第60話 最強のシューズを操れるレベル(2)
女子5000m、13分台の自己ベストを持つヴァージンとメリナは、集合場所からほとんど目を合わせることなくスタート地点でその時を待った。メリナのスパートに二度も追いつけなかったヴァージンが、珍しくメリナよりも外側でスタートを待つ。定位置を奪われたことさえ、ヴァージンの闘争心を燃え上がらせた。
「On Your Marks……」
スターターの低い声とともに、ラガシャのスタジアムに集まった14人がスタートラインの前に足を進める。その時、ようやくヴァージンとメリナは同時にお互いの目を見つめた。
(私は、メリナさんより再び前に出るために、ここまで速くなった。今日の私は、負ける気がしない)
足下で「フィールドファルコン」が、今にも飛び立ちたそうに呼吸している。焦る気持ちを抑え、ヴァージンはトラックを見つめながら軽く息をついた。
スターターの号砲が上がり、スタジアム全体に重い音が響いた。その瞬間、メリナがトラックの内側から一気にその足を叩きつけ、あっという間にラップ67.5秒のペースまで上げていった。一方のヴァージンは、これまでメリナが何度となく試してきた、外側から真横に食らいつくようなことはせず、すぐにメリナの後ろに付いた。世界競技会で敗れてから、ヴァージンは幾度となく走り方を変えてきたが、ラップ68.2秒のペースが全身の力をフルに出せることを改めて見出した。そして、それは携えるギアを「Vモード」から「フィールドファルコン」を変えても同じで、両者の差はラスト1000mに残されたパワーに絞られていた。
(でも、メリナさんがいつもの67.5秒ペースで走っている以上、少しだけ冒険してもいいのかも知れない……。まだ私は、「フィールドファルコン」で試行錯誤をしている段階なのだから……)
ヴァージンは、シューズの底を軽くトラックにつけた。浮き上がるような次の一歩は、これまでよりも速いペースで着地したがっている。その衝動を感じ、ヴァージンはラップ68.2秒からほんのわずか――68秒には届かないほどだが、体でははっきりと差を感じることのできるほどに――スピードを上げていった。
(なんだろう。初めてレーシング用を履いているけど、勝負したいという意思を感じる……。これが、ヒルトップさんの言っていた「戦闘力」なのかも知れない。間違いなく、「Vモード」とは異質のパワーを感じる)
序盤の3周で10mほどつけられた差が、ヴァージンがペースを上げてからそれほど広がっていないように、彼女の目には感じられた。メリナが先頭で繰り出しているラップ67.5秒のペースは、メリナにとって全く苦痛であるかのように見えない。それでも、これまでの二度の敗北とは違い、今のヴァージンにはいつでもメリナに勝負を挑めるような自信さえあった。
(さすがに、今回は最後の1000mからペースを上げよう。メリナさんも、きっとそこからペースを上げるはず)
それでも、ラップタイムの差がそのまま積み重なり、2000mの手前でメリナとヴァージンの差は15mの差に広がっていた。二人のペースは、1000m付近から全く変わるような様相を見せなかった。
次のコーナーを、ヴァージンは軽々と曲がっていった。すると、これまでヴァージンの目に見えていた、背の高いメリナの背中がわずかにその向きを変えた。同時に、ヴァージンの目がメリナの右目をかすかに捕らえた。
(メリナさんが、この場所で振り向いた……!)
1秒にも満たない、メリナの瞳。その表情までは読み取れなかった上に、走りも決して苦しそうではないものの、これまでとは少しだけ違うヴァージンの追撃に対しメリナが焦りを感じていることを、少なくともヴァージンは察していた。あるいは、これから見せようとする異次元のトップスピードをメリナが予感したか。少なくとも、これまでほとんど2000m地点で振り向くことのなかったライバルの、わずかながらの心境の変化だった。
(メリナさんは……、少なくとも今日までは私の本気のスパートを知ってるわけがない……)
それからの2000mは、あっという間に過ぎていく。まだほとんどパワーを使っていない足下の翼が、ペースアップを今か今かと待ち望んでいる。いや、次の一歩を繰り出す右足全体が、メリナを抜き去るための不思議な力を感じていた。
3800m。メリナとの差は30mほどに広がっていた。ライン脇の記録計が、10分47秒を光らせているのを、ヴァージンは見た。これまで意識しても通過が難しかった、4000mのタイム11分22秒を、「フィールドファルコン」なら軽くクリアしそうだ。しかも、これからラップ57秒をはるかに上回ろうとするトップスピードを見せつける意思が、ヴァージンにはあった。
最速女王の挑むべき二つの相手をあっさりと打ち砕くのは、何が起こるか分からない場であるにも関わらず、今の彼女には時間の問題であるかのように思えた。
(よし……!)
4000mの少し手前から、ヴァージンは「フィールドファルコン」の底で力強くトラックを蹴り上げ、一気にペースを上げた。ほぼ同時に、前を行くメリナも、ラップ67.5秒から明らかにペースを上げている。
(メリナさんは、ラップ64秒から65秒くらい。最初の200mで私が意識するペースとほぼ同じ!)
