第59話 女王ヴァージンに授けられた翼(3)
翌朝、ヴァージンは普段と同じようにトレーニングに出かけた。朝になって幾分元気を取り戻したような表情のアルデモードからは、午後からのチーム練習に参加するという意思を告げられたので、彼女は安心してトレーニングに勤しむことができたのだった。
ただ、新しいシューズは机の上に置きっぱなしだった。ヴァージンは、もうほとんど使う機会のない「Vモード」を履き続けては、新しいシューズにつけようとした名前を、時折思い出そうとした。
(「Top Speed Wing」だったっけ……。二重線で私が消したの……)
「Vモード」を履いた足元が目に入るたびに、ヴァージンは新しいシューズの名前を心で呟いた。だが、その日彼女が家に戻るまで、候補としていた全てを思い返すことはできなかった。
「ただいま……」
ヴァージンは、玄関の鍵を開けて家に戻った。アルデモードが練習用に持ち歩くボストンバッグはなかった。
(やっぱり、アルはチーム練習に参加したか……。まだ、アルにはチャンスがあるもの……)
ヴァージンは、トレーニングウェアを洗濯機に入れ、またエアーのなくなった「Vモード」をゴミ袋に入れた。それから、前日アルデモードが頭を抱えていた机に近づいた。
(あれ……?)
ヴァージンは、机の前で足を止めた。紙の上に置いた新しいシューズが椅子の手前に移されていて、左右のシューズの間には、二日前に彼女が名前を書き記したと思われるメモ用紙が、裏返しに挟んであった。
(もしかして、アルは……、私が出かけてからも新しいシューズの名前を考えてくれたのかも……)
ヴァージンは、そのメモ用紙を取り出した。裏返された面には何も書かれていなかった。そこで彼女が勢いよく表面に返したが、そこにも新しいシューズの名前が追加されたような跡はなかった。
(アル……、このシューズの名前を考えたけど、思いつかなかったのかな……)
二重線や×などで消された名前が、メモ用紙の中で埋まっていた。だが、上から下までじっくり目を通したヴァージンは、メモ用紙の中にただ一つだけアルデモードの筆跡を見つけたのだった。
(完全に塗りつぶした名前だ……。あのとき、もう嫌だって投げたときだ……。でも、そこに……)
――僕なら、これにするな。世界最速のアスリートが携えるシューズなんだから。
アルデモードの字を二度、三度と見返したが、ヴァージンはその横に何と書いたかも思い出すことができなかった。アルデモードの目には、その字が見えたのだろう。だが、候補のすべてを消し去ったヴァージンには、完全に塗りつぶしたその名前を思い出すだけでも苦痛な作業だった。
(アルに、この名前を聞こう……。その前に、私が思い出さなきゃいけない。書いたの、私なんだし……)
そう心の中で呟いて、ヴァージンはいよいよ新しいシューズを机から持ち上げた。そして、玄関まで持っていき、左足、右足の順で足を通した。
(せっかく、もうすぐ名前が決まるんだし、一度もトレーニングで履いてないから、家の周りを走ってこよう)
ヴァージンは家の鍵を閉め、家の門の前にある歩道に立った。車通りの多い道は、この日は特に車がひっきりなしに走っていた。その中で、彼女は反時計回りにゆったりと走り出した。
次の瞬間、ヴァージンは「バーチャル競技場」で感じたような激しいパワーを感じ、気が付くと少しずつペースを上げていた。たった1周だけのつもりでも、その間を本気で走りたくなったのだ。
角を曲がり、やや細い道に出る。ヴァージンのスピードは徐々に加速する。400mで60秒を切るようなペースを突破するまでほとんど時間はかからなかったが、それでもこの新しいシューズには物足りない様子だった。
それから数十秒も経たないうちに、スタート地点の門を駆け抜け、ヴァージンはそこで走るのをやめた。その瞬間、クールダウンを始めようとする彼女に、一つの言葉が蘇った。
(フィールドファルコン……。なんか、飛んでるイメージで、そんな言葉を書いたような気がする……)
ヴァージンは、一度首を横に振り、家の中に戻った。それからまっすぐ机に向かい、先程のメモを持ち上げた。そこに「Field Falcon」の名前は見当たらなかった。いや、ただ一つ完全に塗りつぶされたはずの名前が、この時の彼女には、その筆跡が白く輝いていた。
