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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
最速女王の脚 さらに加速する
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第58話 トップスピードを超える力(2)

「まず、68秒のラップトレーニングから始める。68秒のスピードは、意識したことがあると思うが、大丈夫か」

「大丈夫です」

 ヴァージンは、自信を持ってそう言った。これまで5000mのときは、ラップ68.2秒を意識してきただけに、それより0.2秒速く走ることになるが、レース中で何度も意識したラップだっただけに、すぐに首を縦に振る。

「なら、いつもと同じように守れなかった時点でそこで止めるからな」

 ヴァージンは、軽くウォーミングアップを済ますと、マゼラウスに招かれるままにスタートラインに立った。これまで同じスタートラインに何千回と立ったが、トラックを踏みしめた彼女の足は、新たなスピードを模索し始めていた。どれだけの力を出せばいいか、心の中で脚に言い聞かせる。

「On Your Marks……」

 マゼラウスの口から号令がかかる。ヴァージンは、踏みしめるトラックに神経を集中させた。

(ラップ68秒……。きっと、すぐに慣れるはず……)

 マゼラウスの手から号砲が解き放たれると、ヴァージンは懸命にスピードを上げた。これまでラップ68.2秒で落ち着かせていたペースよりも少しだけ速くし、これまでよりも少しだけ短いインターバルで足を前に踏み出していく。最初のコーナーを曲がりきる前には、彼女の体はこれまでとは全く違うスピードを感じていた。

 だが、最初の3周を終えかけたとき、彼女はペースが再び元に戻ってしまうのを感じた。

「ダメだ!ダメ!3周で元に戻ったじゃないか!」

 1200mの先にあるコーナーに差し掛かったヴァージンを、マゼラウスの鋭い声が止めた。察していたかのように止まったヴァージンに、マゼラウスがストップウォッチを見せると、そこには3分24秒19と書かれていた。

(0コンマ19が余計……。やっぱり、68.2秒のラップに落ち着いてしまう……)

 長く意識してきたスピードを変えるのは、それがほんのわずかであっても、一発クリアは難しかった。その経験を何度も積み重ねてきたヴァージンは、すぐに反省点を思い浮かべ、翌日の再チャレンジに臨むことにした。


 翌日の再チャレンジでは、5周どころか8周を過ぎてもマゼラウスから声がかからなかった。それどころか、ヴァージンの体は序盤のスピードから全く落ちていないことに気付いた。

(2回目で、ラップ68秒のペースが守れている……。意識するだけで、0.2秒のラップをクリアできるかも……)

 そう思って、ヴァージンは徐々に近づいてくる4000mのラインをじっと見つめた。前日マゼラウスから話があったように、4000mより手前からスパートを始めれば最後に伸びなくなるため、4000mのわずか10m手前までは一切スピードを変えずに進んでいった。

 そして、いつものように「Vモード」を力強く踏み出していった。

(ここから思い通りにペースを上げられてこそ……、本当のクリアのはず……!)

 体感的に、4000mを11分20秒で駆け抜けたヴァージンは、足を一気に前に踏み出し、スパートを始めた。だが、ラップ65秒までペースを上げたとき、彼女は靴底にかかる力がこれまでよりも一気に重くなったことに気付いた。普段であれば、このペースでは「Vモード」から呼吸さえ聞こえてくるはずのところだった。

(やっぱり、ここまででパワーを使いすぎている……。足から力が消えていくのがはっきりと分かる……)

 マゼラウスの「前へ!」「次のスピード!」と叫ぶ声も、ほんのわずかの力にしかならず、そこから先のヴァージンは少しずつしかスピードに乗ることができなかった。4600mを過ぎて最後の1周に差し掛かった彼女は、スピードを上げるためにもがき苦しみ、ラップ59秒のスピードをほんの数秒、体で感じるだけに終わった。

(やっぱり、ラップ68秒からのスパートは無理がある……)

「14分01秒83……。やっぱりお前は、ラップ68秒に神経が行き過ぎて、スパートをうまく使いこなせなくなっているようだな……」

 首を横に振りながら、マゼラウスがストップウォッチを見せにやって来ると、ヴァージンは首を小さく横に振った。体感的なタイムが分かっているだけに、タイム自体は想定の範囲内だったが、改めてマゼラウスの口から「14分」という言葉を聞いただけで、彼女は目に小さな涙を浮かべた。

