第58話 トップスピードを超える力(6)
フェリル共和国、イーストフェリルの街。時折冷たい向かい風が襲う中でさえ、ヴァージンはまっすぐ前を向いて、戦いの舞台となる室内競技場へと向かっていた。
(30歳になって、初めてのレース。スパートのペースを上げ続けたトレーニングの力を、初めて見せつける時)
彼女にとって、このレースにはいくつもの初めてが潜んでいた。それと同時に、おそらく「Vモード」にとってひとまず最後のレースとなり、5年間履き続けたギアの本当の限界を知る機会でもあった。
ヴァージンが受付に向かおうと、足を進めたその時、彼女の背後から誰かが駆け寄ってくる音が聞こえた。後ろを振り返ると、サーモンピンクの髪が彼女の目に真っ先に止まった。
「グランフィールドと、今年初めての勝負だー!」
「カリナさん……。私も、今日はカリナさんと1対1の勝負ができると聞いて、すごくワクワクしてます」
「最近、お姉ちゃんとばかり走っているし……、お姉ちゃんを追い越せなくなってる。それがちょっと悔しくて、だったら世界女王を追い越したいって思ってる。だから、今日は私が勝つ」
カリナが笑顔を浮かべてヴァージンの横を通り過ぎると、ヴァージンは自らの薄い金髪をそっと指で撫でた。
(カリナさん、一緒に走るようになってから4年くらい経つけど、全然変わってない……。でも、たぶん実力は私のほうが上のはず。私には、今までよりもはるかに強い武器がある)
13人の選手が、室内女子5000mのスタート地点に並ぶ。カリナが言っていたように、このレースに姉のメリナは出場していなかった。ヴァージンがカリナの表情を伺うと、カリナはその分だけ明るい表情を浮かべていた。ヴァージンをはじめとしたライバルをじっと見つめるカリナは、見た目だけは闘争心に溢れていた。一方で、カリナの様子を見るヴァージンには、シューズの底から激しく突き上げるような力が湧き上がっていた。
(「Vモード」のボルテージが、早くも高ぶっている……。私は、出せなかったタイムを出せるかもしれない)
「On Your Marks……」
スターターの声がスタジアムに響き渡ると、ヴァージンは200mトラックをじっと見つめた。足元に力を集中させ、踏み出すべきその時を待った。
(よし……!)
号砲が鳴り響いた瞬間、ヴァージンは真っ先に前に飛び出し、400mを68.2秒という慣れたペースで先頭に立った。最初からヴァージンの横に出てくるようなライバルは、このメンバーでは見当たらない。この時点で、ヴァージンは周回遅れの選手に追いつくまで、ほぼ独走状態と言ってよかった。
ヴァージンの背後から聞こえてくる足音も、10人ほどいたのが次の1周で5人になり、1000mを過ぎる頃にはついにカリナ以外の気配が感じられなくなった。だが、逆にカリナは序盤からヴァージンの10mほど後ろで、同じ400m68.2秒ペースの走りを見せているのだった。
(カリナさんは、後半でひたすら背後に付けるスタイルだったはず。でも、今日は序盤から私のペースに合わせている……。もしかしたら、カリナさんも、スパートの精度に苦しんでいるのかも知れない……)
メリナのランニングスタイルが変わったことで、今まで通りの走り方で苦戦するようになったのは、カリナもまた同じだということに、ヴァージンはカリナの足音を聞きながら確信した。特にカリナは、メリナと会う機会も多く、そのたびに13分台に突入したメリナからコンプレックスを与えられていたに違いない。
(でも、スタイルを変えて、それが成功する人もしない人もいる。しなかったライバルも、私は知っている)
10周が過ぎ、15周が過ぎても、ヴァージンの走り慣れたペースからカリナは動かそうとしなかった。相変わらず10m後ろで、前を行くヴァージンの出方を伺っているようだ。このあたりから周回遅れとなる選手が次々と前に現れるが、ヴァージンは常にカリナがどこから攻めてくるか意識し続けた。
(それでも、私は必要な瞬間にスパートをかける。周回遅れの選手のほかに、カリナさんまで抜くことになったら、それだけロスになるわけだから……)
ヴァージンがかすかにそう思った時、彼女の背後でカリナがペースを上げるような気配を感じた。カリナが400m68.2秒のペースが、68秒を切り、67.5秒ほどのストライドになっていることを、ヴァージンは近づいてくるカリナの息遣いで感じた。
(大丈夫。これ以上ペースを上げるようでなければ、4000mで抜かれるようなことはない。きっと、カリナさんも私のスパートを待ってから勝負に出ようとしているはず)
そこからの1000m、ヴァージンはカリナを一切気にすることなく、これまでと同じペースで走り続けた。周回遅れのライバルを何人追い越したか分からなくなるほど、彼女は前だけを見続けた。
そして、4000mのラインがヴァージンの目に飛び込んだ。ちょうどその時、ヴァージンはカリナの息遣いを背中ではっきりと感じた。
(カリナさんが、ぴったりと後ろに付いてきた。スパートし始めるのを、うかがっている……!)
