第60話 最強のシューズを操れるレベル(1)
エクスパフォーマのトレーニングセンター。もう何年も走り慣れたトラックの上を、「フィールドファルコン」の軌跡が軽々と駆け抜けていく。ヴァージンは、5000mタイムトライアルの最後の1000mに向けて、スパートを始めていた。
(踏み出そうとしている力が、ここまで100%シューズに伝わっているような気がする……。走ってて全く足が苦しくならないし、むしろ4000mより手前でもスピードを上げそうになってる……)
少しずつペースを上げていくヴァージンは、これまで「Vモード」でやっとだったスピードを、全身ではっきりと感じていた。4600mを駆け抜ける直前には、早くも体感的にラップ57秒のペースに到達していた。
(ここから、私の脚がどこまで速くトラックを叩きつけられるか……。あとは、自分の意思次第……!)
「フィールドファルコン」を操る右足で、素早くトラックを踏みしめ、そこからあふれ出るパワーで彼女はさらにペースを上げた。「Vモード」なら悲鳴を上げるようなハイペースも、スピードに挑むためのこのギアの前では力が余っていると言っても過言ではなかった。
体でははっきりとラップ55秒ほどのスピードを感じ、5000mのゴールを一気に駆け抜けた。
「13分57秒!その走りで、このタイムはすごいじゃないか」
「57秒……。逆に、思っていたタイムよりも少し遅いように思えます」
マゼラウスが軽く笑いながら近づく中、ヴァージンは小さく首を横に振った。プロモーションイベントの前から何度か新しいギアで5000mのタイムトライアルを繰り返しているが、その中では最も悪いものだった。逆に言えば、「最も悪い状態で」13分台なので、「その走りで」と言うマゼラウスの言葉に、彼女はすぐにうなずいた。
「コーチ、最後の1周はどれくらいでしたか」
「そうだな、56秒の後半だったな……。4600mを抜けたときペースを上げたが、そこからペースを崩さないようにして、少し走りに余裕を見せたように思える」
「たしかに……。そのまま突っ走れそうだと思って、ペースをキープしていたような気がします。でも、それがコーチには余裕の走りに見えたんですね」
「そういうことだ」
マゼラウスは、やや厳しい表情を浮かべるヴァージンとは対照的に、終始笑みを浮かべていた。マゼラウスの右手の人差し指が、ヴァージンのシューズにまっすぐ向けられるのを、彼女はその目で感じた。
「『フィールドファルコン』を操るようになってから、お前の走りに余裕が生まれたな。ちょっと前までは限界を実感していたような走りだったが、このシューズになってから改めて自分の限界を模索しているように思える」
「昔も、今も……、気持ちはそれです。常に未知の世界に挑んでいるつもりですので」
「だろうな……。お前のあるべき姿に、ようやく戻れたような気がする」
マゼラウスが力強くうなずくと、ヴァージンもつられるようにうなずいた。
「お前が本気で『フィールドファルコン』を操れば、おそらく誰も想像しえないタイムを出してしまうかもしれない。私ですら叫んでしまうようなその時を、待ってるからな。ヴァージン」
「分かりました」
(きっと、次のレースでそんなタイムを出せてしまいそうな気がする……)
トレーニングが終わり、ベンチに腰掛けたヴァージンは、真上から見守っているような春の日差しを全身に感じた。それから、「フィールドファルコン」を目に焼き付けて、マゼラウスのように力強くうなずこうとした。
すると、ヴァージンの視線が感じることのできるギリギリの領域に、誰かの人差し指が入った。
「メリアムさん……?」
ヴァージンは、気配だけでその人差し指を誰だか言い当てた。首を軽く上げ、影の導く方向へと顔を上げると、そこには紫の髪がそよそよとなびいていた。
「グランフィールド、そうやって笑いながらシューズを見るの、なんか羨ましい……」
「どうしたんですか、メリアムさん。急にそんなこと言っちゃって……」
ヴァージンは、にやけていた顔のままでメリアムに告げた。だが、メリアムの目は、普段接しているときよりも少しだけ細く、ヴァージンの足にある「フィールドファルコン」を集中して見ていたのだった。
「ただ羨ましいと思って。『フィールドファルコン』を操れるグランフィールドが」
