第59話 女王ヴァージンに授けられた翼(2)
新しいシューズを履いたまま「バーチャル競技場」から出たヴァージンに、ヒルトップは念入りに声を掛けた。
「グランフィールド選手。新しいシューズ、気に入って頂けましたか」
「最高です。なんか、走っているというより、飛んでいるような感じでした」
「その力が、最大の特徴ですからね。では、もうシューズはこれにしましょう。それでですね、こちらも『Vモード』と同じように、パワーを抑えたものを女子長距離用シューズとして発売するつもりでいるんですよ」
「早いですね。もう発売ですか」
ヴァージンは、ヒルトップの表情を見ながら、やや小さな声で返した。
「そうですね。グランフィールド選手は世界的に有名ですし、シューズを変えるのであれば『Vモード』も次世代に変えないといけませんから。それで、話は戻るのですが、このシューズのプロモーションイベントを、来月中に計画していまして、そこにぜひグランフィールド選手に来て頂けないかと思いまして……」
「分かりました。スケジュールを代理人と相談して、なるべく私が出られるようにしようと思います」
ヴァージンは、そこで改めてシューズから力が湧いてきているように思えた。既に走り終えたにも関わらず、いつまでも走りたがっているようだった。
「そこまでに、シューズの名前を考えて、サイドかどこかに入れようと思っています。ですので、今日履いてみたイメージで構いませんので、シューズの名前を決めて頂き、お早めに私どもまでお知らせ下さい」
「分かりました」
ヴァージンは、ヒルトップに促されるままうなずいた。
(名前かぁ……。また悩んでしまう……。いい名前、ないかな……)
ヴァージンは、走っていたときの足がどう感じていたのか、何度も思い返しながら、家のソファに座った。持ち帰ってきた試作品のシューズの箱を開け、ヴァージンはパワーと推進力に満ちたシューズをしばらく眺めた。
(やっぱり、私に名前決められないかも知れない……。印象は語れるけど、それを商品名にするのは難しい……)
この日、アルデモードは遠征で、家に戻ってこない。彼の手料理もなく、自力で調理までしないといけないが、この日に限ってはそれどころではなかった。嬉しさと悩ましさが、彼女に交互に襲ってくる。
(この「Vモード」という名前、アルに決めてもらったんだっけ……)
ヴァージンは、一つ前のシューズの名前をどう決めたか、必死に思い返そうとした。記憶は残っていた。だが、記憶を思い返したところで、どのように決まったかまでは正確には覚えていなかった。
(明日にはアルが帰ってくるけど……、その前に私がいくつか候補を書かないといけないかな……。それで、アルに決めてもらう……。それなら、私の心も落ち着くかも知れない)
ヴァージンはメモ用紙を取り、ペンを持った。だが、彼女の手は無意識に「スーパーVモード」と書き、すぐにその文字を塗りつぶしてしまうのだった。
(ダメだ……。これが「Vモード」とも思えない。全く異次元のシューズだし……)
そこでヴァージンの手は止まった。それからペンを持ったまま、両手を頬に当ててぼんやりと考えた。
(空を飛ぶ……、飛んでる……、駆け抜ける……、スパートを爆発させる……、私のような……)
単語レベルでしか出てこない言葉の数々を、ヴァージンは思い浮かべるしかなかった。
「Flying Bird」と書いて、彼女はその言葉に横線を引いた。一度ため息をついた。
「Top Speed Wing」と書いて、彼女はその言葉に二重線を引いた。ため息が深くなった。
「Aero Virgin」と書いて、彼女は「前にも考えた」と呟き、×印をつけた。もうため息も出なくなった。
そして最後に、「Field Falcon」と書いて、彼女はその言葉にいくつも斜線を引いた。
「もうダメだ……。私、走ること以外に何もセンスがない……」
机の上でメモ用紙を投げ出したヴァージンは、ペンを投げ捨てて頭を抱えた。何度も首を横に振っては、自らのネーミングセンスのなさを、彼女はひたすら悔やむだけだった。
(アルに見てもらおうと思ったのに……、これじゃ見せられるような名前が一つもない……)
ヴァージンは、投げ出したメモ用紙の前に紙を敷き、その上に新しいシューズを置いて、その場を離れた。それからその日は、シューズのことを全く考えなかった。
