第57話 夢破れたアメジスタに 陽はまた昇る(4)
8月の世界競技会にエントリーした後も、ヴァージンはほぼ毎日のようにアメジスタのニュースに触れなければならなかった。本番まではそのニュースから背を向けたいと思っていても、ある時はアメジスタからの手紙、またある時は偶然つけたテレビで、徐々に悪化しつつある祖国を知ることになった。
(でも、走ると決めたのだから、全力で挑むしかない……)
本番までの間、トレーニングの5000mタイムトライアルで13分台を出すことはできなかったが、落ち込みが激しかった頃は当たり前だった14分10秒台をほとんど出さないようになっていた。
(本番は、きっとメリナさんやカリナさんが、また13分台を狙ってくるはず。できる限りの走りを見せて、最後どれだけスピードを伸ばせるかに、全てがかかっている……)
この年、世界競技会はオメガセントラルで行われ、自宅からスタジアムに通うことができた。大会が始まっても、エクスパフォーマのトレーニングセンターに通うなど、彼女はギリギリまで調整を続けられるのだった。
そして、女子5000m予選当日がやって来た。ヴァージンがいつものように集合の数時間前にスタジアムに向かうと、マゼラウスとメドゥがスタジアムの外でヴァージンを待っていた。
「コーチ、メドゥさん。おはようございます。ものすごく早いですね」
朝8時、トラックではこの日の競技がまだ始まっておらず、スタンドへの入場も始まったばかりの時間だった。にもかかわらず、夫婦が揃ってヴァージンを待っていることは、未だかつてなかった。
「ヴァージン、お前がこのスタジアムにやってくるか、ものすごく心配だからな。いつもの表情を見たかった」
「私も、今日はヴァージンを勇気づけたかった」
「ありがとうございます……。この場所に来てくれて、私、ものすごく支えになります」
ヴァージンがそう言うと、マゼラウスはヴァージンの肩を軽く叩き、かすかにうなずいた。
「そんなかしこまる必要はないぞ。いつものお前で、トラックを駆け抜けろ。そのための応援だ」
「ありがとうございます……。あと……、メドゥさんに聞きたいのですが……」
ヴァージンが尋ねると、メドゥはヴァージンに顔を向けて、「どうしたの」と聞き返した。
「この場所で、どれくらいの人が、私の走る姿を待っているのですか?」
「それは、きっと数えられないくらい……。たぶん、スタジアムに出たときに気が付くはずよ」
「楽しみです」
ヴァージンは、メドゥの手を取って、軽く頭を下げた。それから、それまでよりも大きな歩幅で受付へと進み、本番前の軽いトレーニングをこなした。
女子5000mの予選は、メリナとカリナとメリアムが同じ予選2組で、13分台を出すと期待されている選手の中ではヴァージンだけが予選1組で行われることとなった。メリナは、ヴァージンの出場しなかった女子10000mで優勝しており、多くの陸上競技の雑誌では、今回もヴァージンとメリナの一騎打ちを予想している。したがって、ヴァージンにとって本番は2日後の決勝に他ならなかった。
(それでも、予選のタイムがいいほうが内側からスタートできるから、ここで気を抜いてはいけない……)
やがて、サブトラックの時計が集合10分前を刻んだ。ヴァージンはタオルで汗を拭ってからメインスタジアムに向かった。選手入口の周辺にはそれほど人がおらず、彼女は反応を気にすることなく中へと進んだ。
(えっ……)
その時だった。スタジアムに現れたヴァージンに向けて、その姿に気付いた観客から順番に拍手が上がった。左からも右からも、割れんばかりの祝福が彼女を包み込んだ。トラックでもフィールドでも何も行われていないことがわかると、その拍手はより大きくなっていく。
(やっぱり……、この拍手は私に向けられている……。メドゥさんの言ってたことは、本当だった……)
拍手に交じって、時折ヴァージンの名を呼ぶ声が響いてくる。予感は、はっきりと確信に変わった。
(私の夢には誰も味方しないって、いろんなところで言われていたはずなのに……)
スタジアムの中では、ソフィアの言っていたことがまるで嘘であるかのように、ヴァージンの挑戦を応援していた。そこにいる多くの人々が、ヴァージンが走り出すのを待っているかのようだった。
(少なくとも、ここではそんなことなんてなかった……。この場所が、私の本来の居場所だから……)
ヴァージンは、応援の声を上げた人々、拍手を送った人々に、大きく手を振った。そこまで大胆に振るつもりではなかったが、無意識のうちに肩に力を入れるまで振っていた。
(私は、この場所で走れそうな気がする……!)
