第57話 夢破れたアメジスタに 陽はまた昇る(5)
「とうとう、ここまで行ってしまった……」
呆然と立ち尽くすヴァージンの目の前で、テレビの映像は目まぐるしく変わっていった。グリンシュタインの南西側、かつて「分断されたエリア」だった場所は完全に焼け落ち、行き場を失った人々ががれきを背に倒れていた。そこでも容赦なく戦闘を続ける両陣営、そして「オメガピース」兵たちの姿を、親を見失った子供たちが黙って見ている。難民が市街地から溢れ、戦闘が行われているエリアから押し出されるように逃げていく。
そしてテレビは、最後にヴァージンが何度も目に焼き付けた場所を映し出した。
「陸上競技場に……、行き場を失った人たちが集まってきている……」
何十年も使われていない陸上競技場では、何百人もの難民が次々と立入禁止の柵を乗り越え、生い茂る草の中に分け入って身を潜める。おそらく、戦闘によって住むべき場所を焼かれ、そこを次の住処にしなければならない人たちだと、ヴァージンは数秒で確信した。それどころか、荒れ果てた陸上競技場の土に同化するように、力尽きたアメジスタ人の亡骸が点々と横たわっていた。
「スタジアムは……、こんな悲しいところじゃないのに……っ!」
両手の拳を丸め、テレビに向かって力強く言うことしか、ヴァージンにはできなかった。そこに広がる「死」の空間から、何度も目を背けようとしたが、逆にますます頭に焼き付いてしまった。
「これじゃ……、ますますこの場所を改修できなくなってしまう……。アメジスタが……、いま以上に夢も希望もない国になってしまう……」
最初は強いトーンで言っていたヴァージンだったが、ここにきてついに小声になってしまった。目の前に広がっている光景を、彼女にはとても受け入れることができなかった。
そこに、後ろで黙って見ていたアルデモードが、再びその場に立ち尽くすヴァージンにゆっくりと近づき、彼女の右肩に後ろから左手を乗せた。
「どれだけの痛みと、どれだけの怒りが湧き上がってきたか……、僕にだって分かるよ……。僕だって、スタジアムが血まみれになるの、許せないよ……」
「アル……。私、どうすればいい……?こんな悲しい場所になったスタジアムを、どう改修すればいい……?もし、この光景をソフィアさんが見たとしたら、そもそもここは難民が集うべき場所だったと言ってきそう……」
ヴァージンは、すぐに後ろを振り返り、アルデモードを強く抱きしめた。彼女はその場所から、しばらく手を動かすことができなかった。ただ、アルデモードの表情だけを見続け、同意を求めるかのように目を輝かせた。
しばらくして、アルデモードはヴァージンにそっと告げた。
「それでも、ヴァージンは走るんだよ。それが、今の君にできる、たった一つのことだと思う」
アルデモードは、首を何度か横に振った。次のレース――女子5000m決勝――が、アメジスタで戦線に加わる最後のレースだとしても、それでも世界最速の女子アスリートを応援しようという決意を、彼は見せていた。
「たしかに、怒った状態で走るのはよくないよ。けれど、見たくもない光景を見て、ヴァージンはきっと思うことがあったはず。その気持ちを、走ることによって伝えるんだ。そうしたら、きっと……、アメジスタで起こっていることがおかしいって、スタジアムや中継で応援してくれる誰もが、気が付いてくれると思うんだ」
「アル……」
ヴァージンが弱々しく言葉を返すと、アルデモードはヴァージンに向けてはっきりとうなずいた。
「たとえ、『世界は誰も味方しない』と言われたとしても、ヴァージンがトラックを駆け抜けるその瞬間だけは、みんなヴァージンの想いに耳を傾けてると思うよ」
(私……、こんなところでくじけちゃいけないんだ……。アルだって、ここまで後押ししてくれてるのに……)
「ありがとう……。なんか、アルの言葉で、あと少しだけ走れそうな気がする……」
ヴァージンはようやくアルデモードから腕を離し、悲しくなった彼女自身を振り切るように、何度も首を横に振った。それからもう一度アルデモードに飛びつき、今度はその胸元で泣き出した。
「もし味方がもう一人増えなかったら、今度こそ私はトラックを去っていたかも知れない……」
「大丈夫。ヴァージンの味方は、もっと増えるって」
アルデモードの優しい声は、ヴァージンの耳元で温かな風になって、彼女を蘇らせた。
――さぁ、最速女王ヴァージン・グランフィールドと、前回の直接対決でついに打ち負かしたメリナ・ローズ、世界最高峰のレースでいよいよ決着!どちらが女子5000mの頂点に立つのでしょうか!
