第57話 夢破れたアメジスタに 陽はまた昇る(6)
オメガセントラルのスタジアム、女子5000m決勝。スタートと同時に、ヴァージンはメリナに先を越されないように、普段から意識するラップ68.2秒よりも少しだけ速いペースまで高めた。右側からメリナが迫ってくるが、コーナーを駆け抜けるまでヴァージンはメリナをかわし続ける。
だが、直線に入った瞬間、コーナーで少しずつペースを上げていたメリナが軽々とした足取りでヴァージンの前に立ち、ラップ67.5秒ほどのペースでレースを引っ張った。それでも、ヴァージンは焦らなかった。
(この前のネルスでは、終盤にここからさらにペースを上げられ、私は追いつくことができなかった……。でも、いつもより早いところからスパートを始めれば、間違いなく追い越せるはず……)
このところ、トレーニングでは68.2秒のラップを意識しても、徐々にペースが落ちていくように感じた。だからこそ、この日のレースでは何度も今のペースを確かめ、おそらくそこからペースが落ちてこないであろうメリナに食い下がらなければならなかった。
だが、レースは4周目にして、早くもヴァージンの予想していない展開になった。コーナーを通過しているときに、右側からカリナが一気に飛び出してきた。
(カリナさんが、ここでペースを上げる……。たしかに、カリナさんはよくスパートを伸ばしてくるけど……、レースの序盤で前に出るとは思わなかった……)
カリナのペースは、ラップ67.5秒より少しだけ速い。姉のメリナを、中盤で早くも捕らえてしまいそうな勢いだ。その中で、ヴァージンはペースを守りながら、終盤勝負に持ち込もうとしていた。
(2000mを、5分42秒、43秒くらい……。最近のトレーニングをはるかに上回るペースで進んでいる……)
2000mを過ぎた頃には、メリナとヴァージンとの差が30m近くにまで開いていた。それどころか、カリナがメリナの背中にぴったりとくっつき、メリナの様子を伺っているようだ。
(メリナさんは……、どこでもう一段ギアを上げてくるだろう……。そうなったとき、私だってペースを上げる)
直線に入ると、メリナがスピードを上げたとしても、カリナの背中が邪魔してはっきりと見えてこない。それだけが、ヴァージンにとって数少ない不安要素だった。コーナーのたびにメリナのペースが変わっていないかを見るため、ヴァージンは一瞬だけトラックの内側に目をやるのだった。
そして、その時は来た。3000mを抜けた直後、メリナがヴァージンに堂々と見えるように、コーナーでペースを上げ始めた。メリナのペースは少しだけ落ちていたが、カリナの息遣いに気付いた瞬間に、カリナを振り切るように右足を踏み出した。ヴァージンの目で見る限り、67.2秒ほどのラップタイムだった。
(ここでペースを上げるのは、まだ早いかも知れない……。でも、待ち続けていたら、また勝てない……)
メリナとカリナの差が、3200m、3400mと少しずつ広がってくる。メリナは、ここに来て独走とも言えるような走りを見せていた。ラップ68.2秒のペースを維持し続けてきたヴァージンも、ついに心を決めた。
(ここから少しずつ、メリナさんに迫っていくしかない……!)
ヴァージンは、赤く輝く「Vモード」をトラックに力強く叩きつけ、3500mで一気にスピードを上げる。メリナとの差は、45mほど。ヴァージンが本気のスパートを見せれば、実力的には追いつけない距離ではなかった。
(私は……、自分の出せる力で、メリナさんやカリナさんと勝負する……!)
徐々にカリナとの差を詰め、ラップ65秒ほどのペースで4000mを駆け抜ける頃には、ヴァージンはカリナにあと5mほどと、手が届くところまで迫ってきていた。だが、カリナがヴァージンの足音だけでその存在に気付いたのか、後ろを振り返ることなく再び加速した。
(もう一段ギアを上げないと、二人を抜き去ることはできない……)
ヴァージンは、4200mを過ぎる直前に体の重心を前に傾け、さらにペースを上げていく。カリナがメリナの10mほど後ろに食らいつくのが見えたときには、ヴァージンとカリナとの差も5mほどに迫っていた。
(残り600mほどでここまでくれば……、二人を同時に抜きされるかもしれない……)
ヴァージンは、二人を抜き去るためにさらにペースを上げた。だが、少しだけペースを上げた瞬間に、ヴァージンは普段のスピードを全く感じられなくなっていた。
(体が……、思い通りに前に出ていかない……。この2ヵ月、レースどころじゃなかった私は……、トップスピードを忘れ始めている……!)
懸命に二人を追うものの、ラスト1周を前にペースを一気に上げたメリナ、そしてカリナとの差を全く詰めることができず、逆に引き離される。ヴァージンは、何度もトップスピードにトライするが、調整不足と、早くからスパートを始めたことが災いし、普段から見せている爆発的なスパートには結びつかなかった。
(追いつきたい……。追いつきたい……。私は、トラックの上で勝負に勝って……、私とアメジスタを応援してくれるみんなを、勇気づけてあげたい……!)