結果、ヴァージンの予選タイムは14分02秒89。決して流したわけではなく、トレーニングと同じように全力で12周半を駆け抜けた。予選2組のレースをじっくり見ることはなかったが、ヴァージンの想定していた通りメリナが14分08秒72で全体の2位に滑り込んだ。
(これで、決勝当日はメリナさんに再び挑戦ができる。今度は、負けないから……)
ヴァージンは、スタジアムの外に出る時に一度振り返り、二日後に行われる勝負に向けて意気込んだ。
だが、自宅に戻ったヴァージンを待っていたのは、見慣れた字で書かれた封筒だった。
(ビルシェイドさんからだ……。いったい何を送ってきたんだろう……)
ビルシェイドとは、戦争の力になって欲しいとヴァージンが言われてから、一度も手紙のやり取りをやっていなかった。だが、8月まではレースがあるとしか言っていないことを、彼の筆跡を見て気が付いた。
(もしかしたら、世界競技会が終わったらどうするつもりか、聞いてきたんだろう……)
ヴァージンは封筒を手に持ったまま家に入って、バッグを置くなり勢いよくそれを開いた。
(もし9月以降に戦争の力になって欲しいと言ってきたとしても、少しずつ手ごたえが出てきた以上、しばらくビルシェイドさんに協力はできないと返そう……)
だが、封筒の中に手を伸ばしたヴァージンは、触れたものが何かを気付いた瞬間、真っ青になった。
(どういうこと……。そもそも、この中、手紙じゃないのかも知れない……)
ヴァージンは、手に触れたものがそうであってほしくないと信じ、勢いよく中身を引き抜いた。だが、彼女の繊細とも言うべき神経は、悪い予感を現実に変えてしまった。
「グリンシュタイン行きの片道航空券……、そして……、2週間後に徴兵命令……!?」
筆跡こそビルシェイドだったが、ビルシェイドからの手紙は入っていなかった。その代わりに入っていたものを口にした瞬間、ヴァージンの声はそこから一気に裏返ってしまった。定期便がグリンシュタインに着陸してわずか3時間でスタジアム推進派の前線基地に来てほしいとあり、もし反対派の出した徴兵令に逆らった場合、ヴァージンの銀行口座を差し押さえ、そこからスタジアム建設費を捻出するという注意書きまでついていた。
あの時ビルシェイドが言っていた「戦争の力になって欲しい」という言葉が、いよいよ現実のものとなったのは言うまでもなかった。
(私……、このレースが終わったら、しばらくアメジスタで戦わなければいけない……。でも、私がアメジスタの戦争の最前線に行くなんて、なんかおかしいような気がする……)
ヴァージンは、封筒を静かに置いて天井を見上げた。決勝が二日後に迫っている中で、決して見たくはなかった知らせだった。
(そもそも、行くとか行かないとかの項目が選択できなくて……、私は強制的に戦争に参加させられる……)
長距離走の世界記録を持っている一人の女性。ヴァージンはそれだけの理由で、強制的に祖国アメジスタに連れ戻され、スタジアムの建設を支持する側の陣営に回されることになる。たしかに、ヴァージンは「首謀者」と呼ばれてしまうほど、スタジアム推進派のトップと言っていいほどの立場だった。だが、事ここにきて、彼女は腕を組まなければならなかった。
(私は、もっと走りたいのに……。戦争のために、足も、持久力も使いたくないはずなのに……)
その時だった、人の気配を感じたヴァージンが後ろを振り返ると、そこにはアルデモードが立っていた。
「アル、おかえり……。やっぱり、私の持ってるものが気になるでしょ」
「気になるさ。決勝を前に、ヴァージンがこんな複雑そうな顔をしてるんだもの……」
「表情には出るか……。徴兵命令が来たの」
ヴァージンはため息をつきながら、入っていたチケットなどを一旦封筒に戻し、テレビ棚の上に乗せた。だが、テレビ台の上に乗せるとき、ヴァージンは間違えてテレビのリモコンを動かしてしまったのだった。
「あ、勝手にテレビつけちゃった……!」
だが、ヴァージンはさらにその次の瞬間に息を飲み込んだ。アメジスタからの中継に映っていたのは、大聖堂から南西側に一切の建物が残っていないグリンシュタインだったのだ。