着くまでには、メリアムの顔を伝っていた涙は流れきっており、彼女自身の悩みを告げようと口が小さく動いている様子さえ、ヴァージンには見えたのだった。
公園のベンチに座ると、メリアムはヴァージンに首を向けた。そして、彼女にゆっくりと告げた。
「今の女子5000m、雑誌で取り上げられるような有名選手と言ったら、誰が思いつく?」
「メリアムさんだって、雑誌に載りますよ。私と同じくらいに」
「昔はそうだったかも知れないけど、実際に『ワールド・ウィメンズ・アスリート』を数えたら、グランフィールドと10倍くらい、画像の数で差が付いていた……。おまけに、私の画像はほとんど最小サイズ」
このところ、アメジスタでの一件もあって、ヴァージンは「ワールド・ウィメンズ・アスリート」を見忘れることが多かったものの、思い返せばメリアムが言う通りだった。
「今の女子5000mは、三強と言っていい。ローズ姉妹、それに世界記録を持ってるグランフィールド。その中に誰も割り込めないような感じになっているような気がする」
「メリアムさんだって、表彰台に上がることがあるじゃないですか」
「行ってそこまでよ。どこに行ってもその三人の誰かがいて、その真ん中に立てない。いや、レース中は立ちたいと思ってるけど、ゴールの直前で諦めるしかなくなる」
ヴァージンは、メリアムの右腕がかすかに震えるのを感じた。その右腕の先を見ると、何かを叩きたいかのような握りこぶしができており、そこから怒りとも憎しみとも違うやりきれない気持ちがあふれ出ているように思えた。
「最後まで食らいつけるだけ、メリアムさんはすごい選手だと思いますよ」
「私は、すごい選手。でも、すごい選手止まり。13分台を出せないと、もう勝負にならない」
そう言うと、メリアムはヴァージンをやや鋭い目で見つめた。言おうとしていたことの8割以上を既に吐き出したかのように、メリアムの声は普段のトーンを取り戻していた。
「私は……、一度だけ13分台を出せた。トレーニングで。でも、それだけだった。本番でバンバン13分台を出せてしまうグランフィールドが、あまりにも羨ましくなった……。メリナだってそう……。みんな、私を置いて行ってしまった……」
「13分台を出せなければ優勝できないって、もしかしてメリアムさんはそう思ってますか」
「勿論。もうグランフィールドが53秒を出せる時代に、今更14分台で決着がつくなんてほとんどない」
そう言うとメリアムは、「フィールドファルコン」を履いたままのヴァージンの足下をもう一度見つめた。
「この現実を見せつけられて、グランフィールドの新しいシューズでしょ。もう、そのレベルに達した選手しか履いちゃいけないように思えてしかなかった……。少なくとも、『フィールドファルコン』が出たとき、もう私の時代は終わったなって、思うしかなかった……」
「そう思わないでください……。そう悲観的になったら、もっと力出せなくなります……」
ヴァージンは、励ますような声でメリアムに告げた。だが、それでもメリアムは首を横に振るだけだった。
「得意だった1500mでも、今じゃほとんど表彰台を狙えない。それに、5000mを走っているときのグランフィールドに1500mで負けたときは、もう1500mでも無理なんじゃないかと思ったぐらい」
(そう言えば、去年の年末にそういうことがあったような気がする……)
3500mも長い距離を走った相手に負けることは、メリアムにとってこの上ない屈辱だったことを、その時になってヴァージンは思い知った。冷静に考えれば、あってはならない展開のはずだった。だが、このような決着を前にしたとき、どれだけ二人の実力に差ができているかをヴァージンも自覚せざるを得なかった。
ヴァージンがあの日の「1500mレース」を思い出す間、二人のちょうど真ん中を冷たい風が吹き抜けていった。メリアムの時代が遠くに行ってしまうように感じられるような、やや強い風だった。
その風の中で、凋落し続けてしまった一人のアスリートが、そっと口を開いた。
「最後に、グランフィールドと決着をつけたい。グランフィールドが、リングフォレストのレースに出ると聞いて、この日しかないって心に決めた」
「最後に……って、そんな大げさなこと……」