ヴァージンがメリナにつけられた30m強の差は、じりじりとしか縮まらない。だが、ギアを1段上げたにも関わらず、ヴァージンは全く疲れを感じない。むしろ、シューズの底をトラックにつけると同時に、足全体が軽々と前に飛び出していくような、まるでバネのような感覚だけを感じていた。
(メリナさんが次にペースを上げる前に、一気に勝負を挑みたい。メリナさんに勝つことは、今の私の最低限の目標のはず……!)
4200mのラインを駆け抜ける直前に、ヴァージンはさらにペースを上げる。その前の200mですらそのペースがゆったりと感じていたヴァージンも、ここにきて風を切るようなスピードを感じた。
(ラップ61秒……。このペースで400m走っても、私はまだペースを上げられるはず……!)
4200mで一気に加速するのは、「フィールドファルコン」をトレーニングで操るようになってから何度も繰り返している。最後の400mの加速が不完全燃焼に終わることは、ほぼなかった。
かたや、メリナはラップ64秒台のペースから上げられずにいる。メリナが再びヴァージンに振り向いたとき、その目がまるで血走っているかのような形相を見せたものの、そのメリナに一気に迫るヴァージンには恐れることなど何もなかった。4200mで25mちょっとあった差が、ラスト1周の鐘が近づく直線に差し掛かったときには10mに満たないほどに縮まっていた。
メリナが、最後の1周のラインを越える直前、少しだけペースを上げる。だが、昨年ヴァージンが目の前で見せつけられたような力強いスパートには、ほど遠く感じられた。それを目で確かめてから、ヴァージンは「フィールドファルコン」の底を力強くトラックを叩きつけ、両足の意思のままにトップスピードまで上げていく。
ヴァージンの体は、トレーニングですら感じたことのないようなスピードを感じた。
(これが、「フィールドファルコン」の本気……。ライバル、そして己の記録と戦うためにトラックを駆け抜ける、力強い翼……!)
コーナーを曲がり切ったところで、ヴァージンがメリナの背中を捕らえ、軽く外側に足を動かしてからメリナをあっさりと抜き去っていく。もはや、メリナの横顔すら見ることができないほど、このレースの最大の「宿敵」を彼女の後ろに流していく。
それでも、ひとたび本気で走ることを決めた「フィールドファルコン」は、そのスピードを緩めない。世界記録という目に見えない相手すら、異次元のスパートを手に入れたヴァージンははっきりと捕らえていた。
(間違いなく、世界記録を出したときの私のスピードは、上回っている……!あとは、それを何秒縮められるかの世界でしか、もうこのレースにはない!)
13分56秒19という、公式のワールドレコード。それが、あっさりと破られようとしている。最後の直線に挑むヴァージンと記録計の文字を交互に見つめるスタンドが、新しいスピードを手にした彼女に向かって歓声を送る。その中で、トップスピードのまま最速女王がゴールラインを駆け抜けた。
13分53秒28 WR
(53秒……!初めて見るタイム……。本気で走ったら、このタイムを私は出せる)
久しぶりにメリナに打ち勝ったこと、そしてアウトドアで世界記録を3秒近くも縮められたこと。その原動力となった「フィールドファルコン」を、ヴァージンは記録計に手を掛ける前にその目で見つめた。彼女の息こそあがっているものの、そのシューズには今にも再び走り出してしまいそうなほどパワーが残っていた。
記録計に手を掛け、カメラマンに1枚画像を撮られてから、ようやくメリナが疲れ切った表情でヴァージンの肩を抱いた。最後失速したメリナのタイムは14分01秒73と、最後の1周だけを考えてもヴァージンに圧倒された形になった。
「グランフィールドのトップスピードには、まだ追いつけなかった……」
「メリナさん。私だって、世界競技会からずっとスピードアップに取り組んできました。メリナさんという意識すべき存在がいるからこそ、私は新しいスピードを手に入れたんです」
ヴァージンは、そう言ってメリナを抱きしめた。だが、ヴァージンがメリナの背を三回叩いた後、メリナの顔がかすかに動き、ヴァージンを悔しそうな目で見つめた。
「ただ、今日の私には失敗があった。グランフィールドの成長を、無駄に意識したこと。4200m過ぎで恐怖を覚えて、気持ちが早まってしまったような気がする……」
(たしかに……)
このところ、メリナのスパートはじわじわとペースを上げることが多かったものの、この日のメリナは狂ったようにペースアップに挑んでいた。最後の1周で十分にスピードを上げられず、彼女の自己ベストを考えても本気のメリナからは程遠かった。
「次はグランフィールドに負けない。あなたが私を意識したように、私はあなたを意識し続ける」
「私もです」
ヴァージンがそう言うと、メリナの表情が少しだけ緩んだ。それからメリナはダッグアウトに向かい、疲れ切った表情でコーチと話していた。それを横目で見ながら、ヴァージンは静かに笑った。
(メリナさんは、しばらく私に追いつけない。「フィールドファルコン」の、前に出ようとする力があまりにも強すぎるんだもの)
ヴァージンは、前かがみになり、シューズの先を人差し指で触れた。初めての勝負を終えた「翼」を癒すかのように。