第7話 潰えかけたヴァージンの夢(2)
リングフォレストでの大会で表彰台を逃した次の日、ヴァージンとマゼラウスの姿は早くもセントリック・アカデミーのトラックの上にあった。アカデミー生の多くは、大会の翌日に本格的なトレーニングをすることはまずないが、この日はヴァージン自身の希望で大会前とほぼ同じメニューで、異例とも言える本格的なトレーニングをしていたのだった。
だが、17歳の若いアスリートの体では、それはやや辛いメニューだった。10分のインターバルを置いて、5000mを2回走りきったところで、ヴァージンはトラックの上で座り込んでしまった。
「疲れました……」
「だろうな……。いつもなら、2回目のほうが速い君が、15分割ったもんな」
「はい……」
ヴァージンは、全身の力を使ってため息をついた後、クールダウンのしぐさだけして、呆然と空を見上げた。
「ヴァージン。とりあえず、午後は軽めにしておこう。また3時にな」
「分かりました」
そう言うと、マゼラウスは一度うなずいてコーチ控室の方に戻っていく。疲れ切ったヴァージンも、やや遅れてロッカールームの方に戻っていった。
だが、ヴァージンが建物の中に入ろうとしたその時、ヴァージンの耳を貫くような大きな怒鳴り声が響いた。
「いったいどれくらい待たせたら気が済むんだっ!」
「はい……。彼女は着実に……」
「着実にだとぉ!表彰台、表彰台言って、やっぱり、4位止まりじゃないか!」
(私のこと……?)
コーチ控室の外までまる聞こえの声は、おそらくセントリック・アカデミーのCEO、リッチ・ウィナーの声だ。アムスブルグでの大会の後も聞いてしまったあの声だ。ヴァージンは、ロッカールームに入るのも忘れ、その場に立ち竦んだ。
マゼラウスとヴァージンに浴びせられる罵声は、まだ続く。
「だいぶ前から言ってるけどな……、マゼラウス!君は、アカデミーに背信行為をしてるんだからな!分かってるんだろうな!」
「はい……。私は、それを承知で……、彼女を……」
「承知でぇ?承知してるんなら、どうして早く、こちらが期待してる結果を残さない!それか、早くヴァージンを諦めないんだ!」
(うそ……)
これまで、マゼラウスに怒鳴る時に、ウィナーは個人名を一切言わなかった。それをはっきりと言うことは、17歳のヴァージンにもどういうことか分かっていた。
彼女の頭の中は、気が付くと真っ白になっていた。だが、それでもウィナーの声は止まらない。
「だいたい、君があのとき、こいつをヘッドハンティングしろと言った私の意向を無視して、一目見ただけでヴァージンをアカデミーに入れたのが間違いなんだ!……もう、待てないからな!」
「分かりました……」
(どうしよう……)
世界競技会で自己最高のタイムを出すと誓った、前日のヴァージンはもうどこにもいなかった。ロッカールームの方を向けていた足は竦み、ヴァージンの体の震えは止まらなかった。
(コーチは、私に期待してアカデミーに誘ってくれた……。けれど、それはアカデミーの意思じゃなかった……)
最近では珍しく、無意識のうちにヴァージンの瞳に大粒の涙が溢れていた。やがてそれは、ヴァージンの黒いシューズの上へと力なく落ちていった。
(私じゃなくて……、本当は誰をアカデミー生にしようとしてたんだろう……)
ヴァージンは、ぼんやりとそれを考えた。このタイミングで言うということは、リングフォレストの大会で、自分よりも先にゴールした3人の誰かである可能性が極めて高い。それも、メドゥではなく……。
「ヴァージン、そこでなに突っ立ってるの」
「あ……」
ヴァージンは、くしゃくしゃの表情のまま後ろから浴びせられた声に鋭く反応した。そこには、グラティシモが立っていた。昨日の大会では14分31秒30と、メドゥに約4秒の差をつけて勝利した、ここ最近は自己ベスト更新を伺うまで調子を戻している。
グラティシモは、軽いトレーニングをしに来ただけのようで、少しも疲れている様子ではなかった。彼女は、ヴァージンと目が合うと、低い口調でこう言った。
「言われてるじゃない、本当のこと」
「この中で……、CEOが言ってることですか……」
「そう」
グラティシモが、冷ややかな笑みを言うのを見て、ヴァージンは、再び足の力が抜けてきたような気がした。これまで一度も勝てたことのないライバルに、目だけは細めるものの、そこから先どう言葉を伝えればいいのか、全く分からなくない。
