第57話 夢破れたアメジスタに 陽はまた昇る(7)
世界競技会が終わり、ヴァージンにはもう次のレースの予定はなかった。日に日に悪化していく祖国を前に、シーズン終盤にあたる秋のレースに申し込む気になれず、彼女はメドゥにもしばらく走れないことを伝えていた。
そして残ったのは、スタジアム改修推進派から届いた、アメジスタ行きの片道の航空券だけだった。2週間後に、そのチケットを使うかどうか、ヴァージンはスタジアムから戻った瞬間から考えていた。
(どうしよう……。私、行きたくなんかないし……、戦争なんて望んでないのに……。やっぱり、最初にスタジアムの夢を語った以上、アメジスタの戦争から逃げることはできないのかも知れない……)
その日、アルデモードから慰められたこともすべて忘れ、寝付けぬ夜が過ぎていった。そして、朝になった。
「ヴァージン、起きてよ!ほら、アメジスタが……、アメジスタが……!」
ヴァージンは、アルデモードにたたき起こされるようにベッドから起き上がった。そして、自らの生まれ育った国を連呼する彼の声に導かれるように、テレビの前まで駆け付けた。
テレビには、ファイエルが涙を流しながら映っていた。
「ファイエルさん……、どうして泣いてるんだろう……」
ヴァージンは、震えながらアルデモードに尋ねた。すると、アルデモードは微笑みながら告げた。
「終わったんだよ、戦争が。それも、ヴァージンのあの言葉でね」
「嘘でしょ……。私、あのインタビューで自分の想いを伝えただけなのに……、どうしてそうなるの……?」
ファイエルは、既に会見を終えており、テレビからは音声が全く流れなかった。ヴァージンは、前日プレスルームで語ったことを一つ一つ思い出そうとしたが、不思議なくらいに、ほとんど覚えていなかった。
「それは……、たぶんヴァージンが一番、アメジスタのことを考えていたからじゃないかな……」
「それだけは、言えるかもしれない……」
その後、ヴァージンはアメジスタの戦争が終結したことを様々なニュースで確認したが、どれもスタジアム推進派が一方的に降参したという論調ばかりだった。ヴァージンの夢は敗北し、彼女がずっと夢見てきた、荒れ果てたスタジアムの改修は、今回の戦争でどこか別の時間軸へ行ってしまったように思えた。
(戦争は終わり、これからアメジスタの日常がまた動き出す……。でも、失ったものが多すぎる……)
次のレースがないだけではない別の理由で、ヴァージンはそれから数日間、トレーニングセンターでも軽い調整しかしなかった。マゼラウスとのトレーニングも行わなかった。
(アメジスタのスタジアムは、難民があふれ、人が死に絶えている……。彼らにはここから戻る場所がない……。グリンシュタインの復興が先になるから、少なくとも数年は建設に移れない……。それに……)
トレーニングセンターからとぼとぼと帰る、望んでもいない勝負に敗れたトップアスリートが、そこにはいた。推進派の降参がニュースで伝わってから、ヴァージンは道行く人と目を合わせたくなかった。
(私は……、私たちは……、アメジスタの希望は……、戦争の末に負けた……)
疲れ果てたヴァージンは、家に帰り、そのままパソコンを開いた。レースが終わってから一度も開いていないメールを、彼女はタイトルだけ見ようとした。だが、タイトルだけを見て、画面を閉じるわけにもいかなかった。
――頑張れよ、ヴァージン!頑張れよ、アメジスタ!俺たちがついてるよ!
――私も、グランフィールド選手の言葉を聞いて、思わず震えました。スポーツには、平和な世界で血を流さずに勝負ができる、そんな素晴らしい力があるということを、私は忘れていました。グランフィールド選手の故郷にスタジアムを作りたいという夢は、決して間違ってないはずです。
――もし、アメジスタにスタジアムを作ると決まったら、僕はその力になります。それだけじゃなくて、世界中がアメジスタを応援しています。夢ある場所が一つもない国から、たった一人で世界に旅立ったアスリートの夢を、このままにしていいはずがありません!
