第7話 潰えかけたヴァージンの夢(1)
5月の空は、そこに集う全てのアスリートを眩しく照らすかのように高く澄み切っていた。
オメガ国、リングフォレストのスタジアム。
ヴァージン・グランフィールドが昨年の夏、最初の伝説を作った場所だ。
あの時は、ジュニアの中で誰が最も速く走れるかを競った。今、挑もうとしているのは全く違うと言ってもよいメンバーだ。ヴァージンは、薄青のスタジアムに入った瞬間に、軽く息を吸い込む。
(私は、ここに帰ってきた)
すっかり履き慣れたイクリプスの黒いシューズで、軽いクッションのフィールドを軽く踏みしめる。自分がアメジスタ国外で初めて走った地の情熱は、全く冷めていないようだった。
「調子は大丈夫か」
「えぇ」
やや遅れてフィールドに姿を現したマゼラウスの声に、ヴァージンは軽く首を縦に振り、何度か膝を軽く伸ばした。すると、マゼラウスはヴァージンを軽く見つめるように言った。
「君は、今回の大会をどう位置付けているんだ」
「メドゥさんに勝つ、大きなステップにしたいと思っています」
コーチを見ているはずのヴァージンの目に、軽くメドゥの金髪が飛び込んできた。ヴァージンよりもはるかにがっしりとした体つきで、素早くフィールドを横切る彼女の姿は、今回もまた貫禄があるように見えた。
少し視線の反れたヴァージンに、マゼラウスは軽く唸った。
「やっぱり、メドゥのことが気になるようだな……。いいか、今回君が目指さなきゃいけないのは、あくまでも世界競技会に向けてのステップアップだからな」
「分かってます」
「ヴァージンは、たしかに少しずつ実力がついてきている。ただ、14分30秒台をコンスタントに出していない君が、メドゥに真っ向から挑もうとすると、この前のアムスブルグになってしまう」
マゼラウスは、念を押すようにヴァージンに言う。その目で教え子を見つめながら、何度も首を縦に振るマゼラウスは、その口調には似つかわしくない形相のように見えた。
「君には、スパートという強力な武器がある。それを、最高のタイミングで使うこと。いいな」
「はい」
ヴァージンの公式な自己ベストは、14分41秒86。練習でも14分38秒台を叩き出すのがやっとと、イクリプスのモデルの地位を手に入れる間、そこまで飛躍的に成長しているわけではなかった。だからこそ、この大会ではヴァージンに自分の最高の走りをして欲しい。
フィールドに送り出すマゼラウスは、その教え子の姿を頭に思い浮かべていた。
ヴァージンが挑む、一般で2度目となる今回も、予選なしの一発勝負だった。13人で2段階のスタートラインに並ぶものの、金髪に純白のウェアで挑むメドゥの姿が、やはりカメラの注目の的だ。そして、ヴァージンが直前になって出場を知ることになったのだが、黒のツインテールが目印のグラティシモが、普段以上に凛々しく見える。また、有色肌に刈り上げた黒髪を見せるバルーナの姿も、久しぶりにヴァージンの目に映った。
「バルーナさん……、久しぶりです」
「久しぶり。今度は負けないから」
バルーナは、そう言うと丸い顔を軽く揺らして走り出す方向へと目をやった。同時に、ヴァージンも正面に目をやる。係員がスタートの位置に付く。
(あっ……)
ヴァージンの目が、観客席に見慣れたアスリートの姿に釘付けになった。車いすに乗ったその女性は、じっと13人のライバルの姿を見つめている。
(シェターラさん……)
ヴァージンは、思わず涙をこぼしそうになった。勝負の直前で、涙なんて出すはずではなかったのに、自然と出てきてしまう。本当なら、この場所で戦うはずだったライバルが、無残な姿で観客席にいる。
シェターラは、ヴァージンに向けて、大声で何かを言っているように見えた、だが、オメガ語を完全にマスターしていないヴァージンには、その口の形で何を言っているか正確には分からなかった。
(頑張れ、と言ってると思って……)
ヴァージンの目は、やや細くなった。そして、それから数秒も経たないうちに号砲が鳴った。
大方の予想通り、レースはメドゥとグラティシモがやや前に出て、他のライバルたちがその後ろにダンゴ状態に固まって走っていた。ヴァージンも、ここは無理してメドゥたちを追いかけることはなかったが、8人ほど固まっている3位集団の先頭のポジションまでは躍り出た。
(ここから先は、自分の走りをすればいい)
マゼラウスが、つい先程言い聞かせた言葉が、ヴァージンの脳裏で少しずつ復唱されていく。1周、2周と進んでいくうちに、前を行く二人の姿が少しずつ遠くなっていくが、ヴァージンはそれでも自分の足をすぐに二人に近づけようとはしなかった。現在のポジションを守ったまま、残り数周でグラティシモ、そしてメドゥに挑もうとしていた。
だが、残り2000mになり、そろそろスパートをかけようとしていたその時、上位集団に起きた異変に、ヴァージンは思わず息を飲み込んだ。
(メドゥさん……!)