「ヴァージンがここに来て早々、コーチに怒られて帰された日があるでしょ」
「ありました……。グラティシモさんのコーチが、アメジスタの選手は、とか言ってた日ですよね」
「そう。その日、私はフェルナンドから聞いたのよ。マゼラウスがアカデミーの経営陣全員の反対を押し切ってヴァージンをアカデミー生にしたということを……」
「全員の反対……」
ヴァージンは、ウィナーがあれだけ激怒している段階で、その可能性は薄々気付いていた。そして、息を飲み込みながら、次の言葉を待った。
「CEOは、ヴァージンじゃなくて、エリシア・バルーナをアカデミー生にしたかったのよ。で、マゼラウスのもとで成長させたかったの」
(うそだ……)
ヴァージンは、咄嗟にグラティシモから視線を背け、全身を震わせた。ついに知ってしまった真実に、ライバルとは言え、否定することも、笑って返すこともできなかった。ただ、激しく首を振って、抵抗することしか、今のヴァージンにはできなかった。
(私をこのアカデミーに入れることを、面白く思わない人がこんなにいるなんて……)
世界トップクラスのスポーツアカデミーの、輝くような床が、この日に限って泣いていた。何かを思うたびに、ヴァージンの額から涙がこぼれ落ちていった。
「なに泣いてるのよ、ヴァージン」
「あ……」
ヴァージンが気付くと、目の前でグラティシモが腰に手を当てて立っていた。グラティシモも先程までの真面目な表情からは一変、落ち着いた表情に戻っていた。
「つい不用意なこと言っちゃったかもしれない……」
「全然……、そうは思ってません……」
「思ってるでしょ。ヴァージンがここにいること自体、否定されているのに」
「それは……」
ヴァージンは、肩をすぼめながらグラティシモに言い返した。だが、グラティシモに見せる表情は正直だった。
「私だって、そう言われたらガックリとくると思う。逆に、そうじゃなかったら、もうアスリートとしての意識を失っているか、よっぽど精神的に強い人間」
「そうですよね……」
ヴァージンの視界は、まだくしゃくしゃのままだった。顔だけはグラティシモのほうに戻したが、力強く前に踏み出さなければならないはずの足が、まだ言うことを聞かない。
「だから、気持ちは分かる。でも、ヴァージン、これだけは忘れないで」
そう言うと、グラティシモは右の人差し指を鋭く立てて、一息ついて言った。
「あの時のヴァージンの魅力は、少なくともエリシア・バルーナを超えてるってこと。だから、自分を見失わないで」
「どういう……、ことでしょうか……」
「それは、ヴァージンが一番分かってるじゃない」
そう言うと、グラティシモは、ヴァージンからスッと身を引いて、ゆっくりとロッカールームに向けて歩き出した。そして、ヴァージンの目がロッカールームへと続く通路に向けられた頃を見計らって、グラティシモは勢いよくヴァージンのほうを振り向いた。
「あ、ヴァージン。私はヴァージンがこの先どうなろうと、何も気にしないから」
「はい……」
「助けてくれるって、思っちゃダメよ。勝負の世界、少なくとも私は私の走りをするだけなのよ」
そこまで言って、ついにグラティシモはヴァージンの視界から姿を消えてしまった。
ロビーには、再びヴァージンだけが取り残された。
その日、ヴァージンはマゼラウスに申し出て、午後のトレーニングを休むことにした。アカデミーに入って9ヵ月、ヴァージンから早退を申し出たのは初めてだった。
(何やってるんだろう、私……)
ヴァージンは、ワンルームマンションに入り、すぐに鍵を閉じた。まだ、部屋の中に眩しい日が差し込んでくる中、ヴァージンはベッドに腰掛けたまま動かなくなってしまった。
(私じゃなくて、バルーナさん……。アメジスタじゃなくて、アドモンド……)
時折、ヴァージンの頭の中でフラッシュバックする、前日の大会でのバルーナのスパート。後半の伸びを武器にしてきたヴァージンを振り切って、表彰台へと上り詰めた、今やヴァージンよりも格上のアスリートだった。
だが、その差はほんの数秒だった。
(……打ち勝てばいいじゃない!みんなを見返してやればいいじゃない!)
ヴァージンの脳裏に、輝く閃光のような刺激が走った。セントリックに入って、バルーナ以上に成長していると認められれば、ヴァージンの立場がここまで失われるようなことはない。
「よし!」
ヴァージンは、その右手をグッと握りしめた。