そう言うと、メリアムはトラックの中へと足を進め、ヴァージンに振り返ることなくウォーミングアップのストレッチを始めた。
(メリアムさん、「Vモード」を履いてる……)
モデルアスリートではないものの、メリアムもエクスパフォーマとスポンサー契約を結んでいる。女子長距離用のシューズを変えようと思えば、スポンサー契約を結んでいない選手よりはるかに楽に「フィールドファルコン」を試すことができる。だが、今のところのメリアムは、ヴァージンの新しいギアを見るだけだった。
(どうして、私のシューズを見て羨ましがったんだろう……)
「そんなことを気にするのが初めてだったなんて、そっちのほうが僕には信じられないよ」
いつも通り、アルデモードの手料理が並んだ夕食の席で、アルデモードが物珍しそうにヴァージンを見つめた。
「そういうもの?私、メリアムさんから初めてそんな視線を受けたんだし、自分に合うアイテムを使っているアスリートには、そんなことほとんどないと思ってた」
「いや、あるよあるよ。『フィールドファルコン』が発表されたときに、すぐにそれに興味を持つような物珍しさを、アスリートだって感じるんだって」
「アルも感じたこと、あるの?」
「そりゃあるさ。サッカー選手だって、人のスパイクのデザインとか気にするし、新しいシーズンを迎えたときに全く違うものを使っていたら、たちまち注目の的だよ」
アルデモードの言葉に、ヴァージンはただうなずくしかなかった。
「ということは、今の私だって、女子長距離走の多くのライバルから注目されるってことでしょ」
「勿論だよ。君自身のモデルシューズなんだし、そうでなくてもヴァージン・グランフィールドというネームバリューがあるわけなんだしさ。君のギアはどんな選手でも気にするよ」
「そういうものなんだ……。じゃあ、あの時メリアムさんが気にしていたことは、何も間違っていない……」
「間違ってないって。むしろ、それが自然の感覚」
アルデモードは、軽く笑ってみせた。だが、ヴァージンは出会った時のメリアムの表情を思い出すにつれ、彼の言葉に首を縦に振ることができなくなった。
(メリアムさんは……、もしかしたらシューズそのものを羨ましがっているんじゃないのかも知れない……。もしシューズが目当てだとしたら、あそこまで真剣な表情で見ることなんてないはず……)
メリアムに羨ましがられた日の13分57秒を底にして、ヴァージンのトレーニングでのタイムは少しずつ上がっていった。マゼラウスはほぼ毎日のように「余裕」という言葉を繰り返すものの、ヴァージンの体はラスト400mではっきりとしたスピードを感じるようになった。
(少なくとも、練習でメリアムさんと勝負した時に出した13分55秒26は、最低ライン。あれが「Vモード」の出せる最大限の力だったのだから)
アウトドアシーズンが始まって間もないこの時期、ライバルたちの今年の状態ははっきりと表れていない。最速女王ヴァージンを除けばただ一人5000mを13分台で走り、ヴァージンが昨シーズン連敗を喫しているメリナでさえ、次のレースの当日までは全く分からない。ただ、ラガシャ選手権の2週間前に、メドゥから直接対決になることを伝えられてから「宿敵」の存在を強く意識し始めていたのだった。
そして、大会2日前にセルディブの空港に降り立った時、スタジアムのゲートをくぐった時、さらに受付で「メリナ・ローズ」の名前を見つけたときには、ヴァージンの脚ははっきりとした力強さを感じていた。
(メリナさんは、私よりも早くスタジアムに来た……。サブトラックで、スタートの練習をしている)
ロッカールームのベンチに座り、バッグから「フィールドファルコン」をそっと出すヴァージンに、もう迷いはなかった。メリナに抜かされたくない思いが、シューズをまだ履いていないにも関わらず、全身にはっきりと伝わってきた。
(今までよりもトップスピードを速くする。本気で走れば、メリナさんは間違いなく付いて来れない……!)
本番では初めて身に着けるレース用の「フィールドファルコン」を履く。アメジスタ素材のレーシングトップスに身を包む。それから、天井を見上げ、昨年の世界選手権で見せつけられたメリナの背中を焼きつけ、すぐに両手を握りしめた。彼女の強い意思が、メリナの背中の残層を消していく。
(私は、これ以上メリナさんに負けるわけにはいかない……!)