第59話 女王ヴァージンに授けられた翼(6)
グラスベスとノースハイランドのイレブンが、ピッチに姿を見せた。ヴァージンは、グラスベスのユニフォームを纏ったアルデモードがいつ出てくるかと、入場口をじっと見つめた。
「アル……!アルーーッ!」
11人のちょうど真ん中で、アルデモードがやや早足でピッチへと駆け上がっていった。グラスベスのサポーターが盛り上がりを続ける中、ヴァージンがここで一人大きく叫ぶ。その声が響いたのか、ピッチの上を歩くアルデモードが、かすかにヴァージンに振り返った。
(アルは、やっぱり先発でこの試合に出る……。アルにとって、数少ないチャンスかもしれないのに……)
ここに集ったサポーターの中で、誰よりもその姿を知るヴァージンの目には、ピッチの上で戦いに挑むアルデモードがあまりにもたくましく思えた。そして、ボールを蹴っていないのに力強そうに思えた。彼女自身がトラックに姿を見せたときにも、おそらくアルデモードの目には同じように映るはずだ。
(頑張れ、アル。そして、今日この試合で、自分の未来を掴んで……!)
ホイッスルが鳴る。センターフォワードを任されたアルデモードのもとに、早速パスが回ってきた。彼は、ディフェンスラインを鋭く割り、それから誰にもパスを回すことなく、相手のゴールへと走っていく。
そのままアルデモード、右足で力強くボールを蹴りシュートを放つ。
「アル!」
だが、アルデモードの放ったシュートは、ノースハイランドのキーパーに正面から止められ、彼のはるか上空を相手ゴールに向けてボールが飛んでいった。アルデモードは、すぐに気持ちを切り替え、ゴールから10mほど手前でボールの行方を五感で追い続ける。
それから数分は、相手ゴールの近くでボールが動き続け、なかなかグラスベスの攻撃に戻せない。防戦一方だった。かつてリーグオメガの常勝チームと呼ばれていたグラスベスとは思えないほど、攻め込まれていた。
必死になって声援を送るグラスベスのサポーターに交じって、ヴァージンは一人アルデモードを見つめていた。その中で、グラスベスのディフェンスが大きくボールを戻し、コート中央部でグラスベスの選手が次々とボールを回していく。そのボールが左のフォワードのウィガーに回り、相手ディフェンスをうまくかわした。
(アルのところに、パスが回ってきた!)
ヴァージンが身を乗り出して、ボールの行方を追う。ウィガーの鋭いパスがアルデモードの前に落ち、アルデモードはその足をタイミングよく蹴り上げた。二度目のシュートだ。
だが、今度もまたキーパーに止められ、サポーターの声援がため息に変わる。そして、再び戻っていくボールをヴァージンは見つめるしかなかった。
(アルは、ちゃんとシュートを放っているのに、ゴールに届かない……!)
ヴァージンは、ピッチに立つアルデモードの姿を何度も見ている。その中で、この日のシュートは最も強く、誰も止められないほどの回転力を持っていたように見えた。だが、それでも彼はゴールを揺らせない。
それからわずか1分でノースハイランドが点を取り、それから数分も経たないうちに2点目、そして前半終了間際に3点目を入れられた。その間に、アルデモードの待つゴール前までグラスベスの選手がボールを運んできたのは、序盤の2回を含めてわずか3回。その全てでアルデモードはシュートを放ったが、止められてしまった。
(アルは……、ここまで頑張っているのに……、その努力が報われないの……)
ホイッスルとともに前半が終わり、アルデモードが肩を落としながらピッチから出ていく。前半で絶望的な状況まで追い込まれたグラスベスのサポーターからは、彼に対して全く拍手も声援も送らなかった。逆に、ヴァージンの耳に「アルデモードを何故先発で使った」などと揶揄する声ばかりが入っていった。
90分フル出場するはずだったアルデモードは、ハーフタイムが終わってもピッチに戻ってこなかった。その代わり、今シーズンチームの中で最も得点を挙げているケリーがセンターフォワードに立ち、そのケリーが後半だけで3得点上げたのだった。
最終的に、グラスベスは何とかドローに持ち込めた。ピッチに立つ選手に見えた悔しさとは裏腹に、サポーターたちは久しぶりの勝ち点を手にしたことに安心し、「よくやった」と声を上げる者まで現れた。
ただ一人、崖っぷちのフォワードを信じ続けた女子アスリートを除けば。