グラティシモが、トラックの外側に出てメドゥを追い抜こうとしかける。ほんの数歩だけ前に出ていたメドゥの顔が、一瞬振り向き、ヴァージンとも目が合う。世界の頂点に君臨する、絶対の足の持ち主が明らかに焦っていた。メドゥは何度か首を横に振り、その力強い足で懸命にグラティシモを振り切ろうとする。
だが、直線に入った途端、グラティシモの大きなストライドがついにメドゥを捕え、そのまま一気に抜き去った。懸命に食らいつくメドゥも、追いつくのが精一杯の様子だ。
(メドゥさんが……、負ける……?)
ヴァージンは、一気にスパートをかけようとするが、目の前で起こっている異変に実力を出すのを躊躇しかけていた。少しスピードを上げると、メドゥとの距離が一気に縮まっていくが、それはそれで異様に思える。
(今の私なら、行けるかも知れない……!)
アメジスタの国旗の色に包まれた体は、たしかにそう誓っていたのだが……。
気が付いた時には、バルーナの姿がヴァージンの斜め前にあった。抜かされていた。
そこで初めて火が付くも、あと2周だった。
ヴァージンがスパートをかけるのは、普段と比べてあまりにも遅かった。
そして、ヴァージンは自慢のスパートでメドゥとの勝負に挑むが、わずかの差でゴールへと突き進むバルーナすら、ほんの数歩及ばず、結果は4位に終わった。
(14分48秒30……)
目の前にいたはずの、やや調子の出なかったメドゥを追い抜かせたはず。ヴァージンは、マゼラウスに渡されたタオルで額の汗を拭っている時から、何度かトラックの土を強く踏みつけるしぐさをした。
「私が言わなくても、分かってるようだな」
「はい……。やっぱり、今回も納得できなかったです……」
メドゥのタイムは、世界記録からはるかに遅く、14分35秒台。あと一歩、ヴァージンが自分のベストを上回る走りを見せていれば、世界王者を倒して、2位でフィニッシュすることができた。その現実が、少しずつ彼女の思考を支配していた。
しかし、またしてもメドゥの前で表彰台に立てなかったヴァージンを、マゼラウスはそっと抱きしめた。
「反省材料は確かにある。だが、ヴァージン。今のは悪い走りではなかったぞ」
「……コーチ」
「ほら、途中躊躇したじゃないか。あそこからよく立ち直ったなと思ったんだ」
「そう……ですね」
気が付くと、ヴァージンは地面をシューズで蹴るのをやめ、マゼラウスに手を差し出していた。
シェターラの複雑な表情が、タオル越しに見えた。ヴァージンは少しだけ首を縦に振った。
その目は、メドゥではなく、成長を続けるヴァージンにも向けられているようだった。
大会がリングフォレストということもあり、ヴァージンはその日のうちにセントリック・アカデミーに戻るため、いそいそと着替えを済ませた。トレーニングウェアからも解放された彼女は、大きく息を吸い込み、マゼラウスやグラティシモたちの待つ、アカデミー行きのマイクロバスへと向かった。
だが、選手用の入口の目の前にあった大きな看板に、ヴァージンはふと足を止めた。
(……?)
その看板は、自らもスポンサー契約を結んでいるイクリプスのスポーツシューズの看板だった。男女二人のモデルがイクリプスのシューズを履いて走っているその看板には、メドゥの姿が映っていた。
(やっぱり、メドゥさんはメドゥさんなのかな……)
今回、優勝を逃してしまったメドゥ。だが、彼女がきっと次の大会では世界記録を更新すると期待しているからこそ、イクリプスもメドゥに契約料を払って、このように大きな看板で彼女を使っている。
(自分も、いつかこの場所に立ちたい)
ヴァージンは、抜けたはずの相手に向けて、もう一度地面を蹴った。そして、メドゥの看板をじっと見つめた。
だが、ヴァージンに待つ現実はそこまで甘くないことを、彼女はこの後すぐに知ることになるのだった。