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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
最速女王の脚 さらに加速する
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第58話 トップスピードを超える力(5)

 それからほどなくして、ヴァージンはエクスパフォーマ本社のロビーに誘われた。ヒルトップがカバンの中からシューズの図面が書かれた紙を出し、それをゆっくりとした動きでヴァージンの前に置いた。

「私どもで『Vモード』を展開するようになってから、もう5年が経ちます。その間、グランフィールド選手が何度世界記録を打ち立てたかは、本人が一番分かっているかと思います」

「そうですね。いくつも記録を作りました」

「そのおかげもあって、『Vモード』は女子長距離用ランニングシューズとして、5000mや10000mといったトラック競技からマラソンまで、多くのユーザーに愛されております。グランフィールド選手のモデルが、これほどまで売れたのには、そちらの力が一番ですよ」

「いえいえ、ありがとうございます。ものすごく時間をかけて考えた名前だというのに、あっという間にその名前とシューズが広がっていくのを見て、あの時はものすごくうれしく思いました」

「ですよね。勝利とか、ボルテージとか、グランフィールド選手が力強く言っていたのが、つい昨日のようです」

 そう言うと、ヒルトップは手を組んでその顔をややヴァージンに近づけた。

「そんな、世界で初めて5000m13分台を刻んだシューズにも、やっぱり限界がきてしまったようです。私どもとしても、あまり想定はしたくなかったのですが、最近発注の頻度が上がっているので気にはなっていたんですよ」

「たしかに、シューズがダメになるのが、早くなったような気がします」

「なので、『Vモード』を、私どもがより進化させてあげたいと、いま思っているわけです。勿論、履き心地などは、寸分の狂いもなくグランフィールド選手に合わせるつもりでおりますので、この話、乗ってみませんか」

 ヒルトップの提案に、ヴァージンはすぐにうなずいた。エクスパフォーマのモデルアスリートの契約を長年結んでいる身としての必然感と、それ以上にこのスポーツブランドへの信頼が、その動きにあふれ出ていた。

「それで、いま開発しているのが、こちらになるわけです。仮の商品名が『Vモード・スーパーエアロ』というものですが、名前は商品のプロモーションイベントまでに、グランフィールド選手に付けて頂いて構いません」

「分かりました。このシューズは、『Vモード』に比べるとどういう違いがあるのですか?」

 ヴァージンは、ヒルトップから差し出された図面を手に取って、少しの間じっと見つめた。すぐ横には、これまで彼女が何百足と履きこなしてきた「Vモード」の図面が小さく書かれている。図面を見る感じでは、つま先より前が「Vモード」よりもわずかにそり上がっているように、彼女には思えた。

「この新しいシューズですが、今の『Vモード』に比べますと、次の一歩をより軽々と踏み出したくなるものと確信しています。着地から反発までの動作を意識して、これまで女子長距離用に限らず、反発力を高めたシューズを開発してきたのですが、ソールの形によって新たなパワーが生まれる可能性を私どもで見つけたのです」

「なるほど……。思い通りに足を前に出せるということですね」

 ヴァージンが何度もうなずくと、彼女が図面で気にしていた部分をヒルトップが指差し、言葉を続けた。

「そうなります。特に、この部分に力は向かうようになっていますから。私個人としては、その新しいパワーを戦闘力と呼ぼうと思っています。グランフィールド選手に例えれば、トラックの上で闘い続ける力と言うことができましょうか」

「闘い続ける力……。今の私に、一番欲しいものがそれです。より速くなろうとトレーニングを重ねているのですが、どこかでシューズのパワーが切れてしまうような気がするのです」

 ヴァージンは、使い物にならなくなってしまったシューズの底を思い出しながら、ヒルトップに告げた。無意識に目を細めたヴァージンに、ヒルトップが納得したようにうなずいていた。

「もう、そんな心配はいらなくなると思いますよ。グランフィールド選手に走り続ける意思がある限り、このつま先の部分で、踏み出すためのパワーを最大限に送り続けるのですから。次々と送られ続けるパワーで、前を行くライバルや、かつてのグランフィールド選手を捕らえ、抜き去っていく。それが、私の考える戦闘力なのです」

 ヒルトップの説明に、ヴァージンは胸の内からゾクゾクしてくるように思えた。トレーニングを終えて時間が経っているにも関わらず、心臓の鼓動が彼女の体にはっきりと伝わってくる。