「足から……、力がなくなっていくような気がしました……。最後に残っているはずの力が、どこに行ってしまったかも分からなくなるくらい、最初からのラップを意識しすぎてました」

「そうか……。本当は、メリナのラップまで意識できればと思っていたが……、68秒でもお前には辛いか」

 ヴァージンは、首を小さく縦に振った。メリナのラップがどれだけのスピードか分かっているだけに、ヴァージンは「でも辛い」の一言を重く受け止めざるを得なかった。


(メリナさんは……、もう中距離走のペースに近づきつつある……。それを最初から意識しようとすると、いま以上に無理が来るのかも知れない……)

 その翌日のラップトレーニングで叩き出したヴァージンのタイムは、14分02秒13と、前日よりも悪いものになっていた。マゼラウスがストップウォッチを見せる前に、彼女は自分の足元を見つめ、「敗因」を考えた。

「やっぱり、前のラップのほうが、より強いスパートが出せると思います。まだ慣れていないだけかも知れませんが……、今のままだと、4000mまでのペースも、そこからのペースも、どちらもメリナさんに負けてます」

 ヴァージンが3回目にして早くも言葉を残した瞬間、マゼラウスは腕を組んで考えた。

「そうだな……。やっぱり、お前の最大の武器を、序盤のペースアップで奪われるのは、よくないことだ」

 しばらく考えるようなしぐさを見せた後、マゼラウスはヴァージンの目を見つめた。

「やっぱり、お前は最初からペースを上げる戦い方で、メリナに挑むべきではないのかも知れない。とりあえず、次回のトレーニングからは、スパートそのものの精度を高めよう」

「分かりました」

 マゼラウスは、ヴァージンの声にはっきりとうなずいた。


(やっぱり、私の走るスタイルは、後半伸びていくペースなのかな……)

 その夜、アルデモードがシャワーを浴びているとき、ヴァージンは一人でソファに座りながら、自らの作戦を考えていた。ラップ68秒をほぼ守れたにも関わらず、14分台しか出せなかった彼女の足は、その時に感じた重さをはっきりと覚えていた。

(少なくとも、今のままじゃメリナさんを上回ることはできない……)

 ヴァージンが天井を見上げると、メリナの大きな背中がはっきりと見せた。これまでヴァージンが見せてきたスパートでもなかなか縮められない、メリナの本気。それがどれだけ強いか、ヴァージンには分かっていた。

(だからこそ、私はどこかで底上げしなきゃいけないのに……)

 その時、電話が鳴った。メドゥからだった。

「ヴァージン、もしかして落ち込んでない?」

「大丈夫です。まだ、私のスタイルを決め切れてないだけなので……、そこまで深刻には思っていません」

 おそらく、メドゥの隣にマゼラウスがいると察したヴァージンは、やや声を高くして作り笑いを浮かべた。だが、メドゥの声があまりにも心配そうだったためか、途中で声が徐々に低くなっていった。

「なら……、いいけど……。今日は、そんな落ち込んだヴァージンに、次のレースの相談を持ってきたわ」

「次のレースですか……」

 アメジスタから招集があったため、ヴァージンは今のシーズンのレースを全く申し込んでいないことに気が付いた。申込の〆切はとうに過ぎており、次のレースはインドアシーズンを待たなければならなかった。

「どれくらい、申し込もうとしていますか」

「そうね……。さっきマゼラウスにも確かめて考えた案なんだけど、まずインドアで1月のイーストフェリルを入れようと思ってる。アウトドアシーズンに入って、4月にラガシャの5000m、5月にネルスで10000mのエントリーを考えているんだけど……、大丈夫?」

「大丈夫です。少しでも多くのレースに出たいです。私の活躍をアメジスタに伝えるたびに、スタジアムの建設もスピードアップするかも知れませんし」

「ならよかった。あとは、最近始めたラップトレーニングがどれだけ身に付くかにかかってるから、アウトドアシーズンまで気を抜いちゃいけないわ」

「分かりました」

 メドゥとの電話が切れると、ヴァージンはいつの間にか天井を見上げるのをやめていることに気付いた。メリナとの勝負がそれだけできるということ、そして早く彼女自身の新しいスタイルを確立し、再び世界記録更新への道を突き進むチャンスがそれだけ生まれることを、ヴァージンは早くも意識していた。

(私は、メリナさんを上回るスパートを見せる……。自分の限界は、自分が破るしかないのだから……!)

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