(アルも……、この名前が気に入っていた……。私がここまで黒く塗りつぶしたのに、今となっては、どうして塗りつぶしちゃったんだろうって思うくらい……、その名前が輝いて見える……)
その時、アルデモードの歩く音がヴァージンの耳に飛び込んだ。
(私がこんなことしている間に、アルが戻ってきた……!もう、絶対あの名前のことを聞こう)
ヴァージンは、ゆっくりと玄関に向かい、普段と変わらない甘いマスクを浮かべるアルデモードを抱きしめた。ヴァージンの表情に気付いたのか、アルデモードはヴァージンの目を見つめながらにこりと笑った。
それからすぐに、アルデモードは、今の彼女が最も気にしている言葉を真っ先に口にした。
「あのメモ、見てくれたよね。シューズも玄関先に動かしてたわけだし」
「そうね。アルのメモを見て……、本当に私のことを考えてくれてるって思ったの」
ヴァージンがそう言うものの、アルデモードはそこではっきりと首を横に振った。
「僕は……、ヴァージンのほうがむしろ、シューズのこと、自分の未来のことを考えてるって思った」
「えっ……。アル、昨日あのメモを握りしめてたじゃない」
二人は、歩調を揃えるように机へと向かう。机に置かれたメモは、前日アルデモードが握りしめたような折り目がはっきりと残っていた。
「昨日の僕は、考えてあげなきゃと思っただけで……、自分のことで手一杯になってた。今日になってもう一度メモを見たけど、ヴァージンの感性に僕のほうが負けたんだ」
「私の感性に、アルが負けた……。つまり、あの名前はアルが考えたのと同じだったわけでもない……」
かすかに息を飲み込んだヴァージンを、アルデモードはじっと見つめていた。それから彼は、そっと笑った。
「『フィールドファルコン』、君が考えた名前だよ。ぐしゃぐしゃに消してあったけど、僕がそれを蘇らせた」
「ありがとう……。なんか、私も……、今日になってその名前を思い出して……、メモを見たら黒く塗りつぶされてて……、アルが気に入ってくれたのに、って思ってた……」
「ちょうど、昨日の僕がそうであったように、その名前が未来に向けたたった一つのチャンスを手にしたって思えばいいじゃん。光の反射で分かったけど、あえて君の書いた言葉を消さずに、君の注意を引きつけたんだ」
アルデモードは、自らの筆跡で書いた言葉に手を当てる。二人の目は、その言葉に吸い寄せられる。
「こんなに消してるけど、君はものすごくセンスあるよ。ネーミングの」
「ありがとう。でもアルは、この名前のどこが気に入ったの」
ヴァージンがそう尋ねると、アルデモードはしばらく考えるようなしぐさを浮かべた。
「そうだね……。まず、ファルコンという言葉が単純に速そうって思ったかな。世界最速の鳥なんだし、獲物を捕らえる瞬間、かなりのスピードになる。スパートで勝負している君に置き換えると、ライバルや世界記録と戦うためにスピードを上げ、あっさりと打ち破るって感じ」
「何となく思い浮かんだ単語なのに、そのようなイメージがアルの中にあったんだ……」
「僕はすぐに思ったよ。で、フィールドのほうは、競技場を駆ける、競技場を飛ぶという意味かな。それに、君の名前、グランフィールドの一部でもあるわけだし、もう君にぴったりの名前だと思ったんだ」
「アル……!」
ヴァージンは、思わずアルデモードの胸に飛び込んだ。何度かメモ用紙に目をやった後、彼女はアルデモードの胸の中で静かに泣いた。
「あくまでも、僕の後付けだからね……。『Vモード』のときの逆。それに、そのシューズを使う君が考えた名前なんだから、きっと『Vモード』よりもシューズのほうが親しんでくれると思うよ」
「そう言ってくれて……、私、すごく嬉しい……。私、もう新しいシューズ、この名前にする!」
その日のうちに、エクスパフォーマのヒルトップと代理人のメドゥには、新しいシューズの名前を伝えた。その名前を口にするだけで、アルデモードが付け加えたイメージが彼女の中で蘇る。
(「フィールドファルコン」……。世界記録と戦う、世界最速の私にぴったりの名前……)
玄関先に置かれた試作品のシューズを何度も見に行くほどで、彼女はそのデザインと名前を一夜のうちに100回も思い浮かべた。それは、翌日の朝目覚めても、決して忘れるようなものではなかった。
「フィールドファルコン」に、いま生命の光が灯された。