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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
最速女王の脚 さらに加速する
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第60話 最強のシューズを操れるレベル(3)

 オメガに戻って、マゼラウスとの最初のトレーニングの日、ヴァージンが室内練習場から出てくるなりマゼラウスは彼女を手招きした。それまで「フィールドファルコン」を物珍しそうに見ることが多かったマゼラウスの表情は、彼女のレースを一つ経てから落ち着きを取り戻したようだった。

「ヴァージンよ、この前のラガシャ選手権の走りを、VTRでもう一度見たんだが、やはりお前はまだまだ力を持て余しているように見える。シューズがもともと推進力を持ったものだから仕方ないのかも知れないが、お前の本気の走りを見せれば、もう少しペースを上げられるだろう。特に、最後のスパートだ」

「はい」

 ヴァージンは、4000mに至るまでの「ゆったりとした」ペースのことを言われているものだと、最後の一言まで気付かなかった。うなずいた後に、彼女は口を少し開けたまま止まった。

(たしか、あの時はメリナさんの動きが見えないくらいにスピードを出していたような気がする……)

 ヴァージンの脳裏で、数日前のメリナとの「戦い」がはっきりと思い出される。だが、その1周で手加減した記憶が、彼女には何一つなかった。

「たしかに、『フィールドファルコン』の素晴らしい推進力はあった。だが、それに任せてしまったのか、メリナに追いついてからもう一段ギアを上げられなかったように、私には見えた」

「言われてみれば、そうですね……。記録更新も間違いないと、その時に思ってしまいました」

 マゼラウスの指摘に、ヴァージンは小さくうなずいた。世界記録を含めて、勝負している時間があまりにも短かったと、その時になってヴァージンははっきりと確信したのだった。

「だからこそ、昨日の夜にメドゥとも相談したのだが、お前に『フィールドファルコン』を完璧に使いこなせるまでにならないといけない。そう思った。レースを終えてみて、まだ走りたかったよな」

「はい。スパートはどれだけもつか分かりませんでしたが、もう少し走っていたかったです」

「なるほどな。なら、決まりだ。5月のネルス10000mまでの間に、リングフォレストでの5000mにエントリーして、世界記録をもう一つ叩き出して欲しい。あとは、できればスパートを失敗しなかった時のメリナと、もう一度本気の勝負をして欲しい。私の希望だがな」

「メリナさんとは、もう一度戦いたいです。レースの後、お互いそう誓いました」

 ヴァージンは、マゼラウスに小さくうなずきながら、やや大きな声で返した。

「今年は、世界競技会までたくさんの本番がある。どれが重要なレースか考えながら数ヵ月乗り切れ」

「分かりました」

 マゼラウスにやや強く肩を叩かれたヴァージンは、先程とは比べ物にならないほど大きくうなずき、送り出されるようにトラックでのウォーミングアップへと駆けだした。その日の彼女が、トレーニング中の最高タイムで5000mのタイムトライアルを終えたことは言うまでもなかった。


「今年は、結構レースがあるんだね」

 スケジュール帳にリングフォレストの予定を書き込んでいるところを、アルデモードに真横から見られたような気配を、ヴァージンは即座に感じた。スケジュール帳に影ができてようやく気付くと、顔を上げたヴァージンの前でアルデモードがうらやましそうな目で見つめていた。

「アルも、あと何試合か残ってるでしょ。ベンチ入りのチャンスは、頑張っていれば必ずあるはず」

「今のところは、それを信じてるよ」

 ヴァージンの前で、全くシュートを決められなかったあの日から、アルデモードは合同トレーニングのある日にしかトレーニングウェアで外に出なくなった。遠征はおろか、グラスベスのホームゲームの時間帯にも家におり、これまでとは明らかに外出機会が減っていることを、ヴァージンは薄々感じていた。

「とりあえず、今の僕は天に祈るだけ。監督が、僕をもう一度試合に出してくれること。そして、グラスベスのオーナーが、来季僕との契約を結んでくれること。夏が近づくと、みんな考えてることなんだけどね」

「それは、アルだからきっと大丈夫。アメジスタの時から、私がその実力を知ってるんだから!」

 ヴァージンは、アルデモードを励ますようにそう告げた。だが、彼はその言葉に小さくうなずくだけだった。

(アル……、とうとう契約のことを口にするようになった……。本当にグラスベスを追い出されそうな気がするのは、なんか間違ってないのかも知れない……)

