第59話 女王ヴァージンに授けられた翼(1)
アウトドアシーズンが始まる3月まで日も少なくなったある日のこと、ヴァージンのもとにメドゥから電話がかかってきた。電話口の向こうにいるメドゥは、少し声を高くしてヴァージンに告げる。
「さっき、エクスパフォーマから電話がかかってきたわ。ヴァージンの新しいシューズが完成したみたい」
「えっ、本当ですか……。たしかに、アウトドアシーズンに間に合うように作るとは言ってましたが……」
「もう明日でも履けるようにしておくって言ってたわよ。さっきマゼラウスと相談して、明日の午後ならエクスパフォーマの本社に行く予定を入れても大丈夫なようにしておいたけど、ヴァージンはその時間大丈夫?」
「大丈夫です。トレーニング後も、あまり遅くならなければ自主トレしてますので」
「なら、決まりね」
メドゥの、ほぼ終始喜んだような声に飲み込まれるように、ヴァージンも心の中で「よし!」と叫んだ。電話を切った後、ヴァージンの脳裏には、先日ヒルトップに見せてもらった図面をはっきりと思い出していた。
(これで、私の限界はひとまずなくなった……。あとは、今まで履いていた「Vモード」に比べて履き心地が悪くなっていないかどうかだけ……)
翌日、トレーニングを終えたヴァージンは、メドゥから伝えられた時間にエクスパフォーマの本社に向かった。ロビーに入ると、既にヒルトップが待っており、箱が置かれた席にヴァージンを手招いていた。
「早速、グランフィールド選手向けの新商品を試して頂けるとは、こちらとしてはものすごくありがたいです」
「いえいえ。私だって、早くシューズを履きたいと、毎日連絡を待っていました」
「そう言って頂けると、作った甲斐があります。で、先日もこちらの図面を見せたのですが……」
ヒルトップは、ヴァージンが一度は見たことのある図面をバッグから取り出した。つま先がややそり上がっているという、そのシューズにとって最大の特徴を、ヒルトップが自筆で書き加えていたのを除けば、新しいシューズの提案があった時と全く変わっていない図面だった。
「私どもであの後、少しだけ改良しようと思ったのですが……、改良すればするほど『Vモード』と全く違う履き心地になってしまいそうで、グランフィールド選手が力を発揮できなくなりそうでした。なので、この図面通りのシューズを、今回開発しましたので、その箱をお開け下さい」
「もう開けていいんですか……」
ヴァージンは、ヒルトップの一言で心臓の鼓動が少し速くなるのを感じた。湧き上がった期待をそのままに、彼女はテーブルの上に置かれた箱に手を伸ばす。そこには「グランフィールド選手・新シューズ試作品」とだけ書かれており、エクスパフォーマのほうで特に名前を決めているわけではなかった。
「どうぞ」
ヒルトップに再び促されると、ヴァージンは蓋を勢いよく上げ、その直後に息を飲み込んだ。「Vモード」と同じ、明るいレッドに染められたシューズは、それでも「Vモード」と比べてずっと引き締まっていた。
(なんか、「Vモード」よりもずっと強そうなシューズ……。見た目だけなのに、力が湧いてくるような気がする)
ここで数秒間、心を落ち着かせたヴァージンは、ゆっくりとシューズを持ち上げた。少し持ち上げただけで、彼女はこれまでよりやや軽いシューズということを手で感じた。
さらに、最も特徴的な場所と言えるつま先は、「Vモード」と比べると明らかにそり上がっており、次の一歩を踏みしめるときに力が前に伝わっていくように思えた。
「これ……、本当に素晴らしいシューズだと思います。デザインだけ見ても……、速く走れそうです」
「そう言って頂いて、ありがとうございます。では、さっそくフィッティングルームに行きましょうか。どうせなら、今日のうちにフィッティングと、もし気に入って頂けるのなら『バーチャル競技場』で走って頂いても全然構いませんよ」
「分かりました。でも……、ここから履いていきたくなりました」
ヴァージンがしっかりとした声でヒルトップに告げると、ヒルトップは数秒待ってうなずいた。
「そこまで気に入って頂けたら、ここで履きましょう。もう、この試作品からグランフィールド選手のものです」
その言葉が言い終わらないかのうちに、ヴァージンは一度うなずいて、新しいシューズを床に置いた。それから、今まで履いていたシューズから足を出し、左足、右足の順でシューズに足を通した。
(……これ、本当にパワーが溜まっているような気がする!)