「ヒルトップさんの話を聞いていると、早く欲しいように思えてなりません。図面を紹介したということは、開発はこれからと考えていいわけですね」

「そうですね。完成品ができ次第、もう一度お声掛けしたいと思っていますが……、おそらくは来年のアウトドアシーズン、いや2月頃をめどに実際に履くことができると思います」

「その時を、楽しみにしています」

 ヴァージンが手を合わせてヒルトップに頼むと、ヒルトップはうっすらと笑いを浮かべながら、小声で言った。

「私も、グランフィールド選手が満足して履いていただけるのを、楽しみにしていますよ」


(新しいシューズ、早く履いてみたい……。少なくとも、今の私の実力に合わなくなり始めているシューズよりは、少しでもタイムを伸ばせるような気がする)

 その日、ヴァージンが家に着くと、「Vモード」のパッケージが積まれているクローゼットに向かった。エクスパフォーマから毎週のように届いているものの、いつの間にか残りが5足を切っており、そのうちの1足がレース用の高性能のものだった。

(これも、最初の時はものすごくパワーのあるシューズだと思っていたのに……、私が前を行きすぎた……)

 「Vモード」を手にして間もないころに、ヴァージンはアメジスタで走り慣れたトレイルランニングのコースで、その圧倒的な力を感じていた。それから5年が経つうちに、ヴァージンの世界記録も、それを追いかけるライバルのスタイルも、全く変わってしまっていた。シューズは進化をしなければならなかった。

(この2週間ちょっとで、「Vモード」は本当の限界を体で知ってしまった。でも、新しいシューズが生まれるまで、出せる限りの力で少しでも前に進まないといけない)

 ヴァージンは、まだ使っていない「Vモード」を手に取り、小さくうなずいた。図面しか見ていない新しいシューズと違い、ヴァージンが持ったとき、燃え上がるようなパワーを彼女の手に伝えていた。

 それから数秒経って、彼女の背後から聞きなれた声が伝わってきた。

「さっきから、クローゼットで何してるんだい?」

「アル……。もうすぐ、このシューズともお別れになるから、ちょっと感傷に浸ってた。私のために開発された新しいシューズが、出来上がると聞いて……、少し寂しくなる」

「『Vモード』が、もう過去のシューズになるんだね。たしかあの名前、僕が思い付きで言った言葉だっけ」

(あ……、そう言えば……!)

 ヴァージンは、その日ヒルトップの前で「時間をかけて考えた名前」と自慢げに言ったことを、本当の名付け親の前で悔やんだ。5年前、カフェの中でアルデモードがさらりと「Vモード」という言葉を口にした瞬間を、二人はほぼ同時に思い出していた。

「そうね……。アルが私のために、本気で戦うアスリートのシューズとか言ってくれたような気がする……。やっぱり、このシューズはアルの……、私へのプレゼントなのかも知れない」

「それは……、どうかな……。作ったの、エクスパフォーマなんだし、その後にボルテージとか勝利とかをイメージしたのはヴァージンだと思う。僕は、少し支えただけ」

 アルデモードは、軽く笑いながらヴァージンに告げた。ヴァージンが持ち上げたままのシューズを、アルデモードは軽く指で触って、小さくうなずいた。

「それよりさ、もうすぐ30歳になる君のために、今日プレゼントを買ってきたんだ」

「プレゼント……?何を買ってきたか、楽しみ。早く教えて欲しいな」

「君のためを思って、ずっと買ってこなかったものだよ」

「私のためを思って、アルが買わなかったもの……」

 ヴァージンがそう言うと、アルデモードは笑みを浮かべながら、テーブルの上に二つ並んだ小さな箱を一つだけ取り、そっと開いた。その瞬間、ヴァージンははっと息を飲み込んだ。

(指輪――!)

「たぶん、少しでも風の抵抗を和らげたい君は、ずっと指輪をしていられないと思うんだ。でも、レースから離れて、僕と二人きりでいる時間だけでもいいからさ、二人の愛の証を、その手に灯そうよ」

 アルデモードは、もう一つの箱を開き、同じ指輪を取り出し、それをヴァージンの右の人差し指に届けた。それからすぐに彼自身の同じ指にもはめ、指輪に包まれた人差し指を並べた。

「これが、私たちの結婚指輪になるのね」

「そうだね……。アメジスタから世界に出た僕たちの、永遠の愛がこの指輪に刻まれているよ」

「分かった。私、家の中では絶対にこれをつけてるね」

 二人は、指輪をはめた手を絡め、そっとうなずいた。

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