(アルは、この試合で成果を残せなかった。シュートを打っても、ゴールを揺らせなかった……)
ヴァージンは、出待ちをするサポーターに背を向けて、一切後ろを振り返ることなく家に戻った。普段はアルデモードがやることの多い家の掃除をしたり、簡単なおかずを作ったりなどしながら、彼の帰りを待った。
夕焼けがほとんど暗闇に飲まれる時間になって、ようやくアルデモードが戻ってきた。彼の表情は、その体以上に疲れ切っているようだった。
「おかえり、アル。掃除も晩御飯も、今日は私がやっておくから」
「あ……、ありがとう……。今日の僕の気持ちを、ヴァージンは分かってくれてるんだね……」
「勿論、うなだれてピッチから出ていくアルを見たら、とても悲しくなっちゃって」
アルデモードは、ヴァージンの声に静かにうなずく。それから先日も落ち込みながら座っていた椅子を引いて、力なく座った。彼は、その場所で再び頭を抱えていた。
「ヴァージン。今日は……、来てくれて本当にありがとう……。でも、僕は結果を何一つ残せなかった」
やや低く、暗い声で告げるアルデモードの横で、ヴァージンは中腰になって彼の表情を見つめる。
「そんなことない。アルは、今日とても強いシュートを放てたじゃない。過去最高の出来」
「過去最高の出来って言われても……、シュートが決まらなかったら、この世界は評価してくれない。それに、監督が言ってたんだ。僕のシュートが、やっぱり弱いままだと」
「弱くなんかないって……。後半のセンターフォワードの選手よりも、ずっと強かったって」
ヴァージンは、アルデモードの放った3本のシュートを頭の中で思い浮かべてみた。そして、今こうして落ち込むアルデモードの姿に重ねてみせた。もはや、別人のようだった。
「とにかく、僕は前半終了で『試合から出てけ』と言われたんだ。それきり、監督は声を掛けてくれなかった。もしかしたら、ピッチの上に立つグラスベスの僕は、もう今日限りかも知れない……」
「そんなこと言わないでよ。アルは、まだ続けたいでしょ。リーグオメガで一番の強豪チーム、グラスベスで」
ヴァージンの声が、アルデモードの顔を少しだけ持ち上げる。それでも、彼はヴァージンの表情をじっと見つめたまま、その問いかけに返事をすることはなかった。
(アル、やっぱり決められないのかな……。続けたいか、続けたくないかの選択を……)
じっと見つめ続けるアルデモードに、ヴァージンは質問を繰り返すこともできなかった。唇を何とか動かそうとしたものの、アルデモードの真顔に阻まれてしまった。
やがて、アルデモードがそっと口を開いた。
「今の君は、僕と二人だけ。いや、代理人とコーチの、たった四人だけ。だから、そんなこと聞けるんだよね」
(えっ……)
アルデモードの声がさらに低くなっていることに、ヴァージンはすぐに気付いた。結婚してからどころか、アメジスタで出会って以来、アルデモードがここまで低い声でヴァージンに話したことはなかった。
「でも、少なくともヴァージンはアカデミーに入ってたよね。そこで、クビになりかけたって話もしたよね。……なのに、僕に対してはほとんど気持ちを分かってないような気がする……」
「そんなことない。私は、アルが立ち直って欲しいと思って言ってるのに……」
「立ち直れるかよ!」
両手で机を強く叩く音が、ヴァージンの耳を激しく伝わる。表情は無理に落ち着いているものの、アルデモードはヴァージンを1秒だけ見て、すぐに顔を反らした。
「続けるか辞めるかを、自力で決められる君がすごいよ。羨ましいよ。僕は、チームに必要がなければ、追い出されるんだよ」
「ごめん……、アル……。私、気持ちを全然分かってなくて……」
ヴァージンは、小さくうなずく。ゆっくりとキッチンに向かい始めていたアルデモードは、その声で少しだけ止まって、それからゆっくりと歩き出した。
(オルブライトさんのような理想の終わり方は……、アルには通じなかった)
ヴァージンは、リビングに一人立ち尽くしていた。一度だけ涙を拭いながら、ヴァージンはアルデモードの後ろ姿をじっと見つめるしかなかった。
翌朝、アルデモードの表情が戻り、二人は前日のことが嘘であるかのようにこれまで通りの結婚生活を続けることができた。
だが、アスリートどうしで固く結ばれた絆は、気付かぬうちに少しずつほころび始めていたのだった。