ヴァージンは、新しいシューズを履いたまま、右足を一歩前に出した。シューズを床につけるだけで、すぐに足の先にパワーが伝わっていくように思えた。
「ヒルトップさん。これ……、本当に素晴らしいと思います。『Vモード』よりもはるかに力がありそうです」
「やっぱり、そう言って頂けましたか。クッションしてからすぐ素材全体に力が伝わりますので、その力に乗って次の一歩を踏み出したくなるわけです。要は、床を踏んだ瞬間にこのシューズの特徴があるということですよ」
「ヒルトップさんの言うとおりです。それに、前に言われていたように、次の一歩を踏み出す力に無駄がないし、戦い続ける力とか、そういうのも簡単に当てはまるような気がします」
ヴァージンは、足を何度か上げ下げし、その度に激しいパワーを感じていた。ヒルトップの言葉にうなずく瞬間、彼女ははっきりと確信した。
(このシューズなら、いくらでも記録を破りそうな気がする……!)
それからヴァージンは、ヒルトップに「バーチャル競技場」へと案内された。エクスパフォーマ本社内にあるこの場所に入るのは初めてではないが、設備は前回足を踏み入れたときと比べて大きく更新していた。
「では、グランフィールド選手は、この場所で普段と同じでも構いませんし、軽くスローペースで流して頂いても結構ですので、ここで走って下さい。シューズの履き心地がどうか、こちらでもデータで見ますので」
「ありがとうございます。このシューズを履いた瞬間、本気で走りたくなりましたもの」
「なら、実戦のグランフィールド選手が私どもも見られると言うことですね」
「そうするつもりです」
ヴァージンは、「バーチャル競技場」の前で軽くウォーミングアップをし、それから一度うなずいて、ガラス張りの部屋の中に入った。モニターには、400mトラックが映し出されており、それだけでも彼女の気持ちは高ぶっていった。
送信機を取り付けられると、ヴァージンはルームランナーの上に乗った。
「グランフィールド選手、5000mでよろしいですね」
「5000mでお願いします」
ヒルトップがガラス張りの部屋を出ていくと、すぐに天井の色が空色へと変わった。
「On Your Marks……」
その場にいないはずのスターターが、画面にはっきりと映っている。ヴァージンは目を細め、新しいシューズに力を入れる。シューズはもう、走りたがっていた。
(よし……!)
号砲が鳴った瞬間、ヴァージンは普段から意識しているラップ68.2秒まで一気にペースを上げる。
(全然加速が違う……。ゼロからここまで上げていくだけでも、全然疲れない……!)
ルームランナーの上に、ヴァージンはシューズの底を次々と叩きつける。そり上がったつま先に向け、その度にパワーが溢れる。新たな力を使う必要性を、彼女は少しも感じなかった。それどころか、次の一歩を踏み出すのに使わなかったパワーがシューズの底に少しずつ溜まり、それがスパートに向けたエネルギーになっていくのを、彼女は同時に感じた。
(どんどん力が湧いていく……。これなら、スパートでどれだけラップを上げても大丈夫かも知れない!)
4000mを過ぎたヴァージンは、そこから一気にペースアップを始めた。ラップ63秒、61秒と少しずつペースを上げ、最後の一周に差し掛かるときに新しいシューズをより強く踏み込んだ。
(足の裏が全然疲れない……!なんか、最後はトラックの上を飛んでいるように思える!)
体感的には、明らかにラップ55秒台に突入しているかのようだった。そこまでスピードを上げたがっているシューズに呼応するように、ヴァージンの体もそれに付いて行こうとしていた。
間違いなく、タイムが出る。ヴァージンがそう信じたとき、5000mのゴールが見えてきた。ラインに飛び込んだヴァージンに、ヒルトップはすぐにドアを開けて近づき、何度も手を叩いた。
「グランフィールド選手、室内で、しかも初めて履くシューズなのに、13分台出せましたよ!13分58秒32」
「やっぱり……、出せたと思いました……。履き心地もすごいし、このタイムなのに、全く疲れてません!」
ヴァージンは、ヒルトップに頭を下げた。それから中腰になって新しいシューズを右の人差し指で触れた。そこには、まだ激しいパワーが残っていた。