 アルデモードが、ため息をつきながらベッドルームに消えていくのを見て、ヴァージンは常勝チーム・グラスベスのユニフォームを着た彼が遠くにかすんでいくように思えてならなかった。


 それから数日後、トレーニングを終えたヴァージンは、「フィールドファルコン」を履いたままベンチに腰掛け、空を眺めていた。リングフォレストのスタジアムを時折脳裏に浮かべながら、彼女は春の澄み切った空に重ねていた。

 そこに再び、そう遠くない過去に感じた視線を、ヴァージンはもう一度感じた。

「メリアムさん……。また会ってしまいましたね……」

「またグランフィールドに会ったというか、またその足下が気になってしまったというか……」

 メリアムの声に、ヴァージンは視線を空から彼女の目に戻した。メリアムの表情は、先日以上に強張っており、まるでレースに挑む直前に見せるような形相になっていた。

「やっぱり、私の『フィールドファルコン』が気になって仕方ないんですか……」

「そうね。気になるというか……、それだけで私とグランフィールドの差を感じてしまっている」

 メリアムの足下は、「Vモード」に包まれていた。一度間近で新しいシューズを見たにもかかわらず、メリアムは契約を結んでいるスポーツメーカーの新アイテムを手に取ろうとしなかったのだ。

 少しの間の沈黙があって、メリアムはヴァージンに静かに告げた。

「言っちゃ悪いけど……、なんかグランフィールドが別次元の世界に行ってしまったような気がする……」

「別次元の世界……、ですか……。私たちが走るところは、同じトラックじゃないですか」

「同じトラックだけど、シューズ一つで何もかも変わるって言うじゃない。この前、グローバルキャスで中継していたグランフィールドの走り、ものすごく強そうに見えたもの」

 そう言って、メリアムはヴァージンの足下を指差して、小さくため息をついた。

「メリアムさんだって、序盤から飛ばすタイプだからこのシューズが合うような気がします。いくら速く走ったって疲れることないし、むしろ5000mを通じてどんな勝負もできそうな気がします。魔法のシューズです」

 そう言って、ヴァージンはその場で「フィールドファルコン」を脱ぎ、メリアムにそれを手渡そうとした。だが、メリアムは腕を前で組んだまま、首をかすかに横に振った。

「グランフィールドが勧めてくれるのはありがたいんだけど……、今の私はそれを履けるようなレベルじゃない」


(それを履けるようなレベルじゃない……)

 メリアムの一言が、脳裏にはっきりと突き刺さるのをヴァージンは感じていた。イーストブリッジ大学に入ったときから何度となく繰り広げられてきたメリアムとのレースの記憶を、ヴァージンは素早く思い出した。だが、どれも遠い昔に見えた景色の残像でしかなかった。

(メリアムさんは、もしかしたら今の自分に相当苦しんでいるのかも知れない……)

 ヴァージンは、目線をわずかの間下に向けて、それからメリアムにゆっくりと戻していく。

「メリアムさんは、どうしてそんなに悩んでいるんですか。というより、何か言いたくて仕方ないんじゃないですか」

「グランフィールド……。言いたくて仕方ないんじゃない……。みんなが少しずつ成長するのを、受け入れたくない自分がここに立っているような気がしてならない……」

 そう言うと、メリアムはかすかに涙を浮かべて、両手を当てたままベンチに腰掛けた。目の前では男子の短距離走者が全力でトラックを駆け抜けていくところだが、少なくともメリアムの耳には全く聞こえていないようにヴァージンには思えた。

「それだって、悩みじゃないですか。今まで数多くのレースを戦い抜いたメリアムさんの」

 ヴァージンの声に、メリアムは全く顔を上げない。だが、その手は小刻みに震えていた。

「たとえメリアムさんでも、悩む時は悩んでいいと思うんです。それで、その先が開けるのであれば。もし開けないのなら、悩みなんて忘れてください」

 ヴァージンは、メリアムに向けて小さくうなずいた。その時、メリアムが顔を上げ、涙いっぱいの顔を浮かべながらヴァージンに告げた。

「そう言ってくれるなら、私の悩みを……ここで相談しようかな。グランフィールドに」

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