(みんな……)
ヴァージンの夢を支える、数多くの言葉がメールに綴られていた。ファイエルの会見が終わってからも、それでも夢を諦めないと信じるメッセージが寄せられていた。
(大丈夫。私、夢を諦めてなんかない……。止めたかったのは、そんなことで戦争をすることだけだった……)
ヴァージンは、その全部を読んでから、ようやくパソコンの前から立ち上がろうとした。その時、アルデモードが練習から戻ってきた。彼の手には、遠くからもファイエルの筆跡と思われる封筒が握られていた。
「この字、本当にお詫びなのかな……。勝てなかった、夢を守れなかったお詫びじゃ……ないと思うけど」
宛名は、しっかりとした書体で書かれてあった。まるで、何かを訴えるように、前向きなイメージのする筆跡だった。そして、ヴァージンが中を開くと、そこにはすでに渡された航空券の1週間後の日付が書かれた、帰りの航空券と、丁寧な字体で書かれたファイエルのメッセージだった。
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ヴァージン・グランフィールド様
遠い異国の地で、俺たちのアメジスタを背負って戦っていると思います。
いかがお過ごしでしょうか。
今日は、残念な報告をするわけではありません。
おそらく、アメジスタ以外の多くの国では、俺たちが力で負けたと報じられているはずです。でも、実際はそんな理由で俺たちが降参したわけではありません。
俺たちみんなが、グランフィールドの夢を、思い違いしていたことだと思います。
グランフィールドが答えていたインタビューを、アメジスタにやってきた様々なメディアが、生中継で見せてくれました。その瞬間だけは、俺たち推進派も、反対派も、手を止めて見ていました。
グランフィールドは、スタジアムの建設を誰よりも夢見ていたけれど、このような戦争は誰よりも望んでいなかったはずです。戦争をしなくても、勝負ができる場所のために、俺たちアメジスタ国民は戦争をし、人や街を奪ってしまったのです。
それが間違いだと気付いたとき、俺たちに戦争を続ける意味はなくなりました。最大の支えを、俺たちはずっと勘違いしてきたと思うのです。
グランフィールドの夢は、間違っていません。
それだけは、分かってください。
最後になりますが、グランフィールドがアメジスタに戻ってくるはずの日に、和平式典を大聖堂の前で行うことに決まりました。
アメジスタはもう、ほとんど安全な国に戻りました。
俺たち推進派だけじゃなく、反対派も、グランフィールドがやってくることを楽しみにしています。あれだけ素晴らしいことを、アメジスタの人々に教えてくれたのですから。
日常に戻るための、帰りのチケットも入れました。ご安心ください。
では、また。
アメジスタ人がまた希望を抱けるように応援したい ファイエル
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(ファイエルさんに……、私の言いたかったことが伝わった……。もう少し早く伝わればよかったけど……)
手紙の上には、ヴァージンの涙の後が、いくつも溢れていた。それから彼女が一度うなずくと、本番で出せなかった分まで、全身から力が湧き上がっていたのだった。
アメジスタに着陸する飛行機から、グリンシュタインの街並みを見た。大聖堂こそどちらの陣営も守ったものの、それ以外の市街地はほぼ失われていた。タクシーで通れる道も限られ、聖堂まで大きく迂回しながら進んでいった。
(戦争は、全てを奪ってしまう……。私は、何も間違ってなかったのに……)
やがて、目の前に聖堂の尖塔が見えてきた。もはや、夢語りの広場すら跡形もなくなった空間に、ヴァージンはタクシーから一歩足を踏みだした。
その時、ファイエルがヴァージンを見つけ、彼女にゆっくりと近づいた。その横にはもう一人、ネットのニュースでしか見たことのないジャイルズ保守党党首が並んでいた。
(二人が……、並んでいる……)
ヴァージンがかすかに息を飲み込むと、そこには多くのアメジスタ人が、武器を持つことなく、拍手で彼女を出迎えていた。まるで、この和平式典の主役がヴァージンであるかのようだ。
「俺たちのアメジスタを背負い続けてきた、女子陸上、ヴァージン・グランフィールド選手です!」
ファイエルの紹介と同時に、ヴァージンは様々な方向に頭を下げた。すると、拍手の音はさらに大きくなり、その後ジャイルズがヴァージンの手を取ったときに言った挨拶すら、注意深く耳を傾けないと聞こえないほどだった。
「では、早速……、その前で戦争の終結を……宣言します」
「アメジスタは、もうこれ以上、醜い争いごとをしないと誓います」
アメジスタ議会から対立し続けた二人は、しっかりと握手をした。そして、その手をほどくと、二人が同時にヴァージンの手を取り合った。
「私だって……。アメジスタ国民として、アスリートが勝負できる、平和な世界をずっと願っています……」
ヴァージンは二人の手を同時に握りしめ、手をつないだまま両腕を高く上げた。彼女は、自分がどれだけ高く腕を上げたかも分からなくなるほどだった。
すると、ファイエルとジャイルズが目を合わせ、静かに笑った。それから二人は、繋いでいない手で観衆をなだめた。それを見たヴァージンは「何か重要なことを言う」と、すぐに感じた。
それから、またファイエルとジャイルズが目を合わせ、同時に口を開いた。
「グリンシュタイン復興の象徴として、何もかもが失われたこの地に、世界一の陸上競技場を作ります!」
(――っ!)
ヴァージンは、思わず繋いでいた両手を離し、その両手で口を押えた。何が起こったのか分からず、息を飲み込んだまま二人を見つめるしかなかった。
その中で、二人は声を揃えながら、発表を続けた。
「武器を使わずに、暴力に訴えることなく、世界中のライバルたちと勝負をするのが、陸上競技場の役目です。それは、立て続けに戦争の悲惨さを知ってしまったアメジスタだからこそ、作るべきじゃないかと思うのです。立場の違いを乗り越え、分かち合って、アメジスタは一つになるべきだと思うのです!」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ヴァージンは口に当てた手を滝のような涙で潤しながら、二人に小さく頭を下げた。
「ありがとうございます……。これが……、私が……、一番……」
声にならない言葉を伝えながら、ヴァージンは心の中ではっきりと確信し、そして誓った。
いつかアメジスタで、世界中のライバルと勝負ができるのだと。
自分自身も、その場所を駆け抜けたいと。