翌日、ヴァージンは「Vモード」を履いてトレーニングに出かけた。名前も決まらない新しいシューズを、彼女は履くことができなかった。出かけるときに、机の上に置かれたそのシューズを何度も見返すほど、彼女には後ろめたさだけが残っていた。
(帰って来たら、アルは何と言うだろう。新しいシューズを気に入ってくれるといいんだけど……)
夕方、ヴァージンがトレーニングから戻ってくると、玄関の鍵が開いていた。
「アル、ただいま」
ヴァージンが普段と何も変わらずそう言うと、中から小さな声でアルデモードの返事が返ってきた。
「おかえり……。ヴァージンは、元気そうだね……」
ヴァージンは、アルデモード声を察して、ゆっくりと部屋に入った。すると、昨日ヴァージンがネーミングに悩んでいたときと同じ姿勢で、アルデモードが頭を抱えていた。ヴァージンが入ってくると、彼はほんの少しだけヴァージンに振り向き、その勢いで笑顔を作ろうとだけはしていた。
「アル、どうしたの。ものすごく悩んでいるじゃない……」
「やっぱり、いつも一緒だとヴァージンには分かっちゃうよね、僕の置かれた状況を……」
アルデモードの声に、普段のような元気は一つもなかった。
「グラスベス、いまリーグオメガの最下位なんだ。シーズンも半分以上過ぎて、勝ち点はたったの3。僕は、今のシーズンで1本もシュートを打ててない」
「グラスベスが……、最下位だなんて……」
ヴァージンは、アルデモードから告げられた言葉に息を飲み込んだ。リーグオメガの常勝チームと言われているはずのチームが追い込まれていることを、アルデモードの表情と言葉で飲み込むしかなかった。
「でも、アルには、チャンスがあると思う。チームだって、また力を取り戻せると思う」
「チャンスはあるさ。3週間後のホームゲームで、たまには先発で90分出てみろと、監督に言われた」
「アルにとっては、ものすごく嬉しいニュースじゃない!じゃあ、どうして落ち込んでるのよ」
ヴァージンは、アルデモードの横に中腰になって、彼の目を見つめた。その目は、何一つ輝いていなかった。
「その試合でゴールを決められなければ、僕はもうチームに必要ないって。そう一緒に告げられたんだ」
数秒の沈黙が、アスリートどうしのパートナーを包み込んだ。それから、ヴァージンが沈黙を破った。
「私も世界記録を出す前に、次がないどころか……、本当にクビのサインまでしたことがある。首の皮一枚で、私はアカデミーを追い出されずに済んだの。だから、きっとアルだって……、頑張れば次があるはず!」
「そうだね……。ヴァージンだって……、辛い時期があったものね……」
「そう。世界記録を出すまでは、本当に辛かった。その中でも、一生懸命やっていれば、奇跡が起きる。3週間後に、アルはきっと奇跡を起こせると思う。そういう気持ちで、グラスベスにいるんでしょ、アル」
「勿論だよ。いつか、有名な選手になって……、僕のことを失敗ばかりのフォワードとか言ってきた仲間たちを、ファンたちを見返してやりたい。失敗したら次はないっていうのだけが、怖いんだよ……」
(アル……)
アルデモードの作りかけの笑顔が、すぐに消えた。彼はヴァージンから目を反らし、ついに机に伏した。
(やっぱり、未来が不安定なのは、アルにとっては怖いのかな……)
ヴァージンは、顔を上げることのないアルデモードを横目で見て、机の上に置かれたままの新しいシューズに手を伸ばそうとした。その時、彼女はその前に置いたはずのメモ用紙がなくなっていることに気が付いた。
(なくなってる……。全部横線とか×とかつけたけど……、その紙がなくなってる……)
机の下を探し、それから紙の下も探したが、シューズの名前をいくつか書いたはずのメモは見つからなかった。
(アルにシューズの名前を決めてもらおうとしたんだけど……)
ヴァージンは、再びアルデモードに目をやった。すると、彼が右手で何を握っているのが目に飛び込んできた。大きさからして、前日ヴァージンが投げ捨てたメモ用紙だった。
「アル……、私にはこれ以上心配を掛けたくないと思って……」
かすかに声に出したヴァージンに、アルデモードが小さくうなずいたように見えた。紙の上に置かれた赤いシューズも、前日置いた場所よりも少しだけ動いていた。
(アルは、このメモを見て……、何とかしなきゃいけないと思ったのかな……)
ヴァージンは、目に涙を浮かべながらシューズを持ち上げ、再び同じ場所に置いた。それからアルデモードが顔を上げるまで、彼女から話し掛けることはなかった。