第58話 トップスピードを超える力(4)
ヴァージンの5000mタイムトライアルと、メリアムの1500mタイムトライアルが、同じトラックの中で行われようとしていた。ヴァージンのスタートラインから100m後ろで、メリアムがウォーミングアップを始めている。メリアムは、ヴァージンが3500mを過ぎたと同時に、その外側からスタートすることになっている。
(メリアムさんは、私が4000mを過ぎるまでは私よりも前に出る。そこで、メリアムさんにつられてスピードを上げるわけにはいかないし、今までと同じように、最後の1周でどれだけスピードを上げられるかも大切……)
ヴァージンは、後ろで「今は別々にトレーニングを行っている」メリアムを一目見る。軽々しくストレッチを行いながら、彼女の紫の髪が、トラックの上を流れていく風になびいている。
ヴァージンが視線を元に戻したとき、スタートラインの横でマゼラウスが号砲を上げた。
「On Your Marks……」
ヴァージンの目が、少しだけ細くなる。タイムトライアルのスタートだ。
(よし!)
号砲が鳴ると、ヴァージンはこれまで何度も意識し続けてきたラップ68.2秒のペースまで一気に加速する。体がそのスピードを感じたとき、ヴァージンはそのストライドをほとんど狂いなく一定にさせた。そして、そのまま二つ目のコーナーに差し掛かる。
(メリアムさんがいる……。最後の1500mだけ、勝負しなければいけない相手……)
ヴァージンはメリアムの横を、スピードを落とさずに走り抜ける。これから何度もその横を通るものの、最後の調整に入ったメリアムの表情をそれ以上は気にしなかった。それよりも、彼女は1対1の勝負になったときにメリアムがどのように走っていくのかが楽しみで仕方なかった。
(もしメリアムさんが、私の目指しているトップスピードまで上げないと勝てないような走りをするのなら、それはそれで私にとって新しい挑戦になるはず……!)
ヴァージンは、その時を待った。2000mを過ぎ、3000mを過ぎた。そして、3100mのラインをヴァージンが通り抜けたその後ろで、メリアムがトラックの内側から出てくるのを感じた。
「ヴァージン、3500m!メリアムとの勝負だ!」
その先でメリアムが参戦しようというコーナーに差し掛かったとき、トラックの内側からマゼラウスが大声でヴァージンに告げる。その瞬間に、ヴァージンははっきりとうなずき、第3レーンにいるメリアムをじっと見た。
(私は、いつものようにスパートでメリアムさんに追いついてみせる!)
その言葉を自らに言い聞かせたとき、ヴァージンはちょうど3500mのラインを駆け抜けた。同時に、トラックの外側から号砲が鳴り、外側からメリアムが迫ってきた。
(この場所から迫ってくるなんて、いつもならあり得ない。でも、今日はこんなことを意識していられない)
メリアムのスピードは、ヴァージンの目から見るにラップ64秒から65秒のペースだった。直線から次のコーナーに出ようという時には、既にメリアムの体がヴァージンよりも前に出ており、そのままメリアムが抜き去っていった。それでも、ラップ68.2秒のヴァージンは、その時点で動こうとはしなかった。
(後で、トップスピードでメリアムさんを追い詰める。今日は、そのために戦っている!)
そして、勝負の4000mが迫ってきた。メリアムは、ヴァージンよりも4秒ほど先にその地点を駆け抜けており、差は15mといったところだ。メリアムのペースは、相変わらずラップ65秒を少し上回るほどだ。
(今は、まだコーチの言ってた「33・62・55」は厳しい。でも、それに近づける姿勢は見せたい……!)
体感的に4000mを11分23秒で通過したヴァージンは、4000mのラインを踏み込んだ瞬間、スピードを一気に上げていった。ラップ65秒ペースはメリアムよりも少し遅いものの、これまでじりじりと広げられていた差がほとんど広がらないのを、ヴァージンの目ははっきりと感じた。
(次は、4400mよりも前にラップ62秒のペースに切り替えよう)
4400mよりも50m以上手前、ヴァージンは直線でさらにギアを上げた。ラップ62秒のペースでも、足の裏に全く重みを感じない。徐々にメリアムの背中が大きくなる中で、ヴァージンは早くも最後のスピードを意識した。
(ここからが、私の本当の勝負……。メリアムさんを、実力で抜き去る!)
4600mのラインが近づき、ラスト1周の勝負が始まろうとしている。15mついていた差は、ほとんどなくなっていた。ヴァージンがペースアップした瞬間に、メリアムを追い抜くのは間違いないかのように思えた。
だが、4600mのラインをメリアムが駆け抜けるよりも前に、メリアムは勝負を仕掛けた。
(メリアムさんが、ここでスパートをかけた。1500mしか走らない分、力が余っているはず……!)
ヴァージンは、目を細める。足に携える「Vモード」のボルテージが、目の前で突き放すライバルを前に、一気に高ぶっていた。そして、スピードを上げたいという気持ちが、彼女の全身に伝わる。
(行くしかない……。私の限界を、メリアムさんに見せつける……!)
ヴァージンは、右足で力強くトラックを叩き、4600mの少し手前からスピードを上げた。コーナーの途中でメリアムを捕らえたときには、既に彼女の体はラップ57秒――かつてのトップスピード――を感じていた。
(もっと速く……、私の限界は、こんな程度じゃない……!)
メリアムを追い抜いてもなお、ヴァージンはスピードを緩めなかった。一度感じたスピードを切り裂いていくかのように、より素早く足を叩きつけ、新たなスピードにその体を乗せていった。
(私は……、新しいスピードに乗っている!)
(……っ!)
ゴールを駆け抜けた瞬間、ヴァージンは荒い呼吸のままトラックの外に出て、芝生の上に倒れこんだ。それから数秒して、後からやってきたメリアムがヴァージンの顔を上から覗き込んだ。
「無理しすぎてたじゃない……。グランフィールドがあれだけのスピードを出せるなんて、想像できない」
「メリアムさん……。限界まで、スパートの精度を上げようと思ってるんです……。最後、少しだけ冒険したくなったんです……」
「ならいいけど……。アスリートの限界は、最後は自分の体で分かるはずのものよ」
そう言い残して、メリアムはヴァージンから視線を反らした。すると、入れ替わりにマゼラウスがストップウォッチを持って、ヴァージンの横で中腰になった。
「ヴァージン。公式には認められないが、世界記録が出た。13分55秒26だ」
「55秒……!」
ヴァージンは、倒れこんだ体を起き上がらせようと、右手に力を入れた。だが、次に足を芝生に付けようとしたとき、かつて経験したことがないほどに、足の裏が重くなったように感じた。「Vモード」の底からエアーが全く出てこないどころか、全ての力を使い果たしたかのように、そのギアは摩耗していた。
(55秒と引き換えに、「Vモード」が耐えられなくなっている……。私は、もう少しだけスピードを上げようと思ってるのに……)
数日前にマゼラウスから言われていた、「ラスト1000m2分30秒」がクリアできていないのは明らかだった。それまでスピードアップをやめるつもりは、彼女にはなかった。だが、ギアのほうが限界を見せ始めた。
(私が、メリアムさんとの勝負で無理をし過ぎたのもあるかも知れない……。これ以上タイムを上げるには、無理なくスパートを決めることまで考えないといけないのかも知れない……)
10月、11月になり、日中も徐々に肌寒い気候になり始めた。この頃にはラップを上げるトレーニングよりも、スパートを上げるトレーニングが効果的だと、マゼラウスも口にするようになり、ヴァージンはあの日言われた
スパートにできるだけ近づけるよう努力し続けた。
だが、トレーニングで出した過去最高タイムの先に待っているのは、力を使い果たした「Vモード」の姿だった。シューズの底をトラックに強く叩きつけるのをなるべく避けるようにしても、ギアに待っていた結果は同じだった。
「あれ……?」
ヴァージンは、体を起こそうとしたとき、遠くでヒルトップが彼女を見つめているのを感じた。エクスパフォーマ・トラック&フィールドの中心にいる人間が、声に出さずしてそっと彼女を呼んでいたのだった。
(これはきっと、私のシューズの悩みも聞いてくれるのかも知れない……。モデルアスリートが、エクスパフォーマのシューズが限界になってるなんて、ヒルトップさんは絶対に放っておけないと思う)
ヴァージンは、クールダウンが終わるとその足でヒルトップのもとに向かった。壊れてしまった「Vモード」の入った袋をその手に吊るしながらヒルトップの前までやってくると、ヒルトップが声を掛けた。
「グランフィールド選手、お久しぶりです」
「お久しぶりです」
「一生懸命頑張るグランフィールド選手に、私どももそのシューズが付いていけないのを、今もの凄く悔やんでおりまして……、今日はその話に来たんですよ」
「そ、そうですか……。ありがとうございます」
言うが早いか、そのことを察していたヒルトップに、ヴァージンは何度も頭を下げるしかなかった。