だが、調整できていないことを知った彼女の脚は、ほとんどペースを上げられなかった。最後にようやくスピードを感じたものの、彼女は数秒も経たないうちにメリナとカリナがほぼ同時にゴールを駆け抜けるのを見た。
(今回も、メリナさんに追いつけなかった……)
13分59秒13と、また自己ベストを更新したメリナに6秒近く遅れたヴァージンは、ゴール脇で膝を押さえながら、メリナを見つめた。二人の目が合った瞬間、メリナがヴァージンに近づき、その体を優しく抱えた。
「おめでとうございます、メリナさん……」
「ありがとう、グランフィールド。でも、あなただって、今日は今までで一番、アメジスタを背負って戦ってた」
「アメジスタを……、背負いました……。今は血の流れている国でも、私は背負うしかなかったんです……」
(なんだろう……。私、不思議と涙が出てきた……。悔し涙じゃないのは分かっている……)
すると、ヴァージンの涙声に気付いたのか、メリナは少しだけ笑顔を見せ、ヴァージンの肩を軽く叩いた。
「私、そんなグランフィールドを応援している。私にだって出せないタイムを、あなたは出せるのだから」
(メリナさんには、私の気持ち、伝わったのかも知れない……)
ゆっくりと離れていくメリナの後ろ姿を、ヴァージンはじっと見つめていた。それから、数秒だけ、何も考えない時間が過ぎ去っていった。
その時、ヴァージンの正面から、カメラがゆっくりと迫り、横から一人のインタビュワーがやって来た。
「グローバルキャスですが……、今日はグランフィールド選手に、ぜひインタビューしたいと思うのですが、この後プレスルームに来て頂いてよろしいでしょうか」
「えっ……」
突然の誘いに、ヴァージンは少しだけ戸惑った。3位という結果に終わった彼女には、アメジスタのメディアもいない中で、これまで指名でインタビューを依頼されたことはほとんどなかったからだ。
「アメジスタのことを、どう考えているか……、おそらく世界中のファンが気にされているからです」
「……分かりました。まだ、そこまで考えはまとまっていませんが……、思いついた範囲でなら答えられます」
インタビュワーの表情が、その言葉で変わるのをヴァージンは見た。それと同時に、レースを終えたヴァージンの体から、こみ上げてくる想いをはっきりと感じた。カメラが離れていくと、彼女は先程まで走っていたトラックをその目で見つめていた。
ヴァージンがプレスルームに入ると、既に1位のメリナが多くの記者に囲まれて質問を受けており、2位のカリナがそれを見つめていた。だが、二人のインタビューは想像以上にあっさりと終わり、ほとんど待つことなくヴァージンのインタビューに突入した。
「では続いて、女子5000mを3位に入りました、ヴァージン・グランフィールド選手のインタビューです。今回は3位という成績でしたが、やっぱりもう少し伸ばしたかった感じでしょうか」
「伸ばしたかったです。序盤からいつものラップタイムを守ってきただけに、13分台はいけると思ってました」
「なるほど。レース中は、ローズ姉妹を意識してきた感じでしょうか」
「そうですね。今の私にとって、メリナさんとカリナさんは、そう簡単に勝たせてはくれない相手だと思います」
グローバルキャスのインタビュワーが、そこで一度うなずいた。それから少しだけ間をおいて、再びヴァージンに尋ねた。
「さて、今日のレースでは、グランフィールド選手に多くの応援がありました。私も、レース中に『頑張れ、アメジスタ!』という声を、いつも以上に聞きました。皆さんが、アメジスタを応援してくれることについて、グランフィールド選手はどう思いますか」
「本当に……、力になります。誰も味方しないって言われたこともあって、この2ヵ月ぐらい、ほとんどショックばかり受けていました。でも、その中でも私に元気をくれる人がいて……」
ヴァージンは、そこで涙をすすった。少しだけ目線を下げて、それから再び顔を正面に戻した。
「本当は、私のほうがみんなに元気をあげなきゃいけない立場のはずなのに……、久しぶりに力を背に受けた気がして、あぁ、自分走っててよかった……、心が折れなくてよかったと思ってます……」
ヴァージンの涙声に、プレスルームにいた多くの記者が小さくうなずく。その中で、インタビュワーはヴァージンの目を見つめ、したためていたことを尋ねた。
「最後に……、グランフィールド選手から今のアメジスタにメッセージをお願いします」
(今のアメジスタに……)
ヴァージンは、インタビューを受けることになってからしばらくの間、想定される質問と答えを考えていた。だが、インタビュワーの質問があまりにも自由過ぎて、逆に想定した答えがなかった。
(でも、今日のことを……、ここ数日のことを思い出そう)
ヴァージンは、マイクを持ったまま立ち上がった。それから、語り掛けるように言葉を綴った。
「アメジスタは、残念ですが、いま……人と人とが憎しみ合い、血を流しています。人の命や財産が奪われるまで、戦いは激しさを増しています。でも、アメジスタがそのような悲しみに包まれている中で……、私は、自分の居場所が、それとは全く違う戦いができる場所だということに、今更ですが……気付きました」
ヴァージンの涙はますます大きくなり、そのたびに涙を拭わなければならなかった。それでも、彼女は続けた。
「スタジアムの中では、血は決して流れません。たとえ負けたとしても、命や財産が奪われることはありません。それに……、武器を使わなくなって、暴力に訴えなくたって、勝負ができます」
徐々に声が大きくなってくることに、ヴァージンははっきりと気付いていた。それでも、今のアメジスタに向けて、どうしても言いたいことを、想いのままに訴えようとした。
「そんな、素晴らしい勝負のできる場所のために……、どうしてみんな争うんですか!そんな戦争なんて望まない!アメジスタ人が憎しみ合うために、私は走ってるんじゃない……!アメジスタをこれ以上、暗く悲しい国にしないでください!……お願いします」
ヴァージンは大粒の涙に耐え切れなくなり、ついに両手で顔を押さえた。懸命に訴えたヴァージンに多くのフラッシュが焚かれたことすら、この時の彼女には気付かなかった。