スタジアムのディスプレイに映し出される映像は、二日前の予選と打って変わり、二人の長距離アスリートがバチバチと火花を散らす「この日の見どころ」になっていた。そのディスプレイがいくつも連なるプロムナードを横切り、ヴァージンは落ち着いた表情で選手受付に向かった。
(今日の私は、何が何でもレースに集中する。たとえ、私の進む道に未来がないことが決まっていたとしても、このレースだけは勝ちたい……。アメジスタのことを分かってもらうために、勝ちたい……!)
ロッカールームで、アメジスタカラーのレーシングトップスに着替える。今や戦火に包まれている国を、それでも彼女は背負った。そして、彼女の世界記録を何度も叩き出してきた「Vモード」が、ロッカーにいる間から闘志を燃やしていた。
(メリナさんも……、カリナさんも……、みんな本気の私と勝負をしたがっている……。だから私も、目の前で起きていることで、いちいち心折れてはいけないんだ……)
ロッカールームからサブトラックに向かうヴァージンの歩幅は、いつもより大きく、力強かった。目の前からやってくる他の種目の選手たちからも、その力強い一歩は注目を浴びるのだった。
やがて、女子5000mの集合時間となり、ヴァージンは大きく息を吸い込んでからメインスタジアムに入った。だが、この日は一昨日の予選以上に、スタジアムに溢れかえる鼓動が大きいようにヴァージンには感じられた。5000mのライバルが一人メインスタジアムに姿を見せるたびに、それだけでも大きな声で出迎えるのだった。
(もしかして……、これは……、みんなで私を応援しようとしているのかも知れない……)
確信しつつ、ヴァージンはメインスタジアムに右足を踏み入れた。次の瞬間、彼女は口元を押さえた。
――負けるな、ヴァージン!負けるな、アメジスタ!
予選の時には全く見かけなかった、「アメジスタ」の言葉の入った横断幕が、四方八方から彼女を出迎えていた。そして、あちこちで振られているアメジスタの国旗が、ヴァージンに追い風を送っていた。
(みんな……、アメジスタのことを気にしている……。焼けた街と、人々が倒れこむスタジアムに……、みんな私と同じように悲しみ、怒りさえ覚えている……。少なくとも、ここにいるみんなは……)
すると、今回も激しく食い下がってくると思われるメリナが、ヴァージンの後ろから迫り、彼女の真横で目を合わせた。そのまま、ヴァージンに一言だけ告げた。
「私たちの走る場所は、血なんて流れない。だからグランフィールド、怯えないで。今日も最高の走りを見せて」
「メリナさん……。ありがとうございます……」
ヴァージンは、メリナに言葉を返し、自らを応援する声を耳で聞こうと再びゆっくり歩き出した。だが、メリナの背中が徐々に小さくなった瞬間、ヴァージンは気が付いたように息を飲み込んだ。
(スタジアムは、勝負をする場所……。私たちが最高のパフォーマンスで勝負をする、神聖な場所……)
いくつもの国からやって来たライバルたちが、アメジスタ人の世界女王に勝負を挑もうとしている。だが、たとえその勝負に敗れたとしても、必要以上に血を流すことなどないし、負けたライバルが死ぬわけではないし、それぞれの国がそれだけで滅ぶわけではない。
それが、これから始める――ヴァージンが何十回も挑み続けた――勝負の場だった。
(私、今が一番力を出せるような気がする……。今の私は、決して弱くない!)
「On Your Marks……」
ヴァージンの耳元で、スタートの時を告げる低い声が鳴り響く。彼女の目に映るどのライバルも、勝負に挑む鋭い目をしていた。それを見るだけで、ヴァージンの気持ちもさらに高まってくる。静まり返る、スタート前のスタジアムは、それでもヴァージンの走りを見ようと、多くの人々が彼女を見つめていた。
(私は……、今日、自分の想いをこのスタジアムで伝える……。たった13分、14分の世界だけど……、アメジスタのアスリートとしてどう思っているか、みんなに伝わって欲しい……)
彼女の気持ちが最高潮に達した時、号砲が鳴った。