4000mラインの直前で、ヴァージンはカリナに1秒だけ振り返った。それから、右足に力を入れた。
(できる限り早く、私はカリナさんを引き離す……!)
普段より短めのコーナーを、ヴァージンはスピードを上げながら駆け抜ける。彼女が思った通り、カリナもまたヴァージンのペースに合わせながら、離されまいと迫ってくる。ヴァージンのペースは、体感的に400m65秒ほど。まずは第一関門をクリアするが、すぐに第二のギアチェンジポイント、4200mが彼女の前に迫ってくる。
(まだ、私はペースを上げられる!足の裏が、全然重くならない!)
これまで何度となくヴァージンのハイスピードを支えてきた「Vモード」が、この瞬間もトラックを叩きつける両足に、溢れるばかりのパワーを送っている。走っているときに、疲れすら知らなくなるような足。最初に「Vモード」を携えたときのヴァージンの印象が、この瞬間にはっきりと蘇ってきた。
カリナは、懸命に食らいついている。トップスピードで走り抜けたいと、「Vモード」のボルテージが激しく上がった。ヴァージンは、自分自身の限界までスピードを上げようと、この時はっきりと誓った。
そして、同時にヴァージンには一つの確信が芽生えた。
(4400mを12分31秒くらいで通過した。もしかすると、インドアで13分台を叩き出せるかもしれない!)
スパートは、普段屋外のトラックで出しているペースとさほど変わりはない。ヴァージンは、可能と読んだ。
そして、4600mが近づく直線のさなかに、ヴァージンはシューズに力を入れ、一気にトップスピードまで駆け抜けていった。カリナの息遣いは、完全に聞こえてこなくなった。その代わりに聞こえるのは、今もなお激しく湧き上がってくる、「Vモード」のパワーだった。
(このスピードで、いつも悲鳴を上げてきたはずなのに……、まだエアーがはっきりと足の裏に伝わっている!)
大きなストライドで、ヴァージンはトラックを懸命に駆け抜けた。それが、今の彼女が出せるトップスピードだと、心の中ではっきりと確信しながら――。
13分59秒68 IWR
(インドア13分台っ!)
「IWR」の前に刻まれた6桁の数字を目にした瞬間、ヴァージンは記録計の前で力強く叫んだ。アウトドアと比べて風の影響が少ない分、タイムが伸びないはずの室内であるにもかかわらず、最速女王の脚は初めての13分台を叩き出したのだった。
「おめでとうございます……」
8秒ほど遅れてゴールを駆け抜けたカリナが、ヴァージンに近づくなり、記録計を指差し、かすかに震えていた。アウトドアのレースでは何度か見てきた記録にも、カリナは信じられないとばかりにヴァージンの表情と見比べる。ヴァージンの顔と記録計を3回ずつ、ようやくカリナも現実を飲み込んだようだ。
「ま、まさか……、インドアで13分台になるとは思わなかったです……。さすが、グランフィールド……!」
「カリナさん。私も……、アウトドアで13分53秒くらいにならないとインドアでこんな記録を出せないとばかり思ってました……。ただ、今日は行けそうな……、気がしました」
そう言ってヴァージンは、この日も懸命に食らいついてきたカリナを抱いて、背中を軽く叩いた。
「カリナさんも、きっと13分台を出せる時が来ると思います」
(今日で、このシューズを履いてレースに出るのも、ひとまず最後……)
ロッカールームで、「Vモード」を脱いだヴァージンは、シューズを手に持った。完全に力を使い果たしていた。底を指で押しても、ほとんど反発力はなかった。やはり、ヴァージン自身の進化に付いていけなくなっていた。
(でも、私と「Vモード」がここまでシンクロし続けたから、記録が生まれたこと……、私は誇りに思ってる。エクスパフォーマのモデルアスリートで、私、本当によかった……)
ヴァージンが一粒だけこぼした涙は、力尽きたソールをほんの1秒だけ蘇らせるような熱に満ちていた。