「私は本気よ。もし私が『Vモード』を履いて、『フィールドファルコン』のグランフィールドに勝てなかったら、私はレースから引退する。勿論、世界競技会まで待ちはしない。その日で、競技生活は終わりよ」
「引退……?」
ヴァージンは、突然告げられた言葉に息を飲み込むしかなかった。オルブライトのように、引退に向けて長い期間かけてピークまで高めるようなこともしない。メリアムは、一発勝負に賭けたのだった。
「そう。引退よ。グランフィールドにとっては、ライバルが一人減って辛いかも知れないけれど、このレースは私がグランフィールドのライバルでいられるかどうか、それだけを見るもの。逆に、私が勝ったら引退しない」
「そんな簡単に、引退を決められるメリアムさんは……、うっ……」
ヴァージンはそこまで言葉にして、それ以上声にならなかった。メリアムの決意に対してどのように答えていいのかも分からなかった。
「近いうちに、私はメディアにそのことを伝える。このような現実を見せられたら、私の決意だって固いわ」
(私が、メリアムさんを怒らせた……。いや、私に怒ってるわけじゃない……。メリアムさんは、今のメリアムさん自身が時代について行けないことに苦しんでいるのかも知れない……)
家に向かってゆっくりと歩くヴァージンは、メリアムに告げられた「悩み」を一つ一つ思い返した。メリアムの抱いていた恐怖が、女子5000mの現実に向けられていたことだけはすぐに分かったものの、だからと言ってあのような引退を決めてしまうほどのメリアムを動かすだけの言葉を掛けられなかった。
(でも、メドゥさんの時もそうだった、私が引き留めようとしても、硬い意思を動かすことはできなかった……)
これまでヴァージンは、何人ものライバルがトラックを去る瞬間を目の当たりにしてきた。そこに居合わせたとき、ヴァージンは必ずと言っていいほど引き留めようとした。だが、ヴァージンが何を言っても、引退に向かって進み始めたライバルたちの体の向きを変えられない。
(私の言葉は無力で……、逆に言うとそれだけアスリートの意思は最後まで強いということ……)
ヴァージンは、いつの間にか家の前の通りを歩いていた。この時には、メリアムの見せた辛そうな表情を思い浮かべることもなく、代わりにおそらく家で待っているはずのアルデモードの表情が浮かんできた。
(そう言えばアルは……、今の自分の現実を跳ね返すだけの意思……、あって欲しいな……)
それからまた数日が経った。この日は午後からのトレーニングだったため、珍しくアルデモードのほうが先に
家を出た。ヴァージンがトレーニングウェアを外に干し、リビングのソファに腰掛けた。そこで無意識のうちにテレビのリモコンに手が伸びた。
――ソニア・メリアム選手、突然の引退宣言!加速し続ける女子5000mに嫌気が差したか
スタジオでコメンテーターがああでもないこうでもない言う番組の右上に掲げられていた字幕には、はっきりとそう書かれていた。すぐにメリアムの記者会見の要旨がテレビ画面に映されたが、「13分台を出せないと勝てない」だけが太字になって強調され、その言葉の脇にはメリナと、そしてヴァージンの顔写真が載っていた。
その中で、司会の男性が、さぞかし自分で見たかのように言ったのだった。
――どうやら、この決断をする前に、このヴァージン・グランフィールド選手に相談したみたいなんですよね。
(相談は受けたけど、あの時にはもう、メリアムさんは引退を決めていたじゃない……。だから私を相談相手に選んだはずなのに、なんか伝わり方が間違っているような気がする……)
ヴァージンは、テレビに向かってため息をつき、すぐにチャンネルを変えた。ちょうどクラシックの演奏が流れており、それをBGMにしながら彼女はパソコンを開いた。
(そんなことはないって声がいっぱいだといいけど……)
メールの画面が立ち上がると、そこには件名からはっきりと読み取れるほど、ヴァージンを擁護する声が大半を占めていた。中には、「『Vモード』と『フィールドファルコン』の勝負、ものすごく期待しています」といったような、早くも次のレースを楽しみにしているようなメールもあった。
(よし、大丈夫。言われもない罪を着せられずに済みそうな気がする)
ヴァージンは、パソコンを閉じ、クローゼットの中から新しい「フィールドファルコン」を取り出して、この日も足取り軽くトレーニングに向かった。