第58話 トップスピードを超える力(3)
それから数日後、ヴァージンは再びトレーニングセンターのトラックに立った。3回ほど試した、序盤のラップを上げるラップトレーニングから一転、この日からは残り1000mから見せるスパートの精度を上げるトレーニングへと移ったのだった。
「走る前に、確認しておこう。お前が最後の1周で意識しているラップタイム、今も57秒か?」
「はい。10年くらい57秒を意識しています。それに最低でも、60を切れるようなスパートを目指しています」
「なら、そのスピードをより上げてみよう。お前の体が、本当の限界を感じるまで」
本当の限界、という言葉を耳にした瞬間、ヴァージンはマゼラウスを見つめる目を、少しだけ細めた。どうすればいいか、その言葉だけで彼女には分かった。
「お前は、その10年でどれほどの世界記録を叩き出したか、分かっているはずだ。だからこそ、トップスピードだって、昔は苦しかったものも苦しくなくなっているはずだ。だからこそ、トップスピードをより高めることを意識してほしい。いいな」
「はい」
ヴァージンがうなずくと、号砲を持つマゼラウスの手が上がった。それから数十秒も経たないうちに、これまでとは全く違う5000mタイムトライアルが始まった。
(最後の1000mまでは、今まで慣れ親しんだラップ68.2秒で走り続ける。そこから先は、よりペースアップしないといけない。特に、ラスト400mに力を入れないと……)
最初のコーナーまでの間に、彼女は心の中で言い聞かせ、あとは慣れたスピードでトラックを駆け抜けていく。たとえそこまでのラップをそれほど意識しないトレーニングであっても、最速女王の両足がそこまでの道のりで妥協することはなかった。
(どれだけのトップスピードを出せるか……。私は、限界に立ち向かう!)
4000mを駆け抜け、ヴァージンは普段から見せているように、まずラップ65秒のペースへとギアを上げた。そして4400mを過ぎようとしたときには、ラップ62秒のペースへと駆け上がる。その時には、もう彼女の頭には次のスピードのことばかり頭に思い浮かべていた。
(4400mの通過タイムが、体感的には12分28秒くらい……。もしいつも以上のトップスピードを出せたら、トレーニングで次の世界記録を見せられるかもしれない……)
やがて、マゼラウスの姿が見えてきた。4600mのラインが、彼女の目に迫る。
ヴァージンは、「Vモード」の底をトラックの上に力強く叩きつけた。ストライドを一気に広げ、彼女は一気にトップスピードに挑んでいく。
(57秒……、もう少し上に行きたい……!)
体では、はっきりと風を感じている。踏み出していく足もまた、普段意識しているよりも少しだけ速いペースで突き進んでいるように思えた。コーナーを曲がり切ったときには、彼女はスピードに乗っていると確信した。
だが、ストップウォッチを持ってやってきたマゼラウスの表情は、決して喜んでいなかった。
「最後の1周が57秒03。トータル13分58秒23。普段だったら褒められる数字だが、今日は褒められない」
「57秒を切ってなかった……ですか」
呼吸を整えながらも、ヴァージンは力なくそう答えた。ヴァージン自身がいま出せるトップスピードだと思ったにもかかわらず、そのペースはこれまでの彼女と全く変わっていなかったのだった。
「たしかに、スパートに力強さはあった。懸命に体を前に出そうとしていた。だが、お前のスピードは、いつも私が見ているときよりもほんの少ししか上がっていないということだ」
マゼラウスは、そこまで言って首を横に振った。その時、ヴァージンの踏みしめる「Vモード」から、走り終えた後にもかかわらず、はっきりとパワーが突き上がってくるのを感じた。
(シューズには、まだ力が残っている……。あとは、その力をどれだけ私の脚に伝え、スピードに変えるか……)
それからヴァージンは、ほぼ毎日のように「トップスピードの限界を意識した」タイムトライアルに挑んだ。二回、三回と挑んだところで、長年意識し続けた57秒台から抜け出すことはできなかったが、彼女の体が意識するスピードははっきりと上がっていたのだった。
そして、タイムトライアルを始めて2週間近くが経った日、ヴァージンがゴールラインに飛び込んで数秒もしないうちにマゼラウスが激しく手を叩いたことを、彼女の耳は気付いた。
「最後の1周、56秒47!トータル13分56秒83!やったじゃないか!」
「56秒で走れた……!今日こそは、なんか走れたような気がしたのですが……、数字に残せました!」
「そうだな。もう7回目の挑戦になるが、今日が一番スピードを出していたような気がする。それが、お前の出せる、今現在のトップスピードだということを、お前自身も意識できただろう」
「はい」
ヴァージンは、上がっていた息を何度も吐き出しながら、ようやく首を縦に振った。それからマゼラウスの表情を見ると、マゼラウスは徐々に目を細め、何かを言いたそうにヴァージンを見つめていた。
「ただ、これがこのトレーニングの終わりではない。たった1秒弱で、精神的な余裕には程遠いと思っている」
マゼラウスは、ヴァージンを手招きし、左の胸ポケットから小さな手帳を取り出した。栞を引っ張ると、そこには大きな文字で三つの数字が書かれていた。
「33……、62……、55……。最後1000mでこのペースを目標にするということですか」
「お前には簡単すぎた謎だな。4000mから4200mを33秒、それから4600mまで62秒、最後1周を55秒で走れれば、おそらくお前のスパートはより圧倒的なものになるはずだ」
そう言うと、マゼラウスは小さくうなずいた。ヴァージンもそれに合わせるようにうなずくと、マゼラウスはもう一度彼女の目から見える場所に、手帳の数字を差し出した。
「ところで、この三つの数字を全部足すとどうなるか、分かるか」
「はい……。150……、つまり2分30秒ということですね」
「そういうことだ。これまでは、お前が意識し続けたペースでは33秒、あるいは34秒くらいになっていたが、それを最後の1000mだけで3秒以上縮めるということだ。しかも、その2分30秒というのは、目標ではない。絶対守らなければならないスピードだ」
(2分30秒。これをクリアできてこそ、本当の意味で私のスパートがライバルたちを引き離す武器になる……)
マゼラウスの言葉にうなずいたとき、ヴァージンは5000mではこれまで出したことのないラップ55秒のペースを頭の中に思い浮かべていた。たしかに、トレーニングでは400mダッシュを行ってきたものの、それは400mだけを全力で走るトレーニングであり、逆にラップ55秒を意識できないメニューと言わなければならなかった。つまり、彼女はそのペースで走ったことなど、全くと言っていいほどなかった。
(でも……、ラップ56秒を出せた私は、もっとペースを上げれば、55秒台だって出せるはず……!)
ヴァージンは、両手を軽く握りしめた。より強くなりたい、と心の中で言い聞かせた。すると、その叫びが終わりかけたとき、マゼラウスが再びヴァージンに告げた。
「おそらく、いま私が言ったことに、少しは戸惑っただろう。だから、一度だけお前のペースメーカーをお願いした。お前の、ライバルにな……」
「ペースメーカー……。つまり、ラップ55秒で走るような人が、横に付いているってことですか」
「いや、そうではない。お前の闘争心を、最後の1000mで発揮させるような存在だ」
「それは、誰ですか……」
ヴァージンは、小さな声でマゼラウスに尋ねた。マゼラウスの口がそっと動き出した瞬間、ヴァージンはすぐにそのライバルの名を確信するのだった。
「メリアムだ。しかも、お前と同時に、最後の1500mを走ってもらうことになった」
「い……、いいんですか……。メリアムさんだって、トレーニングがあるはずです……」
「大丈夫だ。メリアムも、久しぶりに1500mに出ることになり、最後の400mでのスパートに悩んでいるそうだから、1500mの練習の時にお前と走りたいと言っている」
「そうだったんですね」
ヴァージンがイーストブリッジ大学に入る前、メリアムの専門種目は1500mだったことを、改めてヴァージンは思い出した。最近は5000mに出るばかりで、ほとんど1500mに出場してこなかったが、1500mで活躍し続けたことは、多くの選手が覚えていた。
「ここでのメリアムとのレースは3日後。私も、メリアムのコーチも、それで大丈夫だと言っている。あとはお前自身が勝負をするか、決めて欲しい」
「なんか、こういう経験は初めてかも知れませんが……、やってみます!」
「よし、これで決まりだな!3日後、昼前に同じトラックでレースを行う」
マゼラウスの甲高い声が、トレーニングセンターに響く。ヴァージンは、これまで5000mでしか戦ったことのない「中距離選手」の姿をはっきりと思い浮かべていた。