第59話 女王ヴァージンに授けられた翼(4)
それから1週間ほどが経ち、珍しくオフにしていたヴァージンは玄関チャイムの音に気付いた。外にはトラックが止まっており、すぐにその荷物の差出人も分かった。
「お届けものです。『エクスパフォーマ・トラック&フィールド』からになります」
配達員の手には、明らかにシューズの入った箱がいくつか乗っており、トラックの荷台にはそれが数十箱詰まれていたのだった。ヴァージンはまず、配達員の持っていた分を受け取ると、クローゼットにしまいに向かった。
(あっ……、早速箱に「フィールドファルコン」の名前が書かれている。しかも、ロゴも……!)
まだ何箱も運ばなければならない彼女は、それらをじっと見つめていることができなかった。「Vモード」のときも、その前も「マックスチャレンジャー」の時も、エクスパフォーマからの荷物はそう簡単にしまえるような量では来なかった。勿論それは、ヴァージンがギアをボロボロにするまで懸命なトレーニングを続けていることに他ならなかった。
「全部で32ケースになります。こちらにサインをお願いします」
「ありがとうございます。私の、これから使うシューズを持ってきていただいて……」
ヴァージンは、普段の宅配便では絶対にすることのないくらいに深々と頭を下げた。それから、最後に渡された数箱をクローゼットではなく机に運び、一番上にあった箱を取り出してそっと開いた。
(やっぱりすごい……。試作品よりもより輝かしい色になってる……)
燃えるようなレッドに包まれたシューズの外側に、「Field Falcon」の文字が跳ねるように刻まれていた。さらにシューズを裏返すと、黒い靴底は「Vモード」の時と全く変わらなかったが、反り上がったかかとに向けて翼のようなデザインのくぼみが、赤く刻まれていた。
(あれ……、このデザイン、箱にプリントされているロゴと全く同じだ……)
ヴァージンは、パッケージと靴底を見返し、それからはっきりとうなずいた。
(「Vモード」の時は赤い炎だったけど、「フィールドファルコン」は左右合わせて、翼をはばたかせる鳥をイメージしている……)
ヴァージンは、シューズに一通り目を通した後、360度それを回転させてみた。試作品ではなかったくぼみが走り心地にどう影響するかを確かめるため、彼女はすぐランニングマシンの上で軽く走った。くぼみがあったほうがより楽に走れることに気付いたとき、彼女は軽く息をついた。
(飛んでるってことを意識して、本当に良かった……。たぶん、下から炎のままだったら、つま先のところが今のように軽くなかったような気がする……)
この時の「フィールドファルコン」を次のトレーニングで使うこととし、残りの箱をクローゼットにしまった。アウトドアシーズン用のウェアなどで多少は混みごみとしていたクローゼットは、ほぼシューズの箱になった。
それから2週間も経たないうちに、ヴァージンは「フィールドファルコン」のプロモーションイベントに向かった。エクスパフォーマの本社に入ると、招待された18階のフィッティングルームに向かった。すると、そこにはヒルトップではなく、最近はあまりエクスパフォーマ本社内であまり顔を合わせることのない顔があった。
「カルキュレイムさん……?」
ルーランドのやり投げ選手として、エクスパフォーマ・トラック&フィールドの誕生からずっとモデルアスリートとして本社に出入りしてきたが、ここ数年はヴァージンが彼と出会うことはなかった。
「グランフィールド、久しぶり。二つ目のモデルが作られるなんて、思わなかったよ」
ヴァージンがフィッティングルームに入ると、カルキュレイムは立ち上がって出迎えた。カルキュレイムは、部屋の中に飾られている「フィールドファルコン」を何度か指差しながら、軽く笑ってみせた。
「私のモデルが増えるのは嬉しいですが……、まだ複雑です。『Vモード』に限界が来ちゃっただけなので」
「それでも、グランフィールドがそこまで壁を突き破ったってことに変わりがないわけだよ。すごい」
「ありがとうございます」
カルキュレイムは、五つ並んだ椅子の、入口から見て左端に座っていた。椅子の数から察するに、ヴァージンが真ん中に座るしかなかった。
(改めて、私の新しいシューズを見ると、それだけで強そうに見える。ギュッと引き締まって見えるし……)
正面にある「フィールドファルコン」は、ガラス張りのケースに入っており、イベントの途中でヴァージン自身が明けることになるのだろう。それもあって、この日はフォーマルな革靴、そしてスーツでエクスパフォーマにやって来たのだった。
(緊張する。まだ、あのシューズを履いて数回しかトレーニングに行ってないし……、こういうようなイベントにもまだ慣れない……。それに、私の考えた名前だって、私とアル以外に一気に知られるわけだし……)
気が付くと、ヴァージンはじっと「フィールドファルコン」を見つめたまま固まっていた。その時、やや張り詰めた空気が彼女を襲いだしたことに気付いたのか、カルキュレイムがヴァージンにそっと声を掛けた。
「グランフィールド、やっぱり緊張してるでしょ。スマイル、スマイル!」
「分かりました。カルキュレイムさんのその言葉で、急に普段の私に戻れたような気がします」
ヴァージンは、カルキュレイムに小さくうなずいた。するち、カルキュレイムは部屋に誰も近づいてこないことを確かめ、そっと立ち上がってヴァージンの前までやって来た。
「あのさ、グランフィールド。今から、ものすごくテンション上がる言葉を言うよ。でも、上がりすぎないで」
「カルキュレイムさん……?」
ヴァージンは、カルキュレイムの表情を見つめたまま、じっとその言葉を待った。それから数秒経って、カルキュレイムはゆっくりとヴァージンに告げた。
「あの……、グランフィールド……。もう結婚をしているのに、ものすごく失礼かもしれないんだけど……」
カルキュレイムの口元がそっと動き、ヴァージンにもそれがかすかに震えるのが見えた。その後かすかにうなずいたカルキュレイムに向けて、ヴァージンも遅れてうなずいた。それから、ようやく沈黙が破られた。
「グランフィールドのこと、ずっと好きだったんだ……。アスリートとして、ものすごく強くてたくましいし……、何よりグランフィールドの人生そのものが、何もかもを希望の光に変えていける感じだもの!」
(カルキュレイムさん……!)
ヴァージンは、その言葉が終わるか終わらないかのうちに、カルキュレイムに聞こえないように息を飲み込んだ。それから、一度首を横に振って、カルキュレイムに頭を下げた。
「ごめんなさい。なんか……、カルキュレイムさんがこんなに魅力的なのに、その気持ちに応えることができなくて……。今の私を支えてくれる、大事なパートナーを振り切ることなんてできないです」
ヴァージンは、そこでもう一度首を横に振った。それからカルキュレイムの表情を見ると、彼は残念がるような様子もなければ、憤慨したような表情も見せず、ただ優しくヴァージンを見つめているのだった。
「まぁ、そうだよね。同じ国アスリートと結婚した以上、浮気は全く考えてないよね……」
「考えてません。今のところは……」
ヴァージンは、そう言って静かに唇を閉じた。言ってはいけない一言が出てきたことに気付くのは、それから数十秒の沈黙が流れた後だった。
(どこか違う……。なんか、カルキュレイムさんの前で、少しだけ心が揺らいでいる……)
つい口に出てきた言葉と、建前が全く違うことに、ヴァージンは否応なしに気付いていた。気持ちを紛らわすために、ガラスケースに入った「フィールドファルコン」に目をやるも、それに目を通しながら名前を考える、彼女が最も愛さなければならない存在が目の前に思い浮かんで仕方なかった。
「ところで、グランフィールド。椅子が五つあるんだけど、他に誰が来るか聞いてる?」
「聞いてません。ヒルトップさんは間違いなく来ますし、CEOのランドスケープさんも来ると思いますが……、もう一人が分からないのです」
「そっか……。逆に、自分が呼ばれている理由も分からなくなってきたよ」
カルキュレイムがそう言い放った時、入口から黒い髪の強そうな男性が入ってきた。
「オルブライトさん……」
男子100mを中心とした短距離走で、世界のトップに君臨し続ける、ザック・オルブライトが、ヴァージンよりはるかに筋肉剥き出しの姿で部屋に入ってきた。
「オルブライトか……。モデルアスリートの初期メンバーで、今のところ残っているの、みんな来たよな」
(そうだった……)
カルキュレイムの言葉で我に返ったヴァージンは、すぐにオルブライトの表情を見つめた。すると、オルブライトはすぐに、その場の二人に告げた。
「今日は、グランフィールドのイベントであることは分かっている。だが、それが終わった後、俺からも二人に重大発表をしたい。またこの部屋に戻って来たとき、詳しく話すつもりだ」
そう言って、オルブライトはヴァージンの右隣りに座った。言葉だけ言い残した彼の表情は、やや沈んでいるように、